望月 鏡翠
2024-01-06 23:28:06
10633文字
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好奇心は烏を殺す

ブツメツフツマ

 この世は適者生存。最も環境に適応した生物こそが、繁栄する。
 人を見ているとそれを実感する。この学校ではクラスメイトや同僚や担任の先生がいつの間にか消えていることも、厳しい門限も、学園長の死も、飲み込んでしまう。
 残留祈念の出現で、学校内があれほど混乱したにも関わらず、日常は続いていた。
 七億不思議は、死体を残さない。死人が出たときのように面倒はない。壊れた設備の補修に手が掛かっているが、学校生活は平穏を取り戻している。
 だが烏たちは、落ち着きがない。判子の影響があったわけではない。ただ、先の事件の影響を受けた学校内の変化や人の動きがイレギュラーになったことを、敏感に感じ取っている。補修のために、業者の出入りも多い。眷属たちは、ひもすがまだ落ち着いていないことを、感じ取っているのかもしれない。
 生徒会長戦に立候補しているらしい生徒の演説を横目に見ながら寮に戻る。学園長不在の学校の舵取りを、学園の新たな長に任せるらしい。あるいは生徒をそうやって加熱させて意見を激しく交わさせておくことで、上は新しい体制を作る暇を稼いでいるのかもしれない。
 ヤサ愚連は、己の意思をはっきりと主張する人間が多いから、他のクラスと比べても立候補者が多いような気がする。
 学園の動向が気にならないわけではない。
 一応、喋っている人間がいれば耳に入れるが、全てのことは話半分だ。多数決は、少数の意見を握り潰すことで成り立っている。これだけ生徒会長が乱立していれば、誰が当選しても反対意見は一定数ある。勢力争いは止められないだろう。
 烏に人ほどの適応能力はない。烏と親しくするひもすにも、おそらくはない。だから、少しでも学園内が生きやすいようになってくれればいい。祓魔師なんて堂々と名乗ることができる職業ではない。だが祓魔師でいなければ、その烏と言葉を交わし友人とみなしている人間なんて、受け入れてもらえない。
 だから生徒会長に立候補している人間の言葉は、聞く。もしその人が一般生徒よりも特待生の方が大切で、自分たちのことを考えてくれそうな人間ならば、心に留めておく。勢力争いになったときも、思想が近い人間で固まることができる。
 逆に言えば、特定の思想に属することを明らかにすることで、知らない間に敵に目をつけられている可能性もある。
 だから、ひもすは聞き役に徹して、自分から声を上げようとは思わなかった。
 平穏に暮らしたいのなら、目立たない方がいい。
 己の立場を明確にしないままその演説も聞き流し、寮に急ぐ。
 帰る途中、廊下で五乃の姿を見つけ足を止めた。ヤサ愚連に所属するひとつ上の先輩だ。幾度か協力して祓いをし、残留祈念が起こした討伐のときも共に戦った。
 ひもすから見れば気安い相手である。
 人よりも七億不思議に興味がありそうなところも、話しやすい。
 あの人は、生徒会長戦に立候補しないのだろうか。
「先輩は、生徒会長戦出るんですか」
 五乃は横目でひもすを見て、ああ、と呟いた。
 流石に顔を覚えられていないなんてことはないらしい。
「興味ない。アンタはするの?」
「私は一年の若輩者なので〜、先輩が出るなら投票してもいいと思ってたんですけどね」
 肩を竦めた。
 もし知っている人間が立候補するのなら、ひもすはその人を推す。その方が信頼がおけるし、私はあなたに味方するという意思表示は、人間関係を滑らかにするという打算がある。だがそれも五乃相手には上手く機能しないらしい。
「じゃ、お疲れ様で〜す」
 手を振る。
 家が大きいと、望むと望まざるとに関わらず、政治的な動きに巻き込まれ、興味がなくても、周りの動向には振り回される。
 お互い大勢に興味がないなら、気楽でいい。
 生徒会長戦に片がついて、学校の方針が決まれば学校も落ち着くだろうか。
 そんな日々が来ないことはわかっていたのに、期待してしまった。
 次の敵は、生徒会長戦の開票日が翌日に迫ったときにやってきた。
 本来あるべきものがあるべき場所にない。それもまた一つの恐怖の演出だ。
