shirajira
2024-01-06 20:53:10
3531文字
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夢という名の願望よ

2024.1.6 ビマヨダワンドロにて

 しゅるり、と帯を解いた衣擦れの音が、やけに大きく聞こえた。
 ごくん、とビーマが生唾を飲んだのが聞こえたのだろう、嘲笑うようにことさらゆっくりと下肢を包んでいた布が取り払われて、よく鍛えられた小麦色の肌が、さらけ出される。
「ほら、これが見たかったのだろう?」
 カリの目をした男が笑う。男の下肢に釘付けになったビーマは、ろくな返事もすることができなかった。
 男の左足、太ももの付け根に近い部分は、無惨に変色していた。青黒いそれは小麦色の肌を侵食し、まるでそこだけ花弁を散らしたかのように、居座っている。
「ビーマ」
 名を呼ばれて、ビーマは男の足に咲く傷痕から、ゆっくり視線を剥がした。男と目が合う。
 男は笑っていた。快活なものではない。普段うるさい男に似つかわしくない、どこか力のない、しかし決して弱いものではなく、むしろ警戒を抱かせるようなそれが、離れがたい引力を以て、ビーマを雁字搦めにする。
「触れたければ、触れても良いぞ」
 そう囁いて、男がビーマの手に触れた。ビーマの手と遜色のない、大きな手にふさわしい指が、ビーマの手を絡み取る。
「お前だけだ」
 男が言った。
 お前だけ、お前だけが。
 男の手が、ビーマの手を傷痕へと誘う。ビーマはただ、男の顔を眺めた。そうして。


「何してやがる」
 こんな時間に見るのは珍しい。そう思ったから声を掛けると、相手はびくりと肩を震わせて振り返った後、相手がビーマだとわかったからだろう、眉間に皺を寄せた。
「それはこっちの台詞だ。貴様こそ、こんな時間に何してる」
「俺はこれから朝食の仕込みをするんだよ。……小腹でも減ったのか?」
 まだ早朝、朝の四時の食堂である。
 新しい年を迎えて二日目の今日、昨日に引き続き正月特有のメニューを仕込むため、早めの集合を紅閻魔からは仰せつかっている。集合時間は五時だったが、目が覚めたのでビーマは早めに来たのだ。
 ビーマが知る限り、食堂の席にぼんやり腰かけていた男――ドゥリーヨダナは、朝がそう早いタイプではないはずだった。勤勉よりも惰眠を貪るのを良しとするタイプである。こんな時間に見る顔ではない。
「別に、そういうわけではないが」
 歯切れ悪く、ドゥリーヨダナが呟いた。
「ならこんなところで何してやがる」
「そんなの、お前に話すようなことじゃない。食堂は誰でも利用できるはずだぞ、咎められるようなことは……おい、何勝手に座ってるんだ!」
 ビーマが向かいの席の椅子を引いて腰かけると、ドゥリーヨダナは実に嫌そうな顔をして喚いた。
「食堂は誰でも利用できる。お前が言ったんだぜ。なら俺がどこに座ろうと、自由だろうが」
「わし様と同じテーブルにつかなくともいいだろうが!」
「早く来すぎて暇なんだよ。お前も暇なんだろ、少しくらい話し相手になりやがれ」
 半分本当で、半分嘘だ。早く来たら来たで、やれることはある。やらなければいけないことではないだけで。
 ビーマの提案に、ドゥリーヨダナは「話ぃ?」といかにも胡散臭い物を見るような目をした。失礼な男である。ビーマとドゥリーヨダナなら、胡散臭さはドゥリーヨダナの方が上であろう。
「何を話すと言うんだ、わし様とお前で」
「何でもいいんだよ。ただの暇潰しだ。……そうだな、お前、初夢は見たか」
 初夢。それはマスターの国の風習だそうだ。諸説あるが、一月一日から二日の間にかけて見る夢を、そう呼ぶらしい。縁起のいい夢を見れるようにと、神々が描かれた絵を枕の下に敷いて寝たりするのだと、マスターと同郷の画家の英霊が言っていた。
「ああ、マスターが言ってたな。一富士二鷹三茄子、とか」
 おや、とビーマはドゥリーヨダナの顔を見て不思議に思う。初夢だなんて、いかにも目の前の男が好きそうな話だと思っていたのに、男の反応は薄い。薄いというより、努めて興味がないのを装っている。そういう風に見えた。
「なんだ、初夢はろくでもない夢でも見たか」
 笑い混じりにビーマが言うと、ドゥリーヨダナは目尻を吊り上げて「違う!」と言った。
「わし様はクル族の正統なる後継者だぞ、当然初夢にふさわしい夢を見たに決まっておるだろうが! えーと、そうだ、富士山とやらを背景に鷹が茄子を食っておったし、それからカルナが貴様らパーンダヴァをバッタバッタとなぎ倒す、それはもう痛快無比なやつだ!」
「ふうん」
 まあ嘘だろうな。つまんねえことで見栄張りやがる。思いながらビーマが頬杖をつくと、ドゥリーヨダナは「う」と小さく呻き、それからじとりとこちらを見た。
「そういうお前は……どうなんだ」
「俺か?」
「いや待て。当ててやる。わし様は頭脳明晰ゆえ。……腹一杯物を食べる夢だろう」
 断定口調で言われ、ビーマは思わず真顔になった。
……何故そう思う」
「大食いのお前がそこまで浮かれるような夢、それしかないだろうが」
 言われたことに対して理解が追い付かず、ビーマは瞬きを繰り返した。先程と違い、ドゥリーヨダナが出鱈目を言っている様子はない。
「浮かれる? 俺が?」
「ああ。やけに機嫌がよくて、さっきから気持ち悪いぞ、お前」
 ビーマはとっさに口許を手で覆った。それを見たドゥリーヨダナが、ニヤリと笑う。
「どうだ、当たりだろう? どう見ても図星をつかれた反応だぞ、それは!」
「違えよ。食い物の夢じゃねえ」
「はあ? たかが夢ごときで見栄を張るなんて、みっともないぞ」
「そっくりそのまま返してやる。……ま、満たされる夢ではあったし、浮かれちまってるのは否定しねえよ」
 食堂に紅閻魔が入ってきたのが見えて、ビーマは立ち上がった。彼女がいるなら、こんなところで油を売ってはいられない。
「初夢だなんだっていうのは迷信らしいが……悪い夢なら人に話しちまった方がいいらしいぜ」
 ぽかんとした顔で自分を見上げるドゥリーヨダナにそう言い捨てて、ビーマは厨房へと歩き出す。後ろから「おい! お前が見た夢の内容は!」と声が追いかけてきたので、ちらりと振り返って答えてやった。
「俺が見たのはいい夢だったからな。誰にも話さねえよ。内緒だ」


