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nina_40enaga
2024-01-07 07:58:40
6427文字
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数式の解き方と大人のキス
「先生って呼ばれるの、あんまり慣れてないんだ。だからね、できたら名前で呼んでくれたら嬉しいよ」
そう言って、彼はひょろひょろと細長くて癖のある字を紙に書いて教えてくれた。彼の名前の綴りはそれほど珍しいわけではなくて、口頭で言われた時に想像したものとかけ離れてはいなかった。アルバスはその紙をこっそり拝借することに成功して、ずっと机の一番上の引き出しにしまっている。そして紙を引っ張り出して、ときどき眺めてまた大切にしまうのだ。アルバスは恋をしていた。相手は自分の家庭教師だった。
家庭教師をつける、と親に言われた時にはどんな嫌がらせかと思った。だからどんな理由をつけて逃げ出すか策略を練った。しかし結局逃げ切ることはできなくて、憂鬱な気持ちで、家庭教師の来訪を告げるインターフォンが鳴るのを聞いていた。学校で同級生とさえまともに喋れないのに知らない大人と良い関係が築けるとは思えなかった。アルバスがあまりにいやがるので、三ヶ月で成績が伸びたら家庭教師はすぐに解約すると約束を取り付けた。三ヶ月はあまりにも長い、と溜息を吐く。
母と共に部屋に入ってきたのはプラチナブロンドの男だ。彼はアルバスが想像していたより若く、薄氷色の瞳が印象的だった。思ったよりは親しみやすそうに見えて、警戒心がほんの少しだけ緩む。アルバスと目が合うと男はふわりと微笑んでみせた。警戒心をもっと解いてもいいものかどうか慎重に考えている間に、彼は母への挨拶を済ませたようで、「君の部屋に行こうか」と声をかけられた。建て付けが悪く少し軋む階段を上がって、二階にある自室へ向かう。
家族以外を部屋に入れたのは初めてだな、と扉を閉めてから気がつく。趣味のないアルバスの部屋は他人に見られて恥ずかしいものではなかったが、急に居心地が悪くなった。二人きりの部屋は当然だがしん、と静まり返っている。何を話すべきか迷っていると、彼の方から口火を切ってくれた。
「君のことは少しだけ聞いたから、知ってる。僕が知ってるのに君が知らないのはフェアじゃないよね」
自己紹介を始めるのか、と思ったのに彼は突然、手に持っていた茶色の鞄を探り始めた。中からは色とりどりのパッケージのお菓子が出てくる。自由な行動に、呆然としながら見守ることしかできなかった。
「でもその前に、一緒にお菓子を食べる? 君はどれが好き?」
「どれもあまり食べたことない。うちはお菓子禁止なんだ」
兄弟は友達の家でお菓子を食べる機会があるようだったが、アルバスにはなかった。お菓子を食べたことがほとんどないというのはこの年頃にしては変わっているだろうな、と思っていたが、男は気にした様子はなかった。嬉しそうにお菓子の一つを摘み上げる。
「じゃあおすすめを教えてあげる! この鬼っ子ペッパーってやつが最高さ! なんてったってお菓子の王様!」
柔和そうな雰囲気の彼が突然べらべらと話し始めて、どうしていいかわからずに立ち尽くしていると、はっとしたようだった。
「ごめん。僕おかしいことを言ってるかな? そう、そうなんだよ。同い年にだって友達なんかいないのに、年下と仲良くやれるわけないって僕にもわかってたことなんだ」
どうやら思ったことがなんでも口に出るタイプだな、ということがわかった。それと同時に、大きな発見があった。彼には友達がいない。アルバスと同じだ。
「友達がいないの?」
「え? ああそうだよ。それほど胸を張って言えることじゃないけど」
「僕と同じだ。まあ、たしかに胸を張って言えることじゃないけど」
「じゃ、じゃあ僕と友達になろう!」
