夜半過ぎ。カーテン越しから漏れる街灯の薄い光に背を向け横たわる安藤は眠れずにいた。使い慣れたベッドの中で横向きになり寝ようにも眠気が一向に来ない。
規則正しく刻む無機質な音がやけに大きく聞こえる。
「(こんなことになるなら予めシーツ諸々洗濯しておくべきだった)」
厳つい顔が後悔の念で苦々しく歪むものの、寸刻経たない内に顰めていた顔を綻ばせた。腕枕よろしく鍛えられた二の腕の間から覗く橙色の髪が時折揺れるのを見るに腕の中に収めた相手も同じく眠れないのだろう。眼鏡を外した目は固く閉じられ息を潜めている。
「(三谷裳、緊張してるのか)」
その初心さが可愛いな。体の横に付けていたもう片方の腕を縮こまる三谷裳の腰に置けばビクリと体を跳ねらせた。無骨な安藤の手が壊れ物を扱うかのように三谷裳の細い腰を抱き寄せる。僅かばかりだった二人の隙間を埋め無くせば窮屈そうに二人の間で潰れた三谷裳の両手のひら越しから早鐘のように打ち鳴らす鼓動が伝わってきた。
「(俺と同じだな)」
引き寄せ近付いた三谷裳の額を前髪越しにやわく唇を押し付ける。仄かに香りだつ石鹸交じりの汗の匂いに安藤の目が眇められた。これが三谷裳の、好きになった女の匂い。
そして、その三谷裳は安藤の匂いがしみ込んだベッドの中で安藤に抱き寄せられている。好きな女が自分の匂いに包まれている。あたたかく甘い幸せが胸の中に滾々と湧き枯れる気配はない。
腕枕にしている腕を曲げ三谷裳の後頭部を包み込む形で安藤はゆっくり彼女の髪を梳き頭を撫で続ける。
「(嗚呼。三谷裳、三谷裳、三谷裳……)」
布越しの体温がこれほどまでに愛おしく、抱きしめてより一層感じる体格の違いに庇護欲が芽生え、いつ時かのように細い腕が腰もとに巻かれる幻想を知らず抱いてしまう。
変わらず三谷裳の両手は安藤の分厚い胸板に置かれ続け、弱々しい力で縮まった距離を戻そうとしている。
「(えっ? なんでなんでなんで!?)」
安藤の体躯の良い檻の中で三谷裳はただじっとするしか出来ない。呼吸も上手く出来ず不規則な呼吸をくり返す。どこでどうなったこの現状。どうしてこんな状況に陥った。せめてもの抵抗は殆ど意味をなしていない。
このままでは二人の胸が接触するのも時間の問題。
「(つか、安藤さん力つよ…!胸もがっしりして、……じゃない!!)」
三谷裳は焦っている。今まで生まれてきた中で人生最高に焦り困惑している。
「(こ、こういう時はまず今に至るまでの経緯を振り返るんだっ。えーっとたしか──)」
安藤の部屋のどこかに置いてある時計の針の音と三谷裳自身の鼓動が彼女の頭の中を埋め尽くす。結果、上手く思い出せなかった考えが纏まらなかった。もといこの状況で冷静に頭が動くわけがない。少なくともアルコールの類や、合法じゃないあれやそれはやっていないのは分かった。
では、何故このような状況に陥ってしまったのか。冷静な判断を欠くような興奮状態にでもな、
「(思い出したわー。安藤さんとネトゲやっててボイチャでなんか色々話して、わたしがネトゲやるテンションのまま何でか安藤さん家に突撃しちゃったんだわー。たっはー)」
かなり動揺した安藤が玄関を開けるや否や彼の部屋に突撃する三谷裳。ボイチャでも電話越しでもなく直接話したかった熱は純粋に騒がしく賑やかで。興奮冷めやらぬ三谷裳に安藤も満更でもなく二人でネトゲを始めた、までは思い出した。だが、残念なことに三谷裳の記憶はここで一旦途切れ今に至る。
「(一番重要なトコすっとんでんじゃねぇえええ!)」
