古びて味があるものの不衛生ではない年季の入った暖簾をくぐり、ガラス張りの引き戸に手を掛け横にスライドすれば軽快な音と共に中から威勢の良い声が飛んできた。
入り口から容易に見渡せる店内には四人掛けのテーブル席が三つ、その内一つに若い二人組の客が談笑に耽りながら大盛りのラーメンを豪快に啜り、厨房をぐるりと囲うカウンター席には端におひとり様の客が餃子を肴に昼間っからビールを飲んでいる。
六人座れば埋まってしまうカウンター席の丁度真ん中、店内に入ってからずっと視線を送り手招きする店主の目の前の席に半ば誘導される形で席に着いた。間を開けず二人隣同士で座れば、待ってましたと云わんばかりに店主が身を乗り出し笑いかけてくる。
「ういーす。店長相変わらず元気そうっすね」
「そりゃそうよ。元気じゃなきゃ店やってらんねーってもんよ。今日は前の嬢ちゃんじゃないんだな?今後ともどうぞご贔屓に。んでもって是非ともウチの売り上げに貢献してくれ」
カカッ。躍然たる店主の笑い声につられカウンターテーブルに頬杖をつき店主を見上げる東雲が白い歯を見せた。
店主と東雲の間にある朗らかな空気は二人がどれだけ気心の知れた仲であるかと如実に物語り、他愛ない事でさえ弾み笑い溢れる会話に双方の人柄の良さが見てとれる。
店主と東雲だけではない店内に流れる穏やかで各々好きな風に過ごす居心地のよさにカミキリもまた表情を和ませ、宙ぶらりんになっている足を揺らす。
「んじゃ、私いつものやつ。カミキリさんは?」
「僕は──」
卓上メニューを手に取り表面を眺めては裏返し、また裏返したカミキリは暫し考えた後、おススメと書かれているものを指差し注文した。
店主の活気に満ちた声が自分ともう一人厨房内で働いている店員に注文内容を言い聞かせるように響き、それに合わせ店員がこれまた元気よく返事を返した。
ビリビリと空気が震える程の声量。はじめての体験に呆気に取られているカミキリの前にお冷が置かれた。
「ここ半セルフだかんねー」
勝手知ったる我が家の如く慣れた手付きでピッチャーから水をコップに注ぐ動きを目で追い、席に座り直した東雲に自分の分のお冷を入れてくれた事についてカミキリが礼を述べれば、東雲はこれくらい如何という事はないさと言い厨房で忙しそうに動き回る店長の様子を窺った後。
「私が言うのもアレだけど、ここの店結構美味いからさ。味気に入ってくれたらまた来てやってよ。……替え玉無料になるよう頼んでおくからさ」
こっそりと特に最後の方は顰めた声で耳打ちして、悪戯っぽく特徴的な八重歯を覗かせニッカリ笑った。
しっかり替え玉までして満腹になった腹を軽く撫で擦り、行儀悪く爪楊枝を咥えた東雲は頗る上機嫌だった。
「いや~食った食った、ごっそさん」
「ごちそウさま」
スープの一滴まで綺麗に飲み干し空となった二つのラーメンどんぶりからも見て取れる満足な気持ちに店主の笑みが深くなる。
そろそろ忙しくなる時間帯に差し掛かるため、長居せずにさっさと席を空けるべく二人分のラーメン代を払おうと東雲が上着のポケットに手を突っ込んだ。
「……?」
右側ポケットに入っていたであろう財布の感触が無い。はて、今日は逆側に入れていたっけかなと、左側のポケットに手を突っ込む。奥の奥までポケット内を調べ探す。
「……」
此処にきて東雲の中に嫌な予感が流れ始め、それを否定するように左右のポケットに両手を突っ込み裏返した。出てくる筈だった財布の代わりに小さな塵か埃が切なくパラパラ出るばかり。
「そっかズボンの方か!」
半ば自分に言い聞かせるのと一縷の望みを掛けて口から零れた言葉虚しくハーフズボンのポケットに突っ込んだ手は何も掴めずにすごすごと出てきた。
「財布が無ェ」