 何かが、欠けている。あるいは、あってはならない場所にあるということを、人は恐れる。
 例えばうやうやしく祀られているのに、御神体が空白の祠。遊ぶ子供がいるはずもない場所に、置かれた人形。道路の脇に置かれた花束。そうなるに至った物語を脳内で想像し、それを許容している精神状態を想像し、勝手に恐怖する。
 今の逢禍学園は、その状態だ。
 学園長の不在。あってはならない七億不思議の学園内での大量発生。
 学校内のあらゆる場所に突如として出現したボタンには一様に『知りたい?』という文字が書かれていた。誰かの悪戯か、一足先にきたエイプリルフールなのか。
 そんな冗談は、ボタンを押した人間が意識不明になったことで打ち砕かれる。起こった異常は、それが七億不思議が原因だと告げていた。
 両方を知る祓魔師から見れば、この混乱は今までなんとか押さえつけていたものが溢れ出してきたに過ぎない。だが一般人からすれば日常がいきなり崩れてしまったように感じるのではないだろうか。
 元々、平穏な日常があったわけではない。一部の人間の努力によって押さえつけられていたものが、とうとう噴出した。むしろ今まで、よく持ち堪えたものだとすら思う。
 早く明かしてしまえばいいのに。
 ひもすはそう思っている。七億不思議の存在が明らかになることで、混乱が生じることはわかっている。確かにいきなり全員に知らしめたら、大きな問題が生じるだろう。
 だが、知らないものから身を守ることはできない。
 異変が起こったときに、これは七億不思議かもしれないと判断する知恵があれば、被害者は減るはずだ。例えば、不思議なボタンが目の前に発生したら、押さないと言った具合にだ。
 知らないものは、知る必要がある。だから特待生だって、未知の七億不思議が目の前に現れたら、まずはその性質を探ろうとする。
 いや、中には何も考えずに突っ込んでいく猪突猛進な人間もいるだろう。ヤサ愚連にはその手の人間が多い。
 学校内にまた倒れている人間がいる。
 脈を確かめ、死んでいないことを確かめたあと、ひもすはため息を吐いた。
「またか」
 近くには例のボタンがある。
 知りたい?の文字が、好奇心を誘う。
 烏にボタンを突かせて見たものの、カツカツと嘴が音を立てるだけで、祓うことはできなかった。ボタンを形作っているプラスチックや金属の素材があるだけで、ドッ祓いの力が効いている気配はない。
 非常勤講師も倒れてるから、能力の強さや精神力には関係なく、意識を失うのだろう。
 そうして意識を失った人間は、今のところ一人も目を覚ましていない。一般人よりも特待生の方が多く倒れているのは、ドッ祓いを試みている人間が多いからだろう。今のところ、正気を吸われている気配はあるものの死者は出ていない。
 押したら即死するような、無茶苦茶なレベルのものではないらしい。
 人の道理を七億不思議に適応できるとは思わない方がいいが、攻略法が全くない無敵の七億不思議というのは今のところ現れていない。そして七億不思議の外見は、その由来や性質に沿っていることが多い。
 ならばこのボタンも押したら、何かが起こるのだろう。
 そこで特定の条件を達成したら、出ることができるかドッ祓うことができるといったところだろうか。
 情報が足りていない。
 だからひもす自身はボタンを押すことなく、様子を伺っていた。しばらく歩き回ったが、目覚める人間は調べた範囲にはおらず、情報収集も手詰まりになってきている。
 スフィンクスの謎解きみたいに、特定の条件が存在しているのならヤサ愚連よりも特技を持った生徒が多いブカツ道の方が答えを得ているかもしれない。
 ひもすはブカツ道の建物に足を向けた。知り合いがいるわけではないが、様子を確認して適当な人間から話を聞きたかった。
 こちらの建物の中にも倒れている生徒や教師がいた。それを介抱している人間もいれば、外からなんとかしようとしている人間もいる。
 その中に、知っている顔を見つけた。
 正確には一方的に知っている顔。向こうはひもすの顔を覚えているかどうか。
 ふわふわの髪の毛をした小柄な男子生徒。
 無地のリボンは一般生徒のものだが、見えている側の人だ。
「や、エンラくん」