行き場のない憤りは三谷裳の中を爆走し、ついにはある意味全ての元凶はこいつだという八つ当たりに近い形で安藤に向けられた。固く瞑っていた目を開け諸悪の根源を睨みつける、予定だった。
「(あれ寝てる?)」
間近で聞こえる穏やかな寝息。気付けば三谷裳の頭を撫でていた安藤の手はくったりとベッドに沈んでいる。
心なしか強固な拘束も緩んでいた。これはチャンス。起こさぬよう細心の注意を払い三谷裳が脱出を試みたが、僅かな気配を察し逃げようとする体を抱き寄せた上に三谷裳の頭を自身の首元の隙間に押し込んだ。筋張った首元に埋められた三谷裳の顔はどんどん熱を帯び赤く染まる。
「(これで起きてないとか嘘だ! 絶対起きてわざとやっ……安藤さん大柄パワー型だから体引き締まってんなーって、違う違う!)」
思わず頭を振った所為で髪が揺れ、そのこしょばゆさから安藤が身じろいだ。いっそこのまま起きてくれ、あらん限りの期待を心の中で念じに念じる。結果、三谷裳の願いむなしく安藤は短く唸っただけで覚醒に至らない。
「(ガッテム)」
気持ちよさそうに寝るばかりで起きる気配は微塵も感じられない。苛立ちが募りいっそ強硬手段実力行使を駆使して起こす算段を目論もうとしていた矢先、あれだけ縁のなかった眠気が突如三谷裳に襲い掛かった。
程よくあたたかくて大きなものに包まれる何とも言えない安心感は恐らく警戒心の欠片もない寝入っている男から発せられるもの。足元から背後から近寄る抗いのない眠気。張り詰めていた緊張の糸を保つのが難しくなってきた。
「(あーダメ、眠い。これはもう開き直って寝るしかない。わたしの隣にいるのは安藤さんじゃなくて、そう、これは抱き枕特大サイズの抱き枕。だから合法、ごう、ほ、……)」
抱き枕であれば腕を伸ばし抱き着くのは何ら問題ではない。支離滅裂な発想は思考の限界を意味し、実際恐る恐る腕を伸ばして抱き着いてみればそこそこ抱き心地がいい。この際少々触り心地が逞しいのは置いておく。だが、これで完全に三谷裳の緊張の糸が切れ、規則正しく鳴る心臓の音を耳にしながら意識を手放した。
「寝たのか三谷裳?」
軽く閉じていた瞼を開け安藤は腕の中にいる三谷裳に問い掛ける。
声を掛けても何だかよく分からない寝言を言い緊張感のない笑みを浮かべるばかり。
別に深い意味はなく考えなしにした狸寝入り。途中何度も誤魔化すのに苦労したが、苦労の甲斐あって隣で眠る三谷裳の寝顔を見るのに成功した。まさか腕まで回してくれると思わなかった安藤の顔は緩みっぱなしだ。
眠る三谷裳の顔は幼さが残るものの、子供でもない大人にもなり切れていない成長過程特有の独特な色香を漂わせていた。薄い闇の中、血色の良い三谷裳の頬を骨ばった指の背で撫で、伏せられた瞼から伸びる睫毛一本一本をじっくり見つめる。
「寝ているんだな」
三谷裳が完全に寝たのを確認した安藤の脳裏に昨晩読み耽った恋愛雑誌の偏った内容が過っていく。
傍にいるだけで眠くなるのは心身ともにリラックスしており安心感と満足感によるもの。寝てしまったら起こさず寝かしてあげましょう。
都合よく解釈された内容を咀嚼した安藤は幸せに打ち震え心行くまで三谷裳の寝顔を堪能し続けた。
「(お袋たちは夫婦水入らずの温泉旅行。ちはるも臨海学校。今家には俺と三谷裳だけ……。こんなに幸せなことはないっ)」
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