あれだけ認めたくなかった事実を口にした途端、スッと認めてしまうもので東雲の表情から一切の感情が消え失せた。
脳裏を過っていくラーメンを食べる前の映像。「替え玉無料だし奢るよ」そう豪語した自分にせめて財布を所持しているか如何か確認してからラーメン店に行けと、東雲は文字通り頭を抱え低く唸った。
こうなってしまったら恥を承知でカミキリにこの場で立て替えてもらうしかない。奢ると言った手前もの凄く恥かしくて情けない事この上ないが致し方ない。
「カミキリさん…、あのさぁ…」
東雲の弱々しい声色に物珍しさを感じたカミキリの大きな目が数回瞬き小首を傾げた。
「さっき奢るよって言ったんだけど、さ。その…、財布、忘れちゃって──。ごめん!私の分も合わせて立て替えてくんない!? マンション戻ったら払うから!」
大人の余裕もへったくれもない。バツが悪そうに頭を下げ片手合掌のお願いしますポーズをする東雲を見詰めるカミキリの瞳は何処までも真っすぐで、ついで小さな口から紡がれる言の葉も残酷なほど真っすぐだった。
「大家サん、僕お財布持ってきてナイ」
カミキリの言葉に間の抜けた声と共に顔を上げた東雲は暫しカミキリと見詰め合い、静かな湖面の如き凪いた心で今の状況を悟った。
「やっべ二人とも無一文でラーメン食ってたんか」
カミキリに至っては東雲が奢ってくれると言ったので財布を持ってこなかった。それは大いに理解できる、何故ならば自分が奢ると言ったからでありカミキリに一切落ち度はない。
再び頭を抱え唸りだす東雲の中で三つの選択肢が浮かぶ。
一つ目は顔馴染みの店であるためツケといてもらう。
「(ありっちゃありだけど、あんましツケとかしたくないんだよなァ…)」
二つ目はカミキリを人質として店に残し、財布をマンションまで取りに行く。
「(それも出来ればしたくないっつーか…)」
であれば、三つ目。一番しっくり来るが、さてはて如何したものか。
東雲が店長に言うタイミングを見計らっていると店の電話が鳴り響き厨房内にいる店員がすぐさま受話器を取った。はじめこそハキハキしていた様子だったが、徐々に雲行きが怪しくなり受話器を下ろす頃には切羽詰まった感じで店長に泣きつきだした。
聞き耳を立てずとも聞こえる話によれば、如何やらこのあと来る予定だったバイトの子が体調を崩して来れなくなったらしい。渡りに船とはまさにこの事。
「店長、困ってるみたいだね」
「! そうなんだよっ!この後来るバイトの子が来れなくなっちまって…。今日の昼店回せられるかどうか…」
「そこで相談なんだが、その子の代わりに私が働くっからさ」
「ほんとか!?そいつァ助かる!」
「んで、その働いた分からラーメン代引いといてくんない?」
ラーメン代払うお金が無いなら体で払うを地で行く東雲に救いの女神が現れたと縋るように潤んでいた店長の瞳が一瞬で冷め、そして、全くもってしょうがないなと鼻で溜息を吐いたのだった。
「よっしゃ!いっちょやったりますか!」
以前働いていた際、着ていた制服がまだ店に残っているのを店長から聞き、東雲は意気揚々とバックヤードに行き数分も経たずして制服に身を包み店内に戻ってきた。前掛けと三角巾にはラーメン店の店名がプリントされ、ふたつ括りにしていた髪を三角巾の結び目から伸ばすようにひとつに括り直されている。
東雲の見事な着こなしにカウンター席の端の方へ移動したカミキリから拍手が送られた。
「んじゃ、カミキリさん悪いんだけどラーメン代稼ぐまでちょっと待っててな」
「っらっしゃいませー!」
「お、そろそろか」
引き戸の開閉音と共に店長の掛け声に合わせ店内に入ってくる人、人、人の数に東雲は気合を入れ、昔取った杵柄を存分に振るうのだった。