彼はなぜか嬉しそうにそう言った。アルバスは自分になぜ友達ができないのかなんとなく把握していたが、彼に友達ができない理由もなんとなく把握しつつあった。しかし同時に、彼の癖の強い性格を面白いと思った。
「なんでだよ。おかしいだろ。僕の家庭教師だろ?」
「そうだった。そう。友達はダメだ。えーと、僕は君の先生。でも、先生って呼ばれるの、あんまり慣れてないんだ。だからね、できたら名前で呼んでくれたら嬉しいよ」
そう言って彼が自分の名前を名乗り、紙にスペルを書いて見せてくれたとき、アルバスはすっかりこの家庭教師の、スコーピウス・マルフォイに興味を持ってしまっていたのだった。
家庭教師として初めて家に来たときにはアルバスよりずっと年上に見えたが、よく聞いたらたった一個しか年は離れていない。背が高く、黙っていれば大人びて見えるが、年齢は変わらないのだ。しかし彼は、言動のおかしさのわりにはたしかに勉強はできるようだった。それに教え方もかなり上手だった。彼が導いてくれると難解な数式がすんなり頭の中で整列して、解かれるのを待っているように見えてくる。
「魔法みたいだな」
「そう! 数字って魔法みたいに面白いよね」
彼の教え方を褒めたつもりだったのに、うまく受け取ってもらえなかった。次はどんな褒め言葉でアピールしようか、と考える。
「そういえば君のお母さんに聞いたんだけど、僕はあと一ヶ月でクビになるって」
「は? なんだよそれ」
「君が言い出したことなんだろう?」
スコーピウスは不思議そうに首を傾げた。アルバスは自身の発言を必死に思い出し、三ヶ月以内に成績が伸びれば家庭教師を解約する約束を取り付けたことを思い出した。
「急に勉強したくなくなった」
「ええ?! なんで? 数学は魔法みたいに面白いって言ったばかりなのに」
「そんなことは言ってない」
スコーピウスは慌てた様子だった。機嫌を窺うように顔を覗き込まれて、ふいと目を逸らす。
「どうしよう
……
困ったな。ウーン、そうだ! なにかご褒美があったらどう?」
「君がくれるの?」
目を逸らしたばかりなのに、急いで目を合わせる。これはチャンスなのかもしれない、と察知する。
「僕でいいの? 君のご両親に掛け合ってもいいんだけど」
「君がいいんだ」
「そう? あー、もちろん。僕にできることなら」
「なんでも?」
「なんでも
……
かな?」
スコーピウスの返事を聞いて、再びペンを握ってノートに向かう。まだひとりでに整列してくれるわけではない数字と向き合い始めた。スコーピウスは戸惑いながらアルバスの様子を見守っていた。
それから一ヶ月後の試験の結果は、折り合いの悪い父でさえ文句がつけられないほど素晴らしかった。スコーピウスに会える日を、本当に指折り数えて楽しみにしていた。ご褒美のことも当然忘れてはいなかったが、とにかくスコーピウスに笑ってほしかった。こんなことを他人に対して思ったのは初めてで、やはりこれは恋心に分類するべき感情なのだろうな、と思った。彼に興味を持った時からその感情が恋心に変遷するまで時間はかからなかった。本当だったら、彼と友達になれたら、こんなことにはならなかったのかもしれない。しかし彼と友達にはなれない。出会ったその日にアルバス自身が否定してしまった。友達のいないアルバスにとって、こんなに心が弾むのは彼の奇妙な言動を聞いたり、それに対して軽口を叩いたり、彼の導きで魔法のように美しく整列する数字を眺めているときだけなのだった。それを友情に分類できないのなら、恋愛感情ということにするしかなかった。
「僕クビにならないって聞いた!」
試験が終わってやっと会えたとき、アルバスの部屋でのスコーピウスの開口一番はそれだった。試験の結果を伝えたかったのに出鼻を挫かれる。
「ああ、そんなの当たり前じゃん。それよりさ」
「当たり前のことだったの? 僕、もう君とはお別れなんだと思って、寂しくて、せっかく」
「それより僕の話を聞いてくれないか?」