 髪の毛を撫で回しながら話しかけると、肩を跳ね上げ一歩飛びのきながら見上げた。ひもすの肩の上で、烏が鳴く。春先になったら巣材にされそうな毛並みをしている。
 怯えて見上げる目は戸惑い、肩に乗っている烏を見てから、慌てて手元のメモ帳をパラパラと捲った。
 彼は人の顔や名前をそこにメモして覚えているということは、知っている。性質かそれとも病か。難儀なことだ。きっとひもすがそうなったら、人の名前を記憶しようという努力を全くしないだろうから、真面目か優しいのかあるいはその両方なのだろう。
 前回の邂逅のあと、ひもすの名前は彼の記憶媒体の中に記されただろうか。
 該当する項目を見つめたらしい。眉間に皺がよる。何を書いてあるのか覗き込もうとすると、慌てて閉じた。
「ひ、ひもす君。どうしてここに?」
「はぁい。思い出してくれてよかったよ。なんて描いてあったのかな?」
 ニヤリと笑って俯きがちの顔を覗き込む。怯えて後ずさった壁にボタンがあったので、肩を掴んで引き離す。
「よそ見してると危ないよ〜。倒れている人たくさんいるでしょ」
 壁にはボタンがある。『知りたい?』と書かれたボタンは学園内のあらゆるところに出現している七億不思議の特徴と同じだ。エレベーターや電灯、内線電話に紛れていることもあるらしく、紛らわしいことこの上ない。
「あ、うん」
 倒れている人間とボタンの相関関係は説明しなくてもいいようだ、理解が早くて助かる。
「こっちで目が覚めた人、いた?」
 煙楽は考え込む顔をした。記憶を手繰る目が、ひもすが肩につけていたクラスリボンを見て、何かを思い出したように目を見開く。
「何人かは見掛けた気がする。けど、特待生じゃない子は目覚めてないかな……
「へぇ」
 驚いた。やはりブカツ道では目が覚めた人間がいたらしい。それに目を覚ます手段があるということが、これで確かになった。
 特待生だけということは、特定条件を満たしたらではなくて、ボタンを押した後にドッ祓いをする必要があるのかもしれない。
「あんたは押さなかったの?」
「記憶の限りでは押してないと思う」
「なるほどね」
 己の認識が不確かであることを念頭に入れた回答は、下手な人間に断言されるよりも信頼できた。
「じゃあ私、押してみよっかな」
「そうなんだ……え!?」
 聞き流そうとしたあと、言葉の意味を理解して一瞬遅れて驚きがくる。目が見開かれるまでの一連の流れを、ひもすは興味深く観察した。
「危ないって、今、言ったのに」
「そう。でも私〝知りたい〟んだよね」
 一つは保身に勝る好奇心。一つは待つことに飽きた。
 人任せにしていても、望む答えは得られない。帰ってくる人間がいたのなら、そちらに入ることができるくらいの自負はある。
「だからひとつ頼んでもいい?」
 危険を犯すなら、保険が欲しい。
「私が倒れて……そうだな、三十分しても起きなかったら、人を呼んで欲しいんだ。ここのリボンに模様が入ってる人に」
 クラスリボンを示す。特待生に状況を伝えれば、理解してくれるだろう。
「た、倒れるの」
「倒れるよ。他の人たちと同じに、多分倒れる。あ、でも、見捨てたかったらそのままでもいいよ」
 にやと笑って、返事を聞かずにボタンを押した。
 カチと音を立てて指の下に丸いスイッチが押し込まれる。途端に。目の前の景色が変わる。煙楽がなんと返事をしたのかは、聞けなかった。
 瞬きするほどの時間もなかったはずだ。ひもすは、部屋の中にいた。見覚えはない。学校内の特定の教室ではない窓も扉も存在しない部屋だ。
 ボタンを押す瞬間までは感じなかった七億不思議の気配を確かに感じる。
 七億不思議の領域に引き寄せられたのだろうか。
 いや、違う。
 ひもすは頭に浮かんだ考えを否定する。
 転移ではない。
 七億不思議の被害者たちは、意識を失って倒れていた。ならばひもすの体も今、煙楽の目の前で倒れてそのままになっているのだろう。ここは精神世界か夢のようなものと考えるべきだ。
 一般人に死者は出ていないことを考えると、動き回った程度では何も起こらないか、内部での時間経過は外には反映されていないかのどちらかだ。部屋を調べてみる。
 壁の向こうに空洞はないし、隠し部屋も存在しない。近づいてみると壁にも天井にもびっしりと書かれている文字が見えるようになる。