伊達に青春にかまける暇もなくバイト三昧に明け暮れていたわけじゃない。地獄のような忙しさである昼時のお客を捌き切るなぞ造作もない。素早く手短にだが愛想よく注文を受け、厨房内で休みなく受けた注文の品を作っている店長と店員に追加注文を告げ、出来上がった品を待っている客のもとへ運び、お会計と客が食べ終わった席を片付け、洗い物の山が出来れば隙を見て山を切り崩す東雲の動きには一切の無駄は無かった。
手際よく働く東雲を見ているだけで心なしか楽しくなる。カミキリの目が厨房内で食器の山を切り崩している真っ最中の東雲を眺めていれば、笑顔を崩しては無いものの滲み出る疲労感と脳裏を過っていく普段であればそろそろ落ち着くはずの忙しさが全く落ち着く気配のない、尋常じゃない忙しさに音を上げる寸前だった。
「店長ォ…なんか私が働いていた時より、…お客多くね?気のせい?」
「いや今日はべらぼうに客が多い…、なんでだ…今日なんかイベントでもあったか…」
「──ただの平日の昼間です。特にイベントらしいイベントがない、ただの、平日の、昼間です…」
「「え?マジ?」」
東雲、店長、店員はそれぞれ言葉を交わした後、引き戸がまた開く音に半ばキレ気味にいらっしゃいませと声を張り上げた。東雲は食器洗いを早々に切り上げ、新たに入店したお客を席に案内した。
四人掛けのテーブル席とカウンター席は常時満席。空いた席からどんどん客が座っていく目が回る様な忙しさの要因はただただ偶然にも客がこの店に入るまで普段決して出来ない行列が出来てしまったがために、行列に引き寄せられた一見客が並び、また伸びた行列が一見客を呼び込むというある種の嬉しい悲鳴が木霊する事態に陥っていた。
「大変ソウ」
お冷を飲み馬車馬の如き働きを見せる三人の様子を眺めているカミキリだったが、猫の手も借りたい忙しさまで発展した店内の端の席に座っている神様こそ、この商売繁盛を齎した大きな要因の一つと言えよう。
たまたま座った端の席。もっとも本来何の変哲もない席であるが、神聖である神がその場所に位置した時点で方角やら何やらの影響でラーメン店の運気が断崖絶壁並みに右肩上がり。そこに丁度お昼時の忙しさも相まって今の状況になってしまっている。勿論カミキリ自身に自覚が無い上に東雲含む三人もまさかカミキリが原因だとは知る由もない。
当初こそ快刀乱麻の働きでお客を捌いていた東雲であったが、捌き切る限界が近付きつつあった。お客に呼ばれ行きたくとも山のように積み上げられた洗い物を切り崩す手を休むことは出来ない。食べ終わったテーブルを片付け、会計をするにあたっても後手後手になってしまう。其処彼処から俄かに漂う始めるお客からの不満な空気に東雲が小さく「やっべえな」と漏らしてしまうというもの。
こめかみから滲み流れる汗を拭う暇もない東雲にカミキリが声を掛けた。
「大家サん」
「ごめん!今ちょっと手が離せなくて、あとにしてくんない?」
「僕モ働く」
悩殺される店内でもはっきり聞こえるカミキリの言葉に東雲の動きが止まり、お客が食べ終わったラーメンどんぶりを一旦カウンターテーブルに置いた東雲は間髪入れずカミキリの小脇に抱えバックヤードへと消えていった。
「マッジ助かる!制服サイズ無いから前掛けと三角巾だけでいいよな店長!?」
「あたぼうよ!この忙しさ誰の手でも借りてぇわ!」
バックヤード越しで会話する東雲と店長に続き店員の「ありがとうございますぅ~」と泣きそうな声を聞きながらカミキリは東雲に前掛けと三角巾を付けてもらい、目線を合わせ屈み肩を掴んでいる東雲の顔を見遣った。
「いい?カミキリさんにして欲しい事はふたつ。お客から注文を受けた品を運ぶ事、お客がいなくなった席の上を片付ける事。それ以外は気にしなくて大丈夫。あと、全部出来なくても私がフォローに入っから」
「分かっタ」
「あと、これも一応渡しておくから」
