豆炭々炬燵
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【ペニビル】転覆2

所詮追い詰められた鼠はただの鼠に過ぎない

先日の天気が嘘のように窓に叩き付けられた雨が流れ落ちていく光景をビルは漠然と眺めていた。
忌まわしい日々の始まりを告げたあの時のように窓際に立ち通り沿いを見下ろす。
雨に塗られ冷たくなった窓ガラスに額を付け、視界端に逃げていく黄色い影に下唇を噛みしめる。固く握った拳で窓ガラスを叩き、そのまま掌を広げ冷たいガラスの上に置いた。下に下がるにつれ滑る音が接触面から鳴ってやがて止まった。
完全に倒したわけじゃない。奴は井戸の中に逃げていった。デリーの町に張り巡らされた巨大迷路の下水道に、奴の領域に逃げ帰っていった。
「ま、だだ。まだ、おおお終わっちゃい、いない」
再び拳を握りしめた瞬間、ビルの耳が微かな声を拾う。
何度も何度も、今では夢の中でいつも聞こえる求め欲するジョージの声。
すぐさま振り返りたい衝動を抑え込み、ビルは出来る限りゆっくり振り返った。また以前見たく黄色い影が横切るものだと身構えたがドアの隙間からは何も見えない。
声を意識してしまえば弟の声はベッドの下、机の影、クローゼットの隙間、壁に張ったポスターの裏側から一斉に聞こえ始めた。ビルの部屋を埋め尽くすジョージの声は一様に彼の名を呼ぶ。
頭が割れる程の声量に思わず耳を塞ぎこんだ。余りにも大きな音の津波に視界が揺れ、床に着いた足が縺れそうになる。
あわや倒れ込みそうになった態勢を意地で立て直したビルは一心不乱に小声で呟く。
「こここれはまぼ幻、こここれは本物じゃ、じゃない……!」
キュッと固く目を瞑って唱えた呪文が功を奏したのか恐る恐る目を開けた時には夥しい声の津波も揺らめく視界もなくなっていた。無論二本足でしっかり立てている。
昨日の今日で――。ビルの胸に一抹の不安が差しかかるのに合わせ、僅かに開いていたクローゼットの隙間が更に開いた。蝶番が軋む音がやけに耳に残り、半分近く開いた頃には地下倉庫で見たジョージの姿が其処に在った。体の右半分をクローゼットのドアで隠しているがたしかにジョージだった。
「ビル
「ジョ、ジョジョージィ
誘蛾灯に誘わる虫のようにクローゼットに引き寄せられるビルの頭は激しい攻防戦を繰り返し、その勝敗は呆気なく決まった。
目の輝きが色が弟と違う金色だろうとも伸ばした手は止まらない戻らない。

「捕まえた」

ジョージの口から飄々としていて有無を言わせない囁き声がビルの伸ばした手を絡み取り引き寄せた。
その時、雷鳴が轟きビルの部屋を暴力的な光が支配する。一瞬照らし出されたペニーワイズの頭はベヴァリーが突き立てた鉄柵は刺さっていないものの修復が間に合っていないのか頭蓋が砕け歪な形になっていた。
壮絶な笑みで微笑んだペニーワイズはそのまま掴んでいるビルの手を張り詰めた股座を触れさせた。戦慄いた子供の手が始めこそ意味が分からないといった風だったが相手のしている意図を理解するなり白い手を振りほどいて後ろに飛退いた。
「こ、今度こそ!ぶっこ、ここころし――!?」
息つく暇もなく喋り出したビルの顔をべったり白い手で覆い隠した勢いのままペニーワイズはベッドに彼を下敷きにする形で倒れ込んだ。激しく軋むスプリング。もがもが暴れるビルを嗜虐的な笑みで見下ろしていた道化師が一階から響く声にバッと顔を上げた。
「ビル~何してるの~」
母親の声だ。たとえ見えなくても大人が助けてくれる、なんていう儚い願いは無情にも砕け散った。

『だ、大丈夫、なんなんでもない!』

見開いたビルの瞳に映る自分の声色を真似するペニーワイズ。
間を置いてまた母親の声が響いたが残酷なものだった。
「もう少し静かにしなさいよ~」
『はははーい!』
声が出せなければ息もし辛い中、扉を見詰めていた白塗りの顔がぐるんと戻ってニタニタ見下ろす様に頭がカッと熱くなった。
お前も喰らえ!と云わんばかりにビルの手がペニーワイズの顔の中心に押し当てられる。
しかし、道化師は子供の細やかな抵抗を物ともしない。スンスン匂いを嗅いだと思えば、べろんと舌を這わせ舐めたのだ。思わず短い悲鳴を喉奥で上げビルが手を引っ込めた。
「嗚呼~ビル、ビリー
肩を竦めるビルの鼓膜に直接吹き込まれる愛おしい弟に似た紛い物の声。
湿った熱い吐息が首筋を這いまわり、赤くぽてっとした唇が触れ吸い付いた。
ペニーワイズが動くたびに欠けた頭から零れる液体がビルの髪とベッドに垂れ落ち。何時しか外れた白い枷の代わりに艶かしい赤がやわく何度も唇を啄んでは塞いだ。
困惑する小さな舌に巻き付き絡んで混ざり合った唾液を喉奥に流し込み、殆ど抵抗の意味を無くした弱々しい手が健気に肩を押し返すのを嘲笑い、押し潰さない程度に圧し掛かればスプリングが小さく数回鳴ったのを最後に大人しくなった。
悪魔の時間が終わりを告げ、ビルは焦点定まらない瞳で欠けていた筈の頭部が見事に塞がっているのを見た。その視線に気付いたのかペニーワイズが自身の頭部を撫で付ければ大袈裟に驚いたリアクションをしてから壮絶な笑みを浮かべ金色の目を光らせた。
「成程なァ?ビル、君のお陰で私の傷が治ったぞ。君のお陰だ」
お、お前なんかに、か、かん感謝され、されたく、な、い……
「君にその気持ちが無くても私は君に感謝する。今も、これからも、ずっと――
息も絶え絶えされど目の輝きが弱まることを知らないビルにペニーワイズの口からだらだらと涎が滴り落ち体を蝕む昂揚感に身を震わせた。
「オォビルビル。この身を喰らい尽くそうとする灼熱の炎で君を焼き尽くしたいんだ
飄々とした笑い声が室内にこだまする。耳鳴りを伴った頭痛は再び戦慄くビルの唇を塞ぐまで続き、収まった頃には子供部屋から二つの影は消えていた。