 見たことのある単語が数多く入っている。
 七億不思議や学園について。それにドッ祓いについて。クラスリボンについている校章の意味。
 ひもすにとっては、全て既に知っている内容だ。
 だがここに入ってくるのは、一般人かひもす以外の人間だったらどうなるのだろう。
 〝知りたい?〟の中身がこれなのだろうか。
 残留祈念といい、一般人と祓魔師のバランスをこ渡したい何者かがいるのではないかと邪推してしまう。
 だが今それよりも先に考えるべきは、この部屋から無事に脱出する、つまりは目覚める方法だ。
 七億不思議の気配がするということは、ボタンと違ってここでなら攻撃が通るだろうか。
 部屋への攻撃を試みようとして、そして気づく。
「雪?」
 烏がいない。
 いや、いるはずがない。烏はボタンを押していないのだから。ひもすが七億不思議からの攻撃で気を失ったことは察することができたとして、それをボタンと結びつけることはできるだろうか。
 いくら賢いと言っても限度がある。指示をしなければ、鳥は鳥だ。
 それに同じボタンを押したからといって、同じ空間にやってくるとは限らない。
 自分一人しかいない場所で、焦ったり怖がったりしても仕方がない。だが、思ったよりも困った事態に直面していることは、確かだった。
「とにかく……書いてあるものでも読むか」
 腰を落ち着けると、壁の文字を読み始めた。
 一方その頃、現実のひもすの肉体は他の大多数の犠牲者と同じく意識を失っていた。
 警告のような鋭い声が、ブカツ道の校舎内に響き渡った。
 烏の鳴き声は、動物の嗅覚で以上を嗅ぎ取った。だが、それが飼い主を止めることはなかった。ひもすがボタンを押す手は止まることがない。
 指がボタンを押し込んだ。そう思った次の瞬間には、その体は意識を失い傾いた。
 肩の上で烏が翼を激しく振るわせる。抜けた羽が数枚、宙を舞う。
 しかし鳥の羽ばたきでは人の体は宙に浮かないし、支えられない。
 倒れるひもすを見て、煙楽は数歩下がった。だが、倒れたあとに我に返って駆け寄った。揺さぶっても、返事はない。烏がけたたましく叫ぶばかりだ。
「ひもす君?」
 煙楽は声をかけたり動かしたりを一通り試したあと、ひもすが揶揄っているわけではないということを確信した。
「本当に、気絶しちゃったの?」
 カァと烏が返事をする。
 泣き叫ぶのはやめたが、ひもすの傍を離れていくことはない。跳ねるように周りを歩き回って、髪の毛をひっぱったりつついたりを繰り返していた。
 沈黙に、目が覚めなかったらという言葉が不安となってじわじわと染み込んでくる。
 時計を見る。一方的に三十分経ったら人を呼んで欲しいと言って、気を失ってしまった。だが煙楽は何が起こっているのかを、完全に理解しているわけではない。
 校舎内にたくさんいる、倒れている人の中にひもすが加わる瞬間をその目で見たというだけだ。
 頼まれてしまった以上、その場から離れることもできず、隣に腰を下ろす。
 三十分経ったら、人を呼びにいくために離れていいのか、それともめを話さない方がいのかも、煙楽にはわかっていない。
 スマホの画面を見ながら考える。
 膝を抱きしめるようにして座り、少ししてから思いついたように、体の上にそっと上着をかけた。
 ひもすは目覚めることなく、時間ばかりが過ぎていく。
 廊下の向こうから、階段を登ってくる足音が聞こえて、煙楽は顔を上げた。その目には助けてくれる人が来たのかもしれないという期待が、少しだけ滲んでいる。
 烏が助けを呼ぶように、カァと一声鳴いた。
「うわ、烏ってことは……
 嫌そうな声がする。
 階段を登ってきた二人組が、廊下の端に顔を見せた。
◇◆◇
 均の目の前に、赤いボタンがある。
 学園長の死から始まり、クリスマスと期末テストに加えて生徒会長戦があり、年末の三ヶ月だけで一年以上も過ごしたような気分だ。だが実際にはまだ一年も経っていない。
 慣れない内に色々なことが起こるから、一年間のリズムというのがつかめていない。ことのまま慣れることがないまま、三年間を終えているような気がする。
 学校内は生徒会長戦で盛り上がっている。というよりも、全員が生徒会長になりうるというヤケクソ気味なシステムによって、巻き込まれていると言っていい。