東雲から渡された紙の伝票とペンを受け取ったカミキリは甚平のズボンポケットに入れ、終わりの見えない戦場と化している店内へと二人揃って出陣したのだった。
「2番テーブル、醬油ラーメン餃子セット、タンタンメンチャーハンセット、エビチリ上がったよ!」
「6番カウンターのお客様お帰りになります!」
「はいっ!お会計少々お待ちくださいませ!」
「「「いらっしゃいませー!!!」」」
普段コールセンター業務のため慣れない仕事であるものの、テキパキ動くカミキリの働きによって店内に充満していたお客の不満な空気は解消されつつあった。
「イラッシャイマセ…ッ」
まだまだ三人の気迫には負けるが、聞き取りやすい声で喋る事を生業にしているしている身としてはカミキリも負けてはいなかった。注文した商品をお客の前に並べる際に確認のため復唱し、テーブルを布巾で拭いている時にお客が帰れば手を止めお客を見ながら「ありがとうゴざいマシた。マタのご来店をお待ちしてオりまス」とスラスラ詰まらず言ってみせた。
が、如何せん忙しすぎた。やる事の種類は少ないが、量が多すぎる。運んでも運んでも終わらず、片付けても片付けても次が来る。しかも、殆どが一見客のためお冷を入れる作業がひとつ増える始末。そう一見客がゆえに勝手が分からず、東雲に質問するので彼女はその度に手を止めなくてはならない事態が増えていった。
「申し訳ございません。ニラレバ炒めでニラ抜きは当店取り扱っておりません」
「そうなの?」
「はい、申し訳ございません」
「すみませーん注文いいですかー?」
「では、失礼致します。はい、ただいまお伺いいたします!」
別席からのお客の呼びかけに東雲がその場を後にしようとした矢先、したかった注文が出来ず少々不貞腐れたお客が東雲に向かって空のグラスを分かり易いように目の前で揺らした。
安易な水が空になったから淹れろアピールに東雲は笑顔のまま青筋を立てた。お冷を注ぐべく近場のピッチャーに手を伸ばし、その軽さに思わず、しまったと口から零れそうになったのを無理くり飲み込んだ。ほぼ空に近いピッチャーを持ち「すぐ新しいのをお持ちします」と東雲が述べれば、お冷のお代わりを所望したお客の顔が厭らしい笑みを浮かべた。
「(こいつ分かっててやってんな)」
反射的にピッチャーで後頭部をぶん殴りたくなる衝動を抑え東雲がお冷を補充するため厨房に向かおうとした時、先程の別席からのお客が少々苛立った感じで東雲を呼ぶ。その声色から一分一秒も待てない、待たせたら怒鳴り散らすぞという雰囲気に東雲が謝罪の言葉を口にする寸前。
「お待タセ致しまシた。ご注文をお伺イ致しまス」
念のため持たされた伝票とペンを手に持ち、お客の注文を受けるカミキリに東雲の視線は釘付けになり、ノールックで店員からお冷たっぷりのピッチャーと空になったピッチャーを交換してもらい、何も言わずに先程のお客にお冷を注ぎやや雑に置いた事でお客から睨まれたが今の東雲にとってはそんな事にかまけている暇は無かった。
注文を受け終えたのか、カウンター越しの厨房にいる店長に向かって伝票に書いた注文をカミキリが読み上げる。
「酢豚定食ひとつ、肉野菜炒め定食大盛りひとつ、入りましタ」
「あいよ!酢豚定食、肉野菜炒め定食大盛りー!」
一部始終を見ていた東雲がカミキリに近付き感嘆の声を上げた。
「やるじゃんカミキリさん」
カミキリが受けた注文内容は東雲も聞き耳を立てて聞いていたので間違いはない。五月蠅い店内かつ、お客の活舌は決していいものだとは言い切れないのに、カミキリは聞き間違わず注文を受けた事に東雲は小さく浮かんだ疑問を自己解決するのだった。
「(そういやコールセンターで働いてるんだった)」
聞き取りやすい声で話し、相手の聞き取り辛い言葉を聞く仕事に就いているカミキリにとっては注文を受ける事なんて苦もないのだろう。
