いつも薄氷の上を歩いている心地がしている。各地で起こる源石病に関わる戦渦に介入する時、国家間のパワーバランスを調節する交渉事の席に望む時。記憶喪失の欠落だらけの頭脳を回し、震えそうになる声を押さえ素知らぬ顔を装って弁論を振るうたびにぎしぎしと軋む音を聞いている。
(どうか今回もうまくいきますように)
足元の奈落を見ないように、落ちないように。失敗が意味するものが何であるか理解するほど、そうしてはいけないと追い立てる声が聞こえる。追い付かれては落ちてしまうからどうにか先へ進み、結果的にそれが良いものであると信じて足を進めて。その先にロドスの、皆の望ましい結果があるのだからと、いつもそうやって。
けれども何をどう介入しても、弁論を振るっても争いは終わらず、それにまつわる指揮も交渉も絶えることがなく。源石病による死傷者を少なくしようとすればするほど、かえって争い事の渦中に巻き込まれるようで。―――ほんの少し疲れてしまったのだ。だからぽつりと唇から言葉が漏れて。
「……ああ、どうしようかなぁ」
誰もいないと思っていた。だからそうして小さく呟いたはずなのに、偶然か深夜の執務室に訪れたあのひとはその言葉を聞いて赤く美しい目を見開いた。―――このひとだけには聞かれたくなかったのに。優しく、愛しいこのひとが聞いたら何をするかなんて明白であったから。有無を言わさずに抱きしめられて、そのまま無言のままに抱き上げた手に抵抗しなかった事を今でも悔やんでいる。あのひとを誘拐犯にさせてしまったから。
「―――ごめんね、重岳」
山間から日が登り、穏やかな日差しが寝室の窓辺に差し込むのを感じて重岳は寝台の上で目を覚ました。早朝の静けさに満ちた空気は一日の始まりを感じさせてすっきりと目が覚めるのだが、腕の中の人はそうではないようでうとうとと眠る。
「ドクター」
声をかけ、軽く肩に触れるとゆっくりと目蓋が開いてぼんやりとした眼差しが重岳をうつす。おはようと声をかければ、随分とくまが薄くなった面持ちで穏やかに微笑んだ。
「……おはよう、重岳。朝練の時間かな?」
「ああ。日課をこなしてくるから、貴公はまだ眠ってくれてていい。何かあったらすぐに呼んでくれ」
「いつもありがとう」
朝練頑張ってね、と寝台から降りた重岳に対して声をかけて見送られるのはここに移ってからできた二人のやりとりだった。
あの日―――偶然訪れた深夜の執務室でドクターが泣き笑いのような顔で小さく呟いた言葉を聞いた日。それを見た瞬間に重岳は衝動とともにドクターを抱き上げ、そのままロドスから姿を消した。
さすがに炎国とロドスの関係や、自身の存在の複雑さを考えて拐ったドクターに危害を加えるつもりはないこと、ドクターの体調が回復すれば戻ること。そして現在ロドスに逗留する妹たち含めた代理人は本件には関与しておらず、重岳の独断である旨を書き置きに残したが、逆にそれ以外はなに一つ伝えていない。どこに滞在しているか、いつ戻るか、ロドスと炎国が本当に知りたいことはなに一つとして残さずに出ていった。
本来であれば長期休暇や療養として仕事を調整し、休みをとるべきだったのだろう。まかり間違っても無断で、しかもロドスの最高責任者の一人を拐うべきではなかった。ただ、あの声と表情を見てしまってはそこまで悠長なことはしていられないと。
(―――あのままドクターをかの場所にいさせては)
壊れると、そう重岳は思ってしまった。元々人一倍責務に追われるひとは、近頃の各国の情勢の変化から背負うものが増えてしまって。介入する国や事件は多岐にわたり、複雑化するなかで感染者とそうでないものが互いに寄り添い会う道を探すのはあまりにも負担が大きかった。
誰も彼もが傷つかないように、と掲げる理念の中にドクター自身が含まれておらず、むしろそれを叶えるためなら自らがどうなってもいいと歩み続けた結果があの笑みと言葉だと。自身が本当に潰れる前の微かな助けての声。あの日、重岳がその声を聞けたのはドクターにとってはわからないが重岳には幸いだった。どうあれ思い人を守ることができたので。
ゆるゆると目蓋を閉じて寝台で二度寝し始めたドクターに寒くないようにと上掛けをかけ直し、穏やかに眠れるようにと額に口づけを落とす。たとえ偽りの安らぎであっても、期限つきの楽園だとしても。今ばかりはどうか穏やかであって欲しいのだと。
重岳が集落に来た行商人から品物を買っている間、部屋に用意された炊事場で食事を準備するようになったのはここに来て三週間ほどたってから勧められた比較的新しい習慣だった。療養とはいえ日中に時間をもてあましてしまうと重岳に伝えれば、今の貴公なら大丈夫だろうと刃物を持たせられ炊事場に共に立ったのが始まりで。