 例年こんな風だったのだろうか。
 中等部から通っていれば別だが、高校からこの学園にやってきた均は逢禍学園の勢いに圧倒されるばかりだ。誰が生徒会長に相応しいのかなんて、よく知らない人間を判断できるわけもない。
 ひとりひとり見ていくには、候補が多すぎる。
 だが、そんな生徒会長戦もようやく終わりに近づいているらしい。明日が開票日だ。誰が生徒会長になっても、今の混乱を飲み込んだままなんとなく日常に戻っていきそうな気がする。
 ともかく、指導者不在の混乱と先の七億不思議の一件が起こした余波が収まってくれることを願うばかりだ。
 授業を終え、学生寮に戻る。
 明日はちょっとしたお祭りムードになるのではないだろうか。
 自室に戻るための寮の扉。
 赤いボタンはそこにあった。
『知りたい?』
 こんなところにボタンなんてあっただろうか。書かれている文字も不可解だ。壁に設置してあるボタンと言ったら大抵は、『開く』とか点灯の『灯』の字とか、あるいは非常用の『非』の字のはずだ。
 問いかけるように設置されたボタンは、誰かのイタズラのように突然壁に出現していた。
 何を、という具体性が欠けている。
 だが、知りたいかと言われれば、当然知りたい。
 漠然としたことでも具体的なことでも、均には知らないことばかりだ。この学校のことも、友人のことも。それに七億不思議やドッ祓いについてや、逢禍学園で何が起こっているのかについても、知らないままでいる。
 押したところでわかるような簡単なものだとは思っていないが、教えてくれる人がいてもいいと思う。
 そっとボタンに指を伸ばしてみて、止める。
 押さない方がいい。
 こういうボタンは押さないに越したことはない。
 だが押してはいけないボタンは、押したくなってしまうものだ。
 見るなの禁忌は、破るために存在する。それが昔からの人間心理というものだろう。
 ボタンに指を重ねる。触れただけでは何も起こらない。手触りはプラスチックの表面に文字のインクがうっすらとした凹凸で感じられる。どこにでもあるボタンに思えた。
「おい! 何やってんだ、ヘーキン」
 腕を掴んで、引き剥がされたところで均は我に返った。
 日月が睨むような目をしていた。
「どう見てもやばいボタンだろ。押すなよ。まだなんの情報も来てないし」
 目の前に異変があったら、まず真っ先に七億不思議を疑うべきだ。それらは様々な形で日常の中に紛れ込み、生気を吸い取ろうと待ち構えている。だが、こちらから近づかなければ無害なものもあり、大抵危険を招き寄せるのは、迂闊な行動だった。
 わかっていたのに、近づいてしまった。
「ごめん。……でも、情報くることあんのかな」
 ブライはもしかして、情報共有ができていないんじゃないか。
 何も起こっていなければ、穏やかな学園生活を送ることができるが、何かが起こって仕舞えば、指揮系統が存在しないブライの中はめちゃくちゃになる。
 日月も同じことを感じていたらしく、顔が曇る。
 少し考えたあと、何かを思いついたように顔を上げる。
「他のクラスのやつに、聞いてみよう」
 今までは情報が流れてくるのを待っていた。だがただ待っているだけでは、出遅れる。
 二人は頷き合った。
 日月の知り合いはブカツ道に多いが、一般生徒に七億不思議に関係することを聞いても仕方がない。直接、クラスに向かってクラスリボンを見て判断して声をかけることにした。
 教員の中ではブカツ道所属の鉄心も祓魔師の側だったはずだが、流石に連絡先までは交換していない。
 ブカツ道の校舎に入る。放課後ということもあり、クラスに残っている人間は少ないらしい。寮に戻ったから、部活に移動したのかどちらかだろう。
 階段を登ったところで、烏の声がした。
「烏ってことは……
 日月が嫌そうな声を出した。
 普通建物の中に、烏はいない。誰かが連れてきたのだ。二人は烏を連れ歩いているような人間に心当たりがあった。階段を上り切り廊下を覗き込んだとき、想像は確信に変わった。
 平と日月は、廊下で気を失っているひもすと、その横で体育座りをしているブカツ道の男子生徒を発見した。ひもすが連れている烏は、街にいる烏よりも体躯が大きい。それが日月を見上げてカァと鳴いてから、飛びかかる。