「ああ! ごめんね。話をあまり聞かないのは僕の悪いところだ。もちろん聞くよ。聞かせて」
スコーピウスはすまなそうな顔をして、ようやく口を閉じてアルバスの顔を窺った。自分で作り出した状況なのに、気まずい気持ちになる。二人だけの部屋は当然のことながら、二人が黙るとしん、として静かだった。
「試験の結果、僕は数学だけ学年一位だった」
静寂を破ってそう口にすると、スコーピウスは目を丸くしてみせた。アルバスの言葉が、にわかには信じられなさそうだった。
「ええ?! すごい! 君ってすごい! だって前回は、その、悲惨だったって聞いた」
思いついたことを口に出す性質なんだな、と初日に気づいたことを再度確認したがそんなことはアルバスの機嫌を損ねる要因にはならなかった。スコーピウスは手を叩いて喜んでいる。好きな人の喜ぶ顔を見るのは、気分が良かった。
「ねえ、スコーピウス。約束のこと覚えてる?」
彼がこんなに喜んでくれたならもういいかな、と思いつつあったがやはり諦めきれずにそっと尋ねてみる。スコーピウスは穏やかに微笑んだ。
「もちろん。なんでもご褒美をあげるって話だったよね」
「うん」
アルバスはこくんと頷いた。しかし、何をお願いするべきか、この期に及んで悩んでいた。候補はいくつかあった。どれも、彼の言う「なんでも」の範疇に納まっているのか疑わしかった。スコーピウスはどんな反応をするだろうか。クビにならなかったけど、やっぱり辞めると言われることがアルバスには恐ろしかった。やはり候補の中で一番無難なものをねだるべきだろうか。例えば今度休みの日に一緒に遊んでほしい、とか。
「えーとね、キスまでだったらいいよ? それ以上は、今はダメ」
アルバスの考えていたことは一瞬で全て飛んでしまった。無理もなかった。スコーピウスが口にした言葉は、あまりにも信じられないものだった。
「え?!」
「え? あ、僕おかしいこと言ったかな?」
「どうして僕が君のことを好きなの、知ってるの?」
動揺のあまり、言わなくていいことを口にしているような気がする。しかしスコーピウスに驚いた様子はなかった。
「そりゃあ、えっと
……
君すごくわかりやすかったから。二項間漸化式の解き方のどこでつまずいてるのかも、僕のことが好きなんだろうなってことも」
それを並列で並べないでほしい、と思って顔から火が出そうなほど熱くなる。スコーピウスは困ったように眉を下げて、微笑んだ。
「ずっと僕にアピールしてくれて、かわいかったよ。でも褒め言葉が少し回りくどくて、わかりにくかった。そこも好きだなと思ったんだけど」
「君そんな余計なことを考えながら僕に勉強教えてたの?」
「君がそんなこと言うんだ。まあ、うん。そうだけどね」
スコーピウスの困り笑顔を見つめながら、頭をフル回転させる。彼は今しがた、たしかに好きだと言ったような気がする。それを確かめようと思ったのに、スコーピウスが再び口を開いた。
「えーと、それで、キスでいいの? 他のことにする? なんでもいいけど。キス以上のことじゃなかったら」
「そりゃあ
……
」
スコーピウスの顔を見つめる。薄くて形の良い唇から、目を離せそうにない。アルバスの候補の中にあった、最も叶えてもらえる望みの薄そうだった希望だった。
「キスがいい」
「そうだと思った!」
アルバスの返事に、スコーピウスは嬉しそうに笑った。好きな人の嬉しそうな顔を見るのは本当に嬉しいことだな、と思っていると彼は立ち上がって、アルバスのすぐそばに来た。自分も椅子から立ち上がった方がいいのだろうかと考えていると、後頭部に優しく手を添えられる。
「声、がまんできる?」
そう聞かれて、何も考えずに頷く。スコーピウスはますます嬉しそうに笑った。
「いいね。じゃあちょっとだけ口を開けてて」
