豆炭々炬燵
2202文字
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【ペニビル】転覆

狼が太陽を追い掛けているのか、それとも太陽が狼を追い掛けているのか

日に日に膨れ上がる嘗てただの一度も味わったことのない弾けるように熱く悴むように凍える抑えがたい感覚はなんだ。

濁り澱んだ水の滴る音がそこら中から産声を上げては重苦しくじめじめした湿気が充満するコンクリートの壁に覆われた空間を埋め尽くした。陽の光が一切差し込む余地すらない暗闇で銀色の二つの輝きが揺らめく。それは何時しか形を成し、白い手袋をした手を内側に沿って緩やかな稜線を描く壁に置いた。
ひたりと置いた其処からは冷たく湿った壁の感触が伝わってくる。長年使い慣れた馴染みの道。デリーの町に張り巡らされた巨大迷路の高速道路。その一角でついさっき深手を負ってしまったペニーワイズは頭部から流れ落ちる血をそのままに、下水道の中をあてもなく歩き回っていた。
いや、正確には違う。無意識に深手を負った現場から少しでも離れようとしていた。
白塗りの頬に新たな血のメイクが伸び、それは我が物顔で無地だった銀色の衣装に模様を作っていく。
とうに落ち着いた呼吸はやがて戦慄きだし、しまいには歯を固く食いしばっては獰猛な獣の唸り声を上げる。ひょうきんな声とは違う地の底から轟く低い声に宿る呪詛はひたすら同じ人物の名前を繰り返す。

何処で間違ったのか。何処かで歯車がズレてしまったのか。
ただただ怯え逃げ惑うだけだった子供が、恐怖に慄き泣き喚き食い殺されるしかなかった子供が。
如何して美味い肉を持ち狩られる側の羊が、狩る側の狼に抵抗して立ち向かってこれるんだ?

砕かれた頭蓋の奥でチラつく忌々しい光。ちっぽけで一人では闇にのまれるしかない光が生意気に幾つも寄り添って輝く光景に吐き気がする。特に中心で瞬く光には言い表せないほどの怒りと憎しみ、そして――未だ分からぬ何かを抱いた。
壁に寄り掛り背中を預ければずるずる止まるところまで落ちて腰を下ろした。
目覚めて間もない頃に襲った子供の一人が、この長い間デリーに潜んでいた悪魔を倒す妄執に囚われた者の弟だった。始めの内は死んだ弟でゆすりを掛けて食べる、普段と変わらない羊を狩るつもりだったが予想に反して羊は素直に食われるどころか無い牙をむき出しにして此方を殺そうとしてきた。一匹だった羊の周りはそいつに同調してか数匹の羊が集まり、生意気にも襲われないよう知恵を絞って団結して、その涙ぐましい姿は見ていてもちっとも腹の足しにならない。
ふと滴る血を指で拭い乾いた唇に塗った。水気を含んだ赤は存外悪くなかったが腹の奥底で萌え続けている業火を消すささやかな慰めにも満たなかった。
薄ら開けていた瞼を閉じる。開けても閉じても然程代わり映えのない闇が広がると紅を差した口元が笑みを模った。



砕けた頭蓋の中で反響する

 弟を殺したのはまずかったな

たしかにそうかもしれない

 僕たちはお前を恐れてる でも お前を僕たちを恐れている




恐怖を与える側だった者がよもや与えられる側に突き落とされるとは夢にも思わなかった。
閉じていた瞼を開けぼんやり思い耽る。今まで一度も感じたことの無かったこの、不快で忙しなく体を駆け巡る熱く冷たい正体は――恐怖なのかと。
否定はしない。よく臆病な犬ほど吠えるものだ。それは怖がっているからだ。ならばあの忌々しい子供らにしてきたことは臆病な犬が吠えたのとなんら大差ない。

ビル、ビル、……ビル……

目障りに輝くちっぽけな光を、無い牙を剥きだして抗う羊の名をくり返し紡ぐ。
すると、如何だ。怒りや憎しみ、果てに恐怖ではない昂揚感が大怪我をした体を飲み込んだ。
口端からダムが決壊したみたいに涎が垂れ、いつものひょうきんで神経を逆撫でするきいきい声が下水道に響き渡る。
分かってしまえば簡単だった。臆病な犬が吠えるのも、追い詰められた鼠が猫を噛むのも何だって構いやしない。必死に吠えたところで結局尻尾を巻いて逃げたり、もしかしたら吠えた相手に返り討ちにされるやもしれない。鼠だって逃げ果せるとは猫を撃退するとは限らない。相変わらず強者が生き残り弱者が淘汰される自然の摂理に抗えなかったのかもしれない。
一人になってはダメ、みんなで一緒にいないといけない。
ほぉら。答えは案外目の前にあるものだ。
生憎獲物は少しばかり移動経路から離れた場所に居を構えているが然程気にすることではない。
寝ているところを起こして大好きだった弟の声を真似てクローゼットの隙間に誘おう。
暗闇から覗く光が求めているものと違っていても伸びる手を止めることは出来まい。恐る恐る伸ばした手を掴んで引き寄せ、夢か現かまどろんでいた意識が完全に目覚める前に耳元にそっと愛おしくて可愛かった弟の声で名前を呼ぼうか。
まだ傷は完全に修復していないものの、一人くらいなら何てことない。否、この体から溢れだしたくて暴れまわっている飢えた獣が落ち着かない限りは腹にたっぷり肉を詰め込んで満足しない限りはどんな反抗に遭おうが止まりやしない。
さっきからずっと窮屈に主張している下腹部に息を詰まらせ強張った子供の手を――、ビルの手をそっとそこに触れさせたら一体どんな顔をしてくれるのか今から楽しみで仕方ない。
















束の間の不気味で穏やかな日々は一人の少年の失踪によりルーザーズ・クラブの面々を恐怖と嘆きのどん底に突き落とし終わりを告げたのだった。