【ヨセチセ】鈍色半月

とある部屋に閉じ込められてしまったチセとヨセフのお話。

例えるなら水槽の世界を反対にした世界だった。透明なガラスケースに閉じ込められ四方八方前後左右上下水の世界に沈んでいる。ダイバースーツや空気ボンベの必要ない水底。頭上から降り注ぐ水面の光はゆらゆら揺れ、足元から不規則に浮かぶ泡が上へ上へと吸い込まれていく。
四角い閉鎖空間を囲む青の世界は何故か怖いと感じられず、ただただ神秘的で不可思議で静かに落ち着ける空間だった。
ただ一人を除いて。
青の世界に見惚れているチセをよそに欠け残った手で部屋をぐるりと一周し壁の材質や施された術を観察するヨセフは部屋に設けられた扉らしき場所の上部に掲げられた看板を見て嘆息した。

「”腕を一本差し出さないと出られない”か。この部屋の製作者は少しばかり頭がイカレてる」
「(少しなんだ)それにしても一体この部屋どこに沈んでいるのだろう」
「さあね。見た感じ僕らの世界からそれほど離れていないっぽいね」
「泳いでる魚や水草類が見れれば多少うーん、それでも場所の特定は難しいか」
特殊な魔法、奇怪な魔術の類が施されているこの水槽はきっと扉が空いたところで中に水が入ってくることはない、と信じたいチセは思ったことを胸の内に留めた。
「で、この扉の鍵なんだけど。君が腕を一本差し出してよ」
ある種屈託のない笑みを浮かべ言い放つヨセフが続けざまに言葉を紡ぐ。
「だって僕にはもう一本しか腕がない。君にはまだ二本ある。だから、ね?」
淀んだ右目は残虐的な輝きを放ち、光すら飲み込む伽藍洞の左目の底はどこまでも深く暗い。
チセは両手を見下ろした。たしかに二本、ある。やわく開いていた両掌にグッと力を込め握った。
「腕一本差し出して扉が開く保証なんてどこにもない」
若草色に萌ゆる両目から放たれる強い信念の宿った眼差しがヨセフに注がれる。チセの直向きで強情な眼差しはヨセフを煙たがらせるには十分な力を持っていた。
「ほんと嫌になる」
それはチセに対していったのか、はたまたこの部屋の事を言ったのか。おおよそ前者である可能性が高いものの、チセはとかく追求しなかった。
苛立ちが募り乱雑に髪をかきむしるヨセフにチセが何か声を掛けようとした矢先、彼女の耳に聞き捨てならないフレーズが入り込む。

「ここに猫の一匹でもいればいてくれればすぐ出れたってのに」

気遣う想いが吹き飛び、かわりにボコボコと黒く苦い感情が心の中に湧き上がる。呪われた手がチセの感情と同調してゴキゴキと関節を鳴らす嫌な音を立てれば、少し訝し気に眉を顰めたあとヨセフがニタリと笑った。
「お前たちとのおままごと如きで僕を改心させたと思っていたのかい?」
片腕を広げチセに歩み寄るヨセフの顔には溢れんばかりの悪意に満ち溢れ。彼女が忌み嫌う言葉をつらつら重ね煽っていく。
顔を俯かせ歯を食いしばる様にヨセフの隻眼が弧を描き睨み上げた。
「猫のなにがいいの。それとも猫がダメなのかい?お前だって自分の腕を差し出すの嫌がってるじゃないか」
チセは答えない。顔を俯かせ歯を食いしばるだけで何も語らない。恐らく暴発しそうになっている呪いを抑え込むのに必死なのだろう。
鼻でため息を吐いたヨセフは身を翻し、チセから離れる形で透明の青い壁に寄り掛かった。
「もうつかれた。僕は寝る」
未だにチセの溜飲が下がっていないのは一目瞭然。無言でヨセフと向かい合う形で壁に寄り掛かり膝を抱え顔を埋めた。色々言いたいことがあるが、珍しく言葉にできないのか、あえて言葉にしないのかは定かではない。
変わらず下から上へのぼっていく泡はふわふわと光の中へ溶けていく。






水の揺らめきと微かな寝息が満ちる閉鎖空間。
扉の前に無造作に置かれた片腕が独りでに浮かび、指先が青色の壁に触れるか否や。
「差し出さないと出られないって書いてあったけど、取り返しちゃいけないなんて何処にも書いて無かったよね」
凄みを利かせた青年の声に浮かんでいた腕がピタリと止まった。限界まで瞠ったヨセフの暗がりが自身の腕を睨みつけ、次の瞬間獣よろしく自分の腕に食いつき見えない力から自分の腕を奪い取り戻した。
ギリギリ食い込んだ歯から徐々に力が抜け、口から腕が離されると腕は床に落ちずふわりと空に舞い、千切られた肩に戻りくっ付いた。
「慣れた腕をこれ以上無くしたくないってのに」
不便で仕方ない。
肩を数回ぐるんと回し腕が完全にくっ付いたのを確認するヨセフの前で鍵の掛かっていた扉が静かに開いた。
外開きする透明な扉の口がどんどん広がるにつれ、外の水が中に入るという楽しい展開は結局起きなかった。四角い扉の形に合わせて張られた薄い膜が水の侵入を防ぎ、それは押せばたわみ離せば戻る弾力性を持ち、もっと水の中へ腕を押し込めば腕の形に添って薄い膜と水の間に空気の層を含み丸く膨らんだ。直接水に濡れる心配もなければ窒息する危険も無さそうだ。
チラリと後ろを見遣る。いつの間にか本気で寝ているチセにヨセフが特大のため息を吐いた。
「このまま置いていってもいいけど置いていったらいったで面倒な目に遭うな絶対」
脳裏を過る骨頭と黒犬にヨセフは頭を抱え、不承不承と言わんばかりの足取りでチセの傍に歩み寄る。
完璧に寝ているお陰でヨセフが近づき、かつ雑な感じで肩に担いでも起きやしない。
「ったく。こんなの僕のガラじゃないっての」
なにせ腕が既に一本足りない故、ずり落ちるチセを何度も担ぎなおし進むヨセフの足取りは遅く重い。
「僕ひとりだったらもっと楽に出れたって……
皮肉を漏らしつつ、ヨセフはチセと共に薄い膜が破けん勢いで水中に漂う閉鎖空間から足を踏み出した。
予想通り薄い膜は空気の層を挿み二人を包み込む。部屋に残っていた足も踏み出せば浮力を増した泡の球は水面に向かって浮上し始めた。浮上するのに比例して遠ざかる透明の箱が足元から離れていき、まるで暗い水底へ沈んでいっているように見える。
興味薄で見送っていた暗がりの視線が水底から水面に向けられた。
「一体どこに出るのやら。出来ればご近所だといいなあ」

その後、ヨセフの要望が通ったのかそうではないのか。庭に設けられた水瓶の中らひょっこり顔を出した二人に庭の手入れをしていた絹女給が驚き、その場で数センチ浮いたという。