どうしてキスをするのに口を開けるのだろう、と思いながら、言われるまま口をうっすら開けるとスコーピウスはかがんで口付けてくれた。まるで夢みたいだ。彼が名前を書いてくれた紙切れをいつものように指でなぞっていた今朝の自分には想像もできなかった。と思っているとぬるりと生暖かいものが口の中に侵入した。考えるまでもなく彼の舌だった。
「ん
……
っぁ」
声を出したらダメだとわかっていたのに、初めての感覚に吐息が漏れる。身体の内側を触られているみたいだ。アルバスが目をしろくろさせながら必死についていこうとすると、スコーピウスの舌は優しくくすぐるように、アルバスの口内のあちこちを舐めてくれた。その感覚に安心していると、再び舌を絡められてあっという間に余裕がなくなる。
「んーっ、んぅ、はぁ♡」
覆い被さられて上からキスをされていると、まるで彼に食べられているみたいだった。頭がだんだん真っ白に塗り替えられていく。ゆらゆらと腰が揺れてしまっているがどうしようもない。もっと深く彼と繋がりたくて、彼の舌を招き入れようと舌を動かしてみるが、少し舐められるだけで動けなくなって、また好きなように絡められてしまう。飲み込みきれなかった唾液がアルバスの口の端から垂れて、それを拭う余裕もなかった。
そのままずっと翻弄されていたかったのに、頭がいよいよ本格的にぽーっとし始めたところで優しく解放されてしまった。力がすっかり抜けて、椅子にもたれかかる。
「すっごく気持ちよかった
……
」
「君って思ったことをわりとすぐ言葉にするよね」
それは君の方だし、僕にそんなことを言うのは君くらいだ、と言い返したかったが到底無理だった。口の中にまだ余韻が残っていた。気持ちいいとしか言いようがない。
「でも僕も気持ちよかった。ほんとはこんなことしちゃダメなんだけど。ねえ、秘密にできる?」
何も考えずに頷いた。スコーピウスは優しく微笑んでくれた。
「キス以上のことって、僕が卒業したら教えてくれる気あるの?」
「君が秘密を守れたらね。あと数学の成績を維持できたら」
「守るし、する。だから抱いて。卒業式の日がいい」
あまりにも真っ直ぐで簡潔な要望に、さすがのスコーピウスも面食らったようだった。少したじろいだあと、確かめるようにじっと見つめられる。
「いいの? 卒業式の日って、大事なものじゃない?」
「いい。どうせ友達もいないし」
「そうだった。僕も卒業式の日は、正直言ってやることがなくて暇だった」
「たった一年前のことなのに忘れたの?」
軽口を叩きながら、うっとりとスコーピウスを見つめる。抜けるように白い肌が、ほんのりと上気していて艶やかだった。どくん、と心臓が高鳴る。キスだけでもこんなに骨抜きにされてしまったのに、もし彼と繋がることができてしまったら、いったいどうなってしまうのだろうか、とつい想像をたくましくしてしまう。
「本当は今抱かれたいけど、君がクビになったら困るから、我慢する」
「それって僕を煽るために言ってるの?」
スコーピウスは鋭く指摘した。それはアルバスの思惑そのものだった。彼を煽って、動揺している様子を見たかった。できれば今のうちにもう少し艶やかな表情を見ておきたいと思ったのだ。
「ねえスコーピウス、どうして僕の考えてることがわかるの?」
「どうしてかな。人の気持ちを推量するのは、そんなに得意じゃないんだけど。アルバスはわかりやすいから」
彼は極めて理系寄りなのだと、およそ三ヶ月の彼との交流でアルバスは理解していた。数字は曖昧じゃないところが好きだ、と彼が言っていたのを耳にしたことがある。人の曖昧な感情を推量するのが不得手なのは、きっと事実なのだろう。そう思いながら、アルバスはスコーピウスの感情を、期待を込めて推量した。
「あるいは君が僕のことを好きだからだな」
「そうかも。流石学年一位だ」
スコーピウスはくすくすと楽しそうに笑った。好きな人が笑っているのを見るのはこんなに気分がいいのだ。これも彼が教えてくれたことだった。
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