「うわ、なんだ、やめろ」
 ひもす以外の人間には、その烏が何を伝えたいのかわからない。
 均は日月が烏に襲われている間に、隣にいた男子生徒に話を聞く。
 ふわふわの髪の毛をしている。リボンを確認するが、一般生徒だ。七億不思議のことは出さない方が良さそうだ。
「えっと、何が起こったのか聞いていい?」
 うるさい烏と日月を見て、不安そうに均に目を戻す。
「あっちは、たぶん大丈夫だから」
「ひもす君の友達?」
 返事に迷った。おそらく友達ではない。敵対したいと思っているわけではないが、相入れない部分の方が多い。ひもすはおそらく一般生徒のことを囮としか考えていないし、利用することを辞さない。
 七億不思議を倒すという目的だけは一致しているが、信用はできない相手だ。
「友達ていうか、う〜ん。目的が同じ、知り合い。顔見知りくらいなんだけど。でもたぶん話はわかると思う。俺は平 均。あっちの……
 まだ烏にじゃれつかれている日月をチラリと見る。
「あっちが、日月 明」
「煙楽 モク。ちょっと待ってね」
 ポケットからメモを取り出して、急いだように何かを書いている。三人ともクラスは違うが学年は同じらしい。
 お互いに不確かなことばかりだが、わかっていることを共有した。
 ボタンを押すと意識を失うこと。何人か目を覚ました人間がいたが特待生ばかりであること。
 同じ内容を伝えるとひもすは目覚めなかったら人を呼ぶように託けたあと、ボタンを押して気を失ってしまった。
「呼ぶなら、リボンに校章が付いている人をって言ってたけど……
「あっちは、特待生だから大丈夫」
 日月を示す。ようやく烏に解放してもらったらしい。烏は今は羽を膨らませながら、ひもすの顔の上に載っている。誰もそれを退かそうとは思わなかった。ひもすなら、顔を鳥に踏みつけられたくらいでは気にしないだろう。
「倒れてから三十分も経ってんだろ? 大丈夫そうか」
 脈と呼吸を確かめる。
 医者ではないから詳しいことはわからないが、呼吸もしているし心臓も動いている。
「生気が減ってる気がする。たぶん」
 煙楽に聞こえないように、日月が声を低くした。
「三十分て言ってたんだよね。祓いがうまくいってないってことかな」
 均も声を小さくして答える。
「助けを呼べって言ってたってことは、そうなんじゃないか」
 そこが意外だった。
 ひもすは自分の祓う力に自身があり、それに見合うだけの実力もある。そして効率を求め、自分の命を危険に晒してまで無理をしないし、他人を助けたりもしない。
 それが戻ってこないということは、何か想定外の事態が起こっているのではないだろうか。
「日月、行くの?」
 外からのアプローチではどうにもならないことはわかっているし、他の霊能者たちの動きもそれを証明している。そうでなければ押したら不味そうなボタンをわざわざ押したりはしないだろう。
「嫌なやつだけど、放置しとくわけにもいかないだろ」
「ひもす君、大丈夫そう?」
 後ろから恐る恐る煙楽が覗き込む。
「あ、うん。見守っててくれてありがとう。あとは俺たちがなんとかするよ。ここは任せて」
 一般生徒に見られたままではやりにくい。あとを引き取ることにした。
「いいの?」
「その代わり、学校の中でボタンを押しそうな人がいたら危ないって警告したり、他の特待生に声をかけたりしてやってくんないか。被害が少しでも抑えられるように」
「うん、じゃあ……いくね」
「気をつけて」
 日月のクラスリボンに付いている特待生を示す校章を確かめ、煙楽は立ち去った。
 日月はカラーボールを準備しながら、均を振り返った。
「ヘーキンはどうするんだ。来るのか?」
 ボタンを押すのか、という意味だろう。
 均は日月の相棒だ。役に立つことができるように準備をしたし、立ち回りも打ち合わせた。もう前のように無力なままではない。
 それでも、均は首を横に振った。
「ボタンを押したあと、どうなるかわからない。もし一人で立ち向かわないといけなくなったら、俺は無力だ。だから日月が頑張っている間に、倒れてる体の見張りと情報収集しておくよ」
「よし。んじゃ、いってくる」
「いってらっしゃい」
 日月がボタンを押す。
 その体が倒れる前に、均は体を受け止めて床そっと横たえた。