換気目的でつけられた排気口を通じて薄暗い倉庫の片隅には遠くから様々な音が聞こえてくる。発電機の低いモーター音に、製造室の3Dプリンターの稼働音。ときおり微かに聞こえるプロペラの音は、交易所で使用しているドローンの音だろうか。
ロドスの基地は様々な物音に満ちているが、けれども倉庫として使われているこの部屋に限っては閑散としていた。半ば忘れ去れている場所なのか日中でさえほとんど人が出入りするのを見たことがなく、夜ともなれば一人になりたいと思うときにはうってつけだった。もともと倉庫になる前は仮の休憩所として使われていたとのことだから、窓がない事に目をつぶれば存外居心地は悪くない。
誰かが敷いてそのままにされていた質素なマットに座り、自室から持ち込んできた端末を足の上で開く。自身で設定したはずなのにどこか慣れないパスワードを入力して立ち上げ、開くのは1つのフォルダ。中にあるファイルを開けば並ぶのは無数の文字列と精密なグラフで思わず声が唇からこぼれた。
「前任者はずいぶんと几帳面だったんだな」
前任者。そう他人事のように名前を呼ぶくせ、それが過去の自分であることに未だ慣れないでいる。
いつかの日。チェルノボーグの鉄棺と呼ばれる機械の中でドクターは死に、そして生まれた。今までの記憶と経験を全て薄暗い置き去りにして、器だけは正しく残されたまま。
「………ドクター、か」
親しく呼ばれることもあれば、時には警戒を隠しもしないで呼ばれるその肩書き。神経学の権威、鉱石病研究の第一人者、ロドスの有能な指揮官。全てが自身の事を示しているはずなのに実績と実感の間には埋まらない空白が横たわる。
日中はその違和感も目の前の業務や指揮の慌ただしさで見えないふりができるものの、夜になってふと時間ができるとどうにも駄目だった。ドクターと呼ばれるほどにかつての自分のようにあるべきだという焦燥感が追いかけてくるようで。
夜な夜な眠れぬ時間が続き、与えられた部屋のベッドで寝返りを繰り返すなかで、寝られないならばと端末を持って部屋を出たのはそう遠い記憶ではない。そろそろケルシーかアーミヤにばれそうでやめなければとは思ってはいるものの、結局のところはいつも部屋を抜け出しては倉庫の片隅で時間を潰している。
やれやれと内心で深いため息をつきながらフォルダに残されていた鉱石病にまつわる報告書を読みつつ、内容がわかりづらいところに印をつけていく。かつてのドクターの書く報告書はわかりやすいと言うのはロドスの医療チームからの評価だが、前提として知識や経験があるからで、ものの見事にそれを落としてきてしまったのだから何とも言えない。
著者自身が報告書を理解できないだなんて、とんだお笑い種だと自嘲すれば、まるでそれに合わせたかのように視界の先のドアが開いた。
「―――おや、珍しい人選だ」
「あなた様こそ、なぜこのような場所に」
「論文を読むには静かでちょうどいい場所でね。君は?」
「自室で調律機のメンテナンスを行っていたのですが、電材が足りなかったので調達をしようかと思いまして。ここはエンジニア部門の資材置き場ですから」
「そうだったのか。てっきりここは忘れ去られた倉庫だと思っていたよ」
参ったなとこちらに向かってくるパッセンジャーに笑いかけて、けれどもそれが上手くできている自信がない。かつてのドクターなら船の部屋ぐらい正しく把握していただろうに、なんて。些細な事で差異を自覚するたび、追い付かなければと夜が長く―――。
「―――お加減が優れないようですね」
思考に沈みかけていたところで珍しく手袋のない手のひらが頬に触れる。少しここは寒いからと答えれば眼前で膝をついていたパッセンジャーに小さく頭(かぶり)を振られた。
「体を冷やしすぎてはいけませんよドクター。冷たさは容易に人を蝕み、思考と体を止めさせてしまいますから」
「それは君の経験談?」
「ええ。サルゴンの夜はそれはたいそう冷えるものでございました。温かな室内と飲み物が恋しいと感じるぐらいには」
さらりといたわるように頬を指先が撫でて、そのまま手のひらを差し出される。戸惑いつつもパッセンジャーに声をかけると微かな笑みが向けられた。
「私の部屋でよろしければ、ここよりもまだ温かいでしょうから。今でしたら飲み物もお付けいたしますよ」
