【イサ恵】雨上がりの虹

盛大な誤解と一方通行なイサ→恵。

「ボクだって料理人の前に一人の男だよ?」

土砂降りの雨の中、濡れた髪から雫を滴らせたイサミが田所を見下ろした。時たま垣間見せる静寂を称える湖面に似た瞳が直向きに予想外の展開に戸惑い見つめ返すことしか出来ない田所の瞳に映り込む。
事の始まりは何だったか。たしかとても些細なもので普段なら兎角気にしていなかった事だったように思う。
「イサミくん……?」
雨脚がどんどん強くなっていくにも関わらず、か細く若干震える鈴の音はイサミの耳にはっきり聞き取れた。
可哀想に胸の前で両手を握り肩を少し竦めているじゃないか。様子を窺がう上目遣いが違う状況ならとても魅力的に違いない。だが、今のイサミにとって胸の奥を締め付ける要因にしかならない。
「(嗚呼、雨で髪も服もびしょ濡れだぁ……。ボクはともかく田所さんが風邪ひいちゃう)」
生まれ育ったお国柄というのも相まってイサミ自身女性に対し優しく接する。其れは男として当たり前の事であり、特に兄タクミと共に行動する時は顕著だった。無駄な面倒事を生まないのもそうだが、なによりその場の空気自体が悪くなるのを是としない。空気が悪くなれば美味しい料理も美味しくなくなる、そんな信条とも言い切れない事をしてきた。
故に田所の一言は致し方ないと言えば至極致し方ないことだった。



――イサミくんはみんなに優しいべなあ

田所にとっては褒め言葉として発した一言。陽だまりのようにはにかむ姿に一切の澱みや穢れはない。純粋にイサミのすることを称賛する言葉が彼の心を深く抉った。
途端、のほほんと笑っていたイサミ顔からスッと笑みが消え。じゃあ、後でと手を振り駆け出す田所を追うべく今まで料理方法などで分からない箇所を質問していた女子生徒の輪から抜け出していた。後方から飛ぶ声達はイサミの後ろ髪を引くことも叶わず遠ざかる。

「ま、待って!」
原因不明の不安と焦燥感がイサミから冷静さと余裕を奪う。縺れそうな足を何とか踏み留め、追い掛けていたおさげに追い付いた。少し驚くも追い掛けてきたイサミと体を向き合わせた田所が問う。
「どうしたの?」
やや息を荒げるイサミは何の前触れもなく田所に詰め寄り、近場の木に彼女の背が当たりこれ以上後ろに下がれぬよう距離を縮め――、詰め寄った。両サイドは逃げようと思えば逃げれるように腕で逃げ道を塞ぐ真似をせず、ただただ真正面から詰め寄る形で退路を断つ。
「ねえ、田所さん。ボクって君が思っているほど、みんなに優しいわけじゃないんだよ?」
軽く俯いていた田所の視線が徐々に上がりイサミの視線とかち合った瞬間息を飲み込んだ。
「下心持って優しくしてるのだってないわけじゃない」
辺りが俄かに暗くなるばかりか空から落ちてくる大粒の雫が地面を濡らし、あっという間にその勢いを増していった。



幾ら木の下にいるとはいえ、全く濡れないどころか濡れ鼠化している現状が更に居た堪れなさを増す。
これがもし、普段と何ら変わらないなら雨宿り出来る場所までエスコートするが――、如何してもそんな気が起きない。
「(ホントにボク、何やってんだろ……)」
こんな田所を困らすような事になる前に戻って笑い合いたい。さりげなく手を引き、肩を抱き寄せ一緒に雨の中を駆けて行きたい。だが、今それを試みてもぎこちなくなるのは目に見えている。否、自然に出来たとしても田所がイサミを見る目の色は確実に以前と違うものが宿るのは免れない。
「(結構我慢強いって思ってたのに、アハハ。これじゃにーちゃんの事とやかく言えないや)」
一度深く深呼吸したイサミは我ながら気味が悪くなるくらいの困った笑みを浮かべ頭を浅く垂れた。
「田所さんごめんね?怖がらせちゃって。極星量送るよー」
無理にも程があるが以前のように取り繕い踵を返す。そんなイサミの腕を恐々と、だが力強く田所の手が掴む。不意に引き留められたイサミは一瞬何かに耐えるよう唇を噛むも振り返る頃にはいつもの柔らかな顔になり俯き此方を見てくれない田所に声を掛けた。
「田所さん?」
……って」
口ごもる田所を急かさず、イサミは彼女の言葉を待った。
そして、一拍置いて漸く言い淀むも心を乗せた田所の言葉が雨脚激しい中響き渡る。

「下心あったってイサミくんが優しいのには変わりないと思うよ!」
「・・・?」

暫しの沈黙。イサミが小首を傾げれば恥ずかしさからか耳まで真っ赤にしてあたふたしながら田所が説明しだした。
「だっで下心あるってんば其れはその人が好きって事だし!好きっていう気持ちは誰だで持つもんで当たり前の思いだがら……。そんな悪いもんじゃねえっでって!」
イサミは一瞬で理解した。
「(あー、田所さん自分が告白されたの気付いてないや)」
未だに忙しなく身振り手振りでよく分からない動きでイサミを必死に励まそうとする田所にイサミの心から知らず積もり溜まっていた澱が見事浄化されていった。
「(ん~、まず気持ちに気付いてもらうというか知ってもらうまでが大変だー)」
仮にド直球で告白したところで的外れな返事を貰いそうだ。でも、一つだけ大きな収穫はあった。
「(それじゃ此れから下心全開で攻めていいんだね?田所さん)」
さっきまでの土砂降りが嘘みたいに空が晴れ渡り、心も体も軽くなったイサミは腕を掴んでいた田所の手を握り返しそのまま彼女があたふたするのも構わず走り出した。