しろくまたたくはくしゅんさん
2023-10-28 18:44:52
2592文字
Public
 

【ヌヴィフリ】深淵に告ぐ【死ネタ】

死してなお、届くのであれば。
しんかいのリトル.クライという歌をモチーフに書きました。

 フォンテーヌでは毎年、雨になる日がある。
 大粒の雨ではない。呼吸を濡らすような、静かな雨だ。雨が降る理由をフォンテーヌに住む者なら皆が知っている。
 ある者はその日になると、家の軒下に雫のガラス細工を下げた。
 ある者はその日になると、海に花を浮かべに行く。
 ある者はその日になると、子どもたちに物語を聞かせる。
 ある者たちはその日になると、海底を透らせる窓ガラスを掃除する。
 ある者は、またある者は────成すこと為すことが別であるが、各々、この日を悼んでいた。正義の国であるが、今日この日の公判は、必ず休みであった。歌劇場に人影はなく、天秤は並行を保つ。
 吸い込めるような霧雨の中を誰も歩かぬ。街は朝から静かであった。日差しも差さぬ厚い雲と肌を濡らす空気の中、男が一人ゆったりと歩いていた。
 その瞳は鋭く、雷鳴のごとく紫に光っていた。鋭いが何もとらえてはいない。それが不意に何かを捉えた。常人には見えないであろう、足音だ。



『早くしてくれ、お茶会に間に合わない!』
『遅刻に関しては君がどのハットを被るか悩んでいたのが原因だろう。歩く速度を早めるのは構わないが、走るのは紳士淑女の行動に反する』
『ああもう!ほら、これでいいんだろう?!』
 エスコートの腕をきつく握りしめ、早足になる