いかがですか、と告げる声に惹かれて差し出された手をとった。長身でどこか儚げにも見える印象とは裏腹に引き上げる力は確かで、繋がれた手は生きるものの温かさがある。
その温かさと存在感はあの日、チェルノボーグで伸ばされた手のひらにどこか似ていたかもしれない。あの手のひらの持ち主ほど素直ではないものの、冷たい場所から引き上げるという意味では。
参りましょうかと促される声に頷いてドクターはパッセンジャーの隣を歩いて薄暗い倉庫を出ていく。深夜のロドスの船内に2人の足音が響いては遠ざかっていった。
倉庫のある区画を抜け、実験室がある区画を通りすぎた先にオペレーターたちの居住区がある。居住区といっても本当に艦内に住んでいるオペレーターの数は存外に少なく、もっぱら任務や所要でロドスに訪れた際の滞在先として使われる部屋が並んでいる。
もっともパッセンジャーはその少ない例外で、僅かな身の回りの物を持ってサルゴンから住居をここに移したというのは、ロドスの人事部や調査部から聞いていた。闇市で築いた財や権力があれば王族のように暮らすこともできただろうに、なんの未練もなく拠点を引き払ったのだと。そんなパッセンジャーの部屋はどんな様子なのだろう。
「どうぞお入りください」
そんな声とともに開けられたドアの中はある意味でパッセンジャーらしい光景が広がっていた。組み立て中の自律式機械のパーツや配線が無造作に床に散らばり、参考にしたと思われる書籍や論文の山がそこかしこに積み上がっている様子は自らの過ごす環境への無関心さがうかがえる。
「……人を招くのであれば整頓すべきでした。失礼ながら少しばかりお時間を頂いても?」
しかし、さすがに他者をもてなすにはまずいと思ったのかパッセンジャーが部屋の入り口で整頓を提案するものの、ドクターは首を横に振った。
「作業の妨げになるだろうからそのままで構わないよ。――それに綺麗に整頓された部屋はなんだかよそよそしくて苦手なんだ」
かつては確かに自分の部屋だっただろうに、今では実感のない自室が脳裏をよぎる。
いっそ神経質さを感じるほどに整頓された本棚に殺風景なデスク。引き出しにあるのは使用済みの理性剤のアンプルと未使用のストックばかりで。生活感がまるでなく、人が居たことすら信じられないままに割り当てられた部屋は自室だというのにひどくよそよそしくて。
それに比べればパッセンジャーの部屋の方が無関心さの結果とはいえど、住んでいる人の人柄や生活感がある分どこか落ち着いた。小さく安堵の吐息をつけば、パッセンジャーが静かに頷く。
「では足元にお気をつけ下さい。奥の部屋でお待ちくださいますよう」
そう言葉を残してパッセンジャーが簡易キッチンに向かうのを見送ってから、案内された奥の部屋へ歩きだす。
部屋へ向かう途中に転がるねじや歯車、配線図とともに置かれた電線や工具はドクターにとっては見慣れないもので、あまり人の部屋にある物を見るのも失礼だろうかと思いながらも興味がひかれてしまう。源石病の知識こそそれなりにあるが、源石を工業的エネルギーの観点で捉えて利用する源石工学についてはほとんど詳しくなかった。
さすがにロドス自体が源石のエネルギーを元に動いている船であるから基礎的な知識は有しているものの、実際に機械を設計して組み立て、運用するとなると膨大な知識と実践が必要な事は言うまでもない。知識も経験も失ってしまったドクターからすれば、それは素直に称賛すべきことだっただろう。
「飲み物がご用意できましたよ」
そんな事を思いながら案内された部屋の入り口に積み重なっていた論文のタイトルを読んでいれば、背後から聞こえた声に振り返った。視線の先ではトレーを持ったパッセンジャーが佇む。トレーの上では穏やかに湯気を漂わせるマグカップとガラスでできた簡素なティーポットが置かれていた。
「ありがとうパッセンジャー」
「たいした事ではございません。椅子と机はこちらをご利用下さい」
テーブルに置かれている分解された機械のパーツを少しばかり隅によせ、来客用の椅子を出したパッセンジャーがドクターを座るように促す。ドクターが座ったところでパッセンジャーもトレーをおいて向かい側に座った。差し出されたマグカップを受けとって口につければ、花の香りがあたりを包んだ。
「……美味しいな」
