奇跡は滅多に起きるものじゃない。それこそ一生を過ごす中で起こるかどうかも曖昧で不安定に溢れ眩い光に満ちた希望染みた存在だ。もっとも待ち望むのではなく自らの手で手繰り寄る者のもとに来るべきものだと思っている。
そして、その奇跡を一度経験している。奇跡は滅多に起きるものじゃない。それは重々承知している。だけどおかしいかな。再び奇跡が起きるのを神様頼みしてしまうほど縋ってしまう自分自身が情けなくて仕方ない。
足の怪我は医者から驚くほど驚異的な回復だと感嘆の声を上げられた。実際当初無かった足の感覚も薄っすらとだが戻り始め入院期間も当初予想していた日数よりかなり短く済んだ。車椅子生活も早々に味気なかった松葉杖を自分の好みに彩ればこれまた味気ない日常が楽しくなってくる。
時間が無いと焦っていたのとは違う忙しない急かす気持ちが体をむず痒くする。ここで焦ってはいけない。然るべきステップを踏んでから次に進まなければ治るのが逆に遅くなってしまう。いくら心が自由であろうとも今無理に体を振り回したところで何のメリットもない。
ほんの少し歯がゆい気持ちを飲み込みリハビリに勤しんでいれば冬の季節にもかかわらず歩く春がやってきた。
ちらついていた不快感が一瞬で吹き飛ぶ底抜けに明るく元気な声と笑顔につられ吹き出せばまた表情が変わる。ころころ変わる顔をもっと見たくて見ていたくて松葉杖を動かした途端、バランスが崩れ半ば凭れかかる形で彼女に抱き留められた。
かっこ悪いなあ。乾いた笑い声と共に呟けばそんなことないよと返ってくる。そこから止めどもなく溢れる直向きなエールに折角見て見ぬふりをしていた何かが芽生え始めた。
凭れていた体を起こしながら彼女の両手に自身の両手を添える。変わらず疑うことを知らないしないキラキラ輝く彼女の瞳を見つめ息をするように嘘を吐いた。
歩く練習をしたいから手を握っていて欲しい。
思わず、ぎょっとする彼女の表情からはひしひしと「もう歩いて大丈夫なの?あまり無理はしない方が」と心配し案じる気持ちが伝わってくる。無理はしない、でも先生には内緒だよとウィンクすれば仕方ないでありますなあと笑い返してくれた。
反射的に痛みを身構えてしまう体が本当憎たらしい。襲い掛かる痛みが全く怖いわけじゃない。知らず抱いた恐怖心は中々払拭されないのは事実だ。だけど、ぎこちなく不格好でたった数歩だろうとも真剣に付き合ってくれる彼女が、手を握りしめ離さない野乃はながいるというだけで元気が湧いてくる。
健康体だった頃はなんてこと無かった距離も息絶え絶え汗が滲むくらい疲れてしまった。君は情けなくなんかないって言ってくれたけどやっぱり今の自分は情けなく感じてしまう。
ベンチまでの道のりを彼女の肩を借りて進みベンチに座るや否や俯き深い溜息を吐いた。
「お疲れさまアンリ君」
額から滲み流れる汗をハンカチで拭う彼女に芽吹き始めた何かが成長の一途をたどる。心から相手を思い応援する姿は始めこそ無責任だと突っぱねていたというのに今ではそれがとても欲しくてたまらない。
こちらの気持ちなんて知らず汗を拭い続けてくれる彼女の手に持っているハンカチをあれこれ理由を付け次に会う機会のだしにこじつけようかと考えていた矢先。
彼女が徐に汗を拭いていたハンカチに視線を落とした。何かに思い耽る眼差しにはまだ癪に障るような感情は宿っていないもののあまり気分がいいものではない。彼女の視界にちらつく誰かさんに嫉妬しているのをもう一人の自分が冷静に指摘する。
分かっている。そんなことは胸の奥が軋み痛むほど理解している。彼女が誰かのことを思い考えるのをとやかく言う権利は残念ながら持ち合わせていない。それでもやはり彼女の瞳の先に映り込む若宮アンリではない存在が小憎らしいったらない。
「(せめて僕と一緒じゃない時だったら良かったのに──。それはそれで駄目だねイラってする。でもまあいいさ。その誰かさん以上に僕のことを君の瞳に映しこめばいい話なのだから)」
一先ず動きが止まっている彼女の手からハンカチをするりと抜き取り洗って次回会う時に返す、なんてありきたりな約束を取り付けた。
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