「僕も注文受けるカラ」
「ありがと、すっげー助かる。いや~私がフォロー入るどころかフォローしてもらっちまって」
柔らかに微笑むカミキリに東雲もニカリと笑い、引き戸が開く音が聞こえた瞬間。
「いらっしゃいませー!」
「イラッシャイマセー!」
と元気よく二人の声が重なったのだった。
終わりの見えなかったお客の波はピークを乗り切ったのか次第に落ち着きはじめ、漸く空席が疎らに出来始めた頃には毛色の違う接客業から来る気疲れ染みたものからカミキリは一人息を吐いた。
「カミキリさんもう大丈夫だから休んでていーよ。あとは私ひとりでやっからさ」
まだ働ける意思があるのにも関わらず、脇の下に手を突っ込まれぬいぐるみよろしく東雲に抱っこされたカミキリは初めに座った席と同じ場所に座らされた。カミキリの大きな目が異議申し立ての色を浮かばせるのに合わせ、東雲がカミキリの前にコトリと杏仁豆腐が入った小鉢を置く。
瞬間喜色に満ちたカミキリの目が輝き嬉しさからか宙ぶらりんの足を揺らす。
「これ私からのおごりな」
脱いだ三角巾をテーブルに置き、東雲から渡されたスプーンを持っていざ食すべく白い山を切り崩し口を開けたら厨房から待ったがかかった。
「おいおい。勝手におごってくれるなよ」
店長のムッとした声にカミキリは開けていた口を閉じスプーンを下ろす。勝手に食べてはいけないものだったのだろうか。一抹の不安がカミキリの中に生まれるも其れは杞憂に終わった。
「そいつは俺のおごりだっての。カカッ!」
しかめっ面だった店長の顔がくしゃりと笑顔になり、それに合わせて東雲が「そうっすよねー」と笑う。
これにて何の憂いなく杏仁豆腐が食べられる。スプーンの上に掬われたままの白い小山をカミキリが頬張った。瞬間、口の中に広がる冷たい甘さが働いた体に染み渡っていく。傍から見ても分かるほど美味しそうに食べてくれるカミキリを見て微笑んでいた東雲が引き戸が開けられる音に気付き、視線と意識を店の入り口の方へ向けた。
「あっ!コーさんにノブさん、やっさんじゃん!久しぶりー!」
明らかに砕けたテンションになる東雲を見るに如何やら馴染みのお客が着た様子。お客が口々に東雲に対して元気だったか、久しぶりに顔が見れてよかったと口々に言う。
「今日はやけに混んでてなァ」
「ちょいと時間ズラして来たわ」
「いっつもお昼時以外は暇そうなのにな」
「「「「ガッハッハ!」」」」
お客三人と一緒に豪快に笑う東雲に店長から苦言が飛ぶ。さっさと注文しないと店長から追い出されちまう、なんて冗談を言いながら東雲は三人から特に注文らしい注文を受けず厨房に向かって「いつものー!」と声を掛けた。それでまた店長と店員が了承の言葉を紡ぐのだから、カミキリは楽し気に談笑し始めるテーブル席を見ながら杏仁豆腐を頬張った。何を頼むのか分かり切っている関係が素直に凄いと思った。
「今日の昼が特別だっただけで普段はこんな感じさ」
カミキリが食べ終わった杏仁豆腐の器をカウンター越しから手を伸ばし回収する店長が続ける。
「東雲ちゃんはさあ、誰とでも普通に話すだろ?気難しい人だろうが、怒りっぽい人だろうが、ちょっとばかし面倒な人だろうが分け隔てなく。それがまた良くてよォ、気が付けば彼女に心開いてな?皆足しげく東雲ちゃん目当てに店に来てたのが、いつの間にか此処の店がいいってんで来てくれるようになっていって、こっちからしたら万々歳ってやつだ」
お冷が目の前に置かれたのでカミキリがそれに口を付けふとした疑問を零した。
「じゃあ、何で辞めさせちゃったノ?」
「辞めさせたっつーか、東雲ちゃんから辞めたいって申し出たってのが正しいな」
困った顔で笑う店長がテーブル席で相変わらず楽し気に談笑に耽っている東雲を見遣る。