ハーブ特有のものなのか苦く薬湯のような風味を感じるが、同時にどこか爽やかさがあり落ち着く味がする。パッセンジャーといえばコーヒーを飲んでいるイメージがあったから、ハーブティーを出されるのは意外さを感じた。
そんな疑問を感じ取ったのかパッセンジャーが微笑む。
「風味に好みが分かれるのですが、あなた様なら気に入って頂けると思いまして。コーヒー以外もたまにはよいものでしょう?」
「ああ。はじめて飲んだけれど落ち着く味がする。これも君が栽培を?」
「いえ、これは個人的に取り寄せているものです。クルビアで昔から飲まれているもので、就寝前の飲み物としてよく出されています。鎮痛や鎮静効果が高いものですから、私もよく世話になっているのですよ」
――眠れない夜が続いている時には特に。付け加えられたパッセンジャーの囁きにマグカップを置いてとっさに誤魔化そうとしたものの、けれども凪いだ穏やかな視線にその気もすぐに失せてしまう。見透かされていると思うと同時に、穏やかに瞬く瞳に確かな心配を感じたから。
「……そんなにすぐわかってしまうかな」
「さて、どうでしょうか。私があなた様を殊更気にかけているせいかもしれませんよ」
本気とも冗談とも取れない言葉とともに、伸ばされた手が目の下をさらりと一つ撫でた。あまり人に触れる印象がない手は倉庫で触れられた時のように存外に優しく心地よい。――だからだろうか、いつもなら口にしない事を呟いてしまったのは。
「……夜は苦手なんだ。昼間はやることがたくさんあるのに、夜は休めと言われてしまうから」
「仕事があればそれだけに集中できるのに、時間が出来てしまうと余計なことばかり考えてしまって。記憶を取り戻すべきか、このままでいるべきか」
人としての全てを切り捨てたような部屋に隙のない論文、合理性のみを突き詰めた過去の作戦記録。見ていると自身のことであるのに時折恐ろしさを感じてしまう。――かつての自分の記憶を取り戻すのは正しい事であるのかと。
けれども、その知識や経験を求められていることも事実で。失ったものを取り戻すことは正しいはずなのに、かつてのようになるべきだという焦燥感と、そうはなりたくないという思考は板挟みで、答えが出ないままに夜が長くなり始めたのはいつのことだったのか。
「――私はどうするべきなのだろうか、と。すまない、少しばかり話すぎてしまった」
急にこんな話をされても困るだろうにと自嘲すれば、パッセンジャーが小さく首を横に振る。
「いえ、私にもそのような時期がございました。サルゴンにこなければ、あるいはクルビアに帰ればよかったのでは、と悩む夜が」
無数の仮定と焦燥感に押し潰されそうな日々があったのですよ。そう語るパッセンジャーの瞳には不可思議な瞬きがある。経年に晒された石が持つような穏やかさもあれば、焚きで自ら燃えては爆ぜる薪のような熱もあわせ持つようで。
「……君は今の自分に後悔はあるだろうか」
聞くべきではないかも知れないと思いつつ、自然と漏れた言葉がぽつりと落ちた。聞いてみたかった。どうあれ一つのあり方を選んだ人の言葉を。
その言葉を聞いてゆっくりとしたまばたきをしたパッセンジャーが静かに口を開いた。
「――ドクター。選ぶということは片方を得るかわりに、もう片方を失うことに他なりません。クルビアで穏やかに生きるエリオットと、サルゴンで半生を復讐に費やしたサンドソルジャーが両立しないように」
「確かに私は復讐を選び、故郷で穏やかに生きる道を失いました。ですが近頃は思うのです。どうあれ失ったからこそ、得たものがあったのではないかと」
「あなた様が記憶と経験を失った事は存じております。ですが、失ったからこそ得たものもあるのではありませんか?」
「失ったからこそ得たものがある……」
自分は何を得たのだろう。石棺から出てからというもの、感じているのはかつてのドクターへ寄せられる羨望と実感のない自身への戸惑いばかりで。失った物を数えるのはたやすく、得たものを思い浮かべるのは難しい。けれど。
(――前よりも優しくなった、と)
食堂での他愛のない会話や作戦についての話をしている時、あるいは日々の業務を執務室で行っている時。様々に接するオペレーターや職員からそんな言葉を送られていたような気がする。時には辛辣な様子で、時には猜疑を含んだものもあったものの、それよりも安堵や好意をもって送られた言葉。
(……私は)