 ほとんど一方的に話すだけ話して去っていった男に置き去りにされて、ドゥリーヨダナは頭を抱えた。
 悪い夢は人に話せだと? 話せるか、あんな夢。
 夢を見た。生前自分の物にはならなかった物が、手に入る夢だった。
 強くて、正しくて、格好よくて。そんな、どこに出しても恥ずかしくない、誰から見ても英雄の男が、友として隣にいてくれる夢だった。
 男が自分の味方だと、自分たちを脅かさないとわかっているから、夢の中のドゥリーヨダナは幸せだった。風神の子を手放しで褒めそやし、そんなドゥリーヨダナに、夢の中の友は屈託なく笑いかけてくれた。
 それだけじゃない。何かあれば身を挺してドゥリーヨダナを守ってくれたし、ハグだってした。夢の中のドゥリーヨダナは、親愛と感謝を込めて接吻すらしたのだ。カルナ以上に距離が近かった。
 紛うことなき悪夢である。
 自分とあの男の間に、友愛、なんならそれ以上のものなんて芽生えたことはない。確かに自分はあの男の持っている物が欲しかった。だが、それは別に、あの男自身が欲しいというわけではなかったはずだ。
 でも、夢の中の自分は、幸せだったのだ。
 自分でも気付いていなかった欲に気付かされて、寝覚めから、正確には今まで見ていたのは夢だったと気付いた瞬間に最悪の気持ちになった。
 このまま二度寝と決め込もうにも、夢の続きを見てしまったらと思うと、どうにも抵抗があった。仕方なく、少し眠気を覚まそうと、まだ人のいない食堂でぼんやりしていたところ、夢で見たのと同じ顔が現れたのだ。
 本当に最悪だった。何も知らないあいつは――ビーマは、それこそまるで友のように、どうでもいい話をすることをドゥリーヨダナに求めた。そんな仲でもないくせに。
 夢の続きを見ているようで、なんだか気分が悪かった。
 おまけにビーマの方は何やらいい夢を見たらしい。気持ち悪いくらいに上機嫌で、はしゃいでいるのが見てとれた。
 満たされる夢だったと、そう言って微笑んだ顔ときたら!
 こっちは夢にお前が出てきたせいで、こんな気持ちになっているのに。どうせお前の夢にはわし様は欠片も出てきてないんだろ、そう思うと何だか惨めだ。
「くそっ、どうしていつも、こっちばかりが」
 嘆いたところで何にもならず、ドゥリーヨダナは今からでも北斎の描いた縁起物の絵とやらを買って初夢を上書きできないかと、そんなことを考えた。