「東雲ちゃんあんなんだろ?勘違いしちまった輩が出てな。初めこそ大人しかったが徐々にエスカレートして、しまいにゃ他のお客にも迷惑を掛ける事態になってな……。そん時は他のお客に迷惑かけたって東雲ちゃんそいつの事思いっきり殴り飛ばして、俺もそいつを出禁にしたんだが…。まあ、常連客は事情知ってるからいいが、事情を知らないお客から暴力店員がいる店っていうレッテルが貼られちまってな。売り上げ減少、閑古鳥が鳴き止まない事態に東雲ちゃん自ら店を出て行ったってわけ」
「そうなんダ」
「もうそんな噂とっくに消えてるから俺としては東雲ちゃんに戻ってきて欲しいってのが本音だな。お客は皆彼女の人柄が好きで惚れてる、──勿論この俺もな、なんつってカカッ!」
冗談半分本気半分で言う店長にカミキリはお冷に口を付けた。店内は初めて入った時のように穏やかで居心地の良い空気が流れており、その一端を担っているであろう東雲を見詰めてからカミキリは店長に向き直った。
「戻らナいよ」
カミキリの放った言葉に店長は何故と聞き返せば、さも当たり前だという風にカミキリは言い切った。
「東雲マンションの大家サんだから」
プラスチック製コップの中で氷がカラン音を立てる。冷水が無くなり空となったコップを横から伸びてきた手が攫う。カミキリと店長が其の手の持ち主を見れば、コップを持ち冷水を注ぐ東雲と目が合った。
「そういうわけだから店長、私不労所得で生きてくって決めたから働かないんだわ。今日はまた特別だったってことで」
何時の間にかカウンターテーブルの方に戻ってきた東雲の背中に常連客の残念だかそうじゃないんだかの野次が飛ぶ。それを聞いた東雲がピッチャーを置き「なにおー!」とこれまた怒っているんだか怒っていないんだか笑いつつテーブル席の方へ戻っていく。
その背中を店長が鼻で息を吐き肩を竦めた。やれやれ残念だと零す割に全然残念そうに見えないその姿にカミキリは冷たくなったコップを両手で包み込んだ。
「はい、今日働いた分。ラーメン代は抜いてあっから」
「サンキュー店長」
暖簾を片付け入れ終わった店内で店長が東雲に茶封筒を渡した。中身は言うまでもなく本日分の臨時収入である。久方ぶりの労働で得たお金に東雲の顔がだらしなさを増し、それを良かったねと見上げていたカミキリの前に店長は彼女にも渡したのと同じ茶封筒と差し出した。
「これは君の分。おっと、労働にはそれ相応の対価が必要だからな。タダ働きさせるのは俺の信条に反する。とっとけとっとけ」
断られるのを見越した店長が半ば強引にカミキリに茶封筒を持たさせた。
「よかったじゃーん」
「……うん。ありガとうございマス」
少し照れ恥ずかしそうに茶封筒を両手で掴むカミキリに店長と店員はうんうんと頷いた。
店が閉まったのを確認してから東雲とカミキリはマンションに向かって歩き出す。
「折角臨時収入が入ったんだし、コンビニで何か買って帰ろっかっとその前に」
「?」
「はい、これカミキリさんの分のラーメン代。奢るって言ったじゃん?取っといて」
東雲からおつりが出ることなくピッタリな額をこれまた強引に掴まされたカミキリが自分の手の中にある小銭を見下ろした後、ググっと東雲に向かって小銭を握らされた拳を突き出した。
が、またまたそれを見越していたのか東雲は軽やかに避けた。
「イラナイ」
「私の奢りだし取っとけって」
「返ス」
「やーだよー」
最終的にマンションに着くまで追いかけっこが始まり、いつ時かと追う方追われる方が逆だなんて思いながら東雲が笑いながら駆け、カミキリもそれにつられ笑いながら東雲を追い掛けたのだった。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.