お世辞にも料理にはまったく縁がなかったせいか刃物の持ち方から皮のむき方や切り方まで何から何まで教わることになり、まるで幼い子供の調理教室のようで。大きな手のひらが食材を扱う際に細やかに動くのも、味付けがわからないドクターに対して調味料の使い方を優しく教えてくれたのも今ではいい思い出だった。
来たばかりの時は料理どころか、寝ることも食事もとることもままならなかった事を考えれば随分と体調が良くなって来た事を実感する。
(重岳には随分と迷惑をかけてしまったな)
教えてもらった通りに食材を刻みながらドクターは思う。重岳に連れられ、この険しい山間にある隠れ里に連れられた時。結果として重岳に自らを誘拐させてしまったこと、責務から逃げてケルシーとアーミヤを残してしまった罪悪感と焦燥感から食事ができず、夜になるとうなされて目が覚めては部屋を抜け出し、ロドスに帰ろうとしていた。
―――重岳、はやく艦に帰らないと。君にもこんな事をさせるべきではなかった。
今にして思えば病人の戯れ言で、そもそも夜間に明かりのほとんどない外に出るあたり正常とは言い難い反応であるのに、当時のドクターは頑なにそれが正しいのだと信じていた。まだやらなくてはいけないことがあるから帰らないと、あの二人をロドスに残してしまったからとそればかり。
取るものもとりあえず部屋を抜け出し、夜の山道に向かおうとするドクターを重岳は必ず手を引いて部屋に連れ戻した。寝ている場合ではないといいつのるドクターに静かに首を横にふって、寝台に寝かせると自身も隣に入りドクターを抱きしめて。
―――貴公が願うのであればいずれ艦へ帰そう。だがそれは今ではないのだ、ドクター。十全に寝て、食べれるようになるまではな。
そう言って背中を撫でられてはぐるりと尾を体に巻かれてしまうから、結局は温かさに負けてうとうとと寝てしまって。
一週間も過ぎる頃には逃げるのを捕らえられるよりも、一緒に寝台にいる方が落ち着くからと最初から重岳の傍で眠るようになり。そこから自身の現状を受け入れるようになるのは比較的早かったように思う。眠りによって冷静さを取り戻した頭が耐え難い心労があったこと、そしてそれによって潰れかけていた事を認めたから。
「料理は順調か、ドクター」
行商人から食材や日用品を買って戻ってきた重岳が炊事場の入口から声をかける。小さく頷いて返事をすれば、近づいてきて澄んだ水だけが張られた鍋を覗き込んだ。
「味付けはまだ決まっていないのか」
「君が買ってくれた食材によって決めようかと思って。肉か魚はある?」
「魚はあいにくといったところだが、羽獣の肉の塩漬けと苔生獣の骨付き肉の燻製ならあるな」
がさりと調理台の上に置かれた二つの肉を見て、ドクターは苔生獣の骨付き肉の燻製を選ぶ。ここのところ近場にある川にいる魚を村の者と釣って食べることが多かったから、食べ応えのある苔生獣の肉がよいだろう。
「いいね。燻製から出汁はでるから、前に買って貰った胡麻油を入れて炎国風の味付けにしようか。ノガラシも少しだけいれよう」
今日は寒くなると聞いたから暖まる味にしようと
告げれば重岳が穏やかに微笑む。本人は気づいているかどうかわからないが、機嫌のいいときに重岳の尾はかすかに揺れる。今もしゃらりと音を立てて揺らめくのが愛らしい。
その音に思わず小さく笑声をあげるとしゅるりと尾が体に回り、そのまま腕の中にしまわれてしまった。重岳にらしくないどこか不安定さを感じるもので。
「重岳?」
「―――随分と穏やかに笑えるようになったのだな」
感嘆と安堵を込めた声が耳元で聞こえるものだから、腕の中に擦りよった。今更に夜中の執務室で浮かべた笑みは思い人に随分と心労をかけていたことを知る。
「君も随分と穏やかに笑うようになったね」
ドクターを誘拐してこの村に訪れた頃、重岳もまた険しい顔をしていたように思う。今もロドスとの今後の関係や滞在する妹たちの事など思い悩む事は多いのだろうが、ドクターの心身が最も不調だった時に比べれば見慣れた泰然とした笑みを浮かべることが増えている。―――あの頃は戦場で見るような顔ばかりで、わずかに微笑むのはドクターが眠れた時か、食事を口した時しかなかったから。
視線を合わせて見つめれば屈んで落とされる口づけが優しい。離れるのが惜しいと思ってしまうのは、優しい体温に幾度となく心を守られたからだと知っている。
「いつも傍にいてくれてありがとう」
随分と心労をかけてしまったけれど、またいつものように笑ってくれたら嬉しい。もう少しだけ二人きりの逃避行を過ごしたなのなら、私から手を引いて艦に一緒に帰りたい。私の心を守って穏やかでいさせてくれたように、私もあなたが憂いなく笑っていてくれたなら。逃げることはきっと必要だったけれど、あなたと共に心穏やかにいられる手段を探したい。
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