優しさとはなんだろう。作戦で人命を重視するのも、周囲の人に対して極力優しく接しようと心がけているのも、かつてのドクターほど合理的になれないからで。それでも言葉を送った人たちは最後には皆一様にこう言ったのだ。――その優しさをなくさないで、と。
「答えは見つかりましたか、ドクター」
穏やかに問いかける声にドクターは頷く。これが答えかはわからない、ただドクター自身がそうありたいと思うのだ。記憶を取り戻してなお、それを持ち続けることはできるだろうか。両方は成り立たないのだとしても、それでも。
「――まだ答えはわからない。ただ、答えにしたいものは見つかったような気がする」
左様ですか、と頷いてパッセンジャがーハーブティーを入れ直してマグカップを差し出す。口をつけたハーブティーは先程までよりずっと温かく、心と体を温める味がした。
――それからハーブティーを飲みながらパッセンジャーとドクターは2人でぽつりぽつりと話をした。ハーブティーを届けた際に論文を眺めていた事からなんとはなしに源石工学の話を振れば、意外にも基礎以外はほとんどわからないという。
ならばと初学者向けの書籍を棚から出して渡すとそのまま集中して読み始めてしまうものだから、自らも作業に取りかかると、邪魔にならないタイミングを見計らって質問が飛んでくる。まるで先生と生徒のようなやり取りはかつての研究室で良くあった光景で、先生もこんな気持ちだったのだろうか。
どれぐらいそのやり取りを繰り返していただろう。向かい側に座るドクターの反応が遅れてきている事にパッセンジャーは気づく。
「ドクター」
「……パッセンジャー?」
「もう随分と遅い時間です。今日はお休みになられては」
「ああ、そうだね」
じしつにかえらないと。拙い口調でふらつきながらも立ち上がり、そのまま歩きだそうとするものだから、正面に立って緩やかに抱き止めた。パッセンジャーの自室からドクターの自室へは階を跨いでそれなりに移動する必要がある。今の状態のドクターではとてもではないが自室にたどり着けるとは思えなかった。
「本日の所はこちらへお泊まり下さい。連絡が必要でしたら私が行いますので」
艦内から外に出ているわけではないが、何かしらの有事があって呼び出された時にドクターが自室にいないとなればそれなりに騒動になるだろう。
さてどんな言い訳を申告するかとパッセンジャーが考えていると、腕の中でぼんやりとしているドクターに名前を呼ばれた。
「パッセンジャー」
「いかがなさいましたか?」
「君が得たものはあった?」
微睡みの中にいるというのにその言葉だけがはっきりと響く。――失ったからこそ、得たものがある。クルビアでの優しい揺藍の日々を失い、得たものはたった一つだけ。陰謀と策略の果てに得た金や地位ではなく、たった一人の。
「――あなた様ですよ、ドクター。何を選ぶかはあなた様次第ですが、今傍にいてくださるあなた様こそ私は好ましいと思っております」
作戦記録や資料を見るにきっとパッセンジャーを使いこなす、という意味では前のドクターの方が都合がよかったのだろうけど。パッセンジャーが提案する極端な手段には困ったように首を振る甘くて優しいところも、君が入れるコーヒーが一番美味しいと穏やかに微笑む姿もきっと前のドクターにはなかっただろうから。
パッセンジャーの言葉を聞いたドクターが驚いたようにゆっくりとまばたきをした後に小さく微笑む。
「――きみがそういってくれるならうれしい」
それきり腕の中で眠ってしまったドクターを抱き上げる。前衛のオペレーターほどではないものの、それなりに戦闘に参加していればドクターぐらいの大人であれば運ぶことは比較的容易だった。
抱き上げたままに作業机の奥にあるベッドへと運び、ゆっくりと体を下ろした。眠るのに邪魔になりそうなバイザーのついているコートとブーツだけ脱がし、上掛けをかけてやれば穏やかな寝息が聞こえてくる。
「おやすみなさいませ、ドクター」
そのまま作業机のテーブルランプをつけて部屋の照明を落とす。元より明日は休みで、徹夜で作業をしようと思っていたのだからベッドをドクターに占領されても問題はなかった。
作業机に備え付けの椅子に座り、調律機のパーツを手に取った。金属質な音の合間にベッドからは安らかな寝息が聞こえている。
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