恐ろしい人食いの化け物が徘徊する闇深い夜の森、滅多に人が近付きたがらない恐ろしい森の奥、月から降り注ぐ月明りに照らされた小高い岩の上に影がふたつ。
「今宵も素敵な歌だったよ、姫」
「……あ、…ありがとう」
ぱちぱち。隣から拍手を送る人間の子供に狼の心がむず痒くなりました。
はじめて出会った月夜の日から、狼は人間の子供の隣で人間の子供のために、決してうまくはない歌を歌い続けていました。
どうしてこんな関係になったのだろう狼は今でも疑問に思います。ですが、どうにも隣に座る毎夜小さな花束を携え訪れる人間の子供をどうこうする気は起きませんでした。
容易く肉を切り裂ける凶暴な爪の中ある贈られた小さな花束を見下ろすたび、狼の心の中に優しくあたたかなものがじんわり広がっていきます。
決して壊さぬよう小さい花束を持ち上げ、花たちの香りに鼻を埋めました。
とてもいい匂い。狼の沢山の目がうっとり閉じられたその時、狼の黒い毛がぞわり逆立ちます。両手で持っていた小さな花束がとさり、と落ちてしまいました。
閉じていた狼の沢山の目が吃驚して開き、いつの間にか自分にもたれかかる人間の子供を凝視します。
そういえば隣から声が聞こえていないことに気付きませんでした。
「寝ちゃった…?」
いくら人間、強いてはこの人間の子供を食べないのだとしても、狼はその警戒心の無さに息を吐きました。
自分では決してその気が無くても鋭い爪先は何ものも切り裂き傷つけてしまいます。慎重に慎重を重ね、ゆっくり静かに優しく狼は人間の子供の肩をその黒く大きな手で包み込みました。
「あたたかい」
けれど、それ以上に狼はこのおぞましく凶暴な爪と牙を持つこの姿で人間の子供に触れ、また人間の子供もこの姿に怯えず寄り添ってくれる事実に胸の奥がきゅうっとなりました。
狼の視界が涙で歪み始めた頃、うぅん…と人間の子供が目を覚ましました。頭の上に乗せられた冠がずり落ちそうだったので狼が傷付けないよう爪先でちょいと直します。
「起きた?」
「嗚呼、ごめん。寝ちゃってた。君の隣はとても落ち着くから」
ドキリ。人間の子供の柔らかな笑顔に狼の心が跳ね上がり、思わず飛びのきたい衝動を無理やり抑えこみます。
ですが、あわあわと落ち着きのない狼に人間の子供がきょとんとした顔で尋ねてきます。
「どうしたの姫? もしかして僕、君に寄り掛かって寝ちゃって、た…?」
申し訳なさそうに目を伏せ、今にも謝りだしそうな人間の子供に狼が慌てて言葉を重ねます。
「な、なんで、あなたはわたしのことを、姫っていうの?」
またしてもきょとんとする人間の子供は狼からの問いかけに自分が贈った小さな花束を拾い上げやんわり微笑みながら答えました。
「それは君が歌姫、だからだよ」
月夜の光に照らされた人間の子供の笑みに狼は目を奪われ、息をするのすら忘れ見入ってしまいました。
「歌姫、だから姫……変かな?」
「ううん、全然変じゃない」
人間の子供に話し掛けられハッと我に戻った狼はうまく回らない頭でなんとか言葉を見繕います。
「よかった。はい」
再び手渡された小さな花束を渡す人間の子供の顔を見て、ホッと狼は胸を撫で下ろしたのも束の間。
「ありがとう、…えっと……」
今更ながら狼は人間の子供、彼のことをどう呼んだらいいのか分かりませんでした。
”おい”や”人間”では駄目な気がします。大きな口をパクパク開けては閉めてをくり返す狼に人間の子供は何かを察したらしく、照れ臭そうにはにかみながら言いました。
「王子、って呼んでくれると嬉しいな」
たしかに身に纏っている衣服や頭の上にある冠を見れば位の高い身分のものだということは狼にも分かります。
王子と呼んで欲しい、とお願いされた狼は彼のことを王子と呼んでみました。
「……王子…」
馴染みのある言葉。
でも、はじめて口にしたその呼び名は驚くほどしっくりきて狼は何度も噛み締めるようにくり返します。
「…王子……」
何度も何度も狼が自分を呼ぶので、王子は呼ばれるたびに何度も何度も応えました。
とてもとても嬉しそうに目を細め、優しく狼……姫に頷き自分の目を引き裂き潰した恐ろしい漆黒の手に自ら手を重ねました。王子が自分とは大きさが違い過ぎる姫の指の一本をぎゅっと握れば、びくりと姫が体を震わせるも恐る恐る指先にそっと力を込め小さな手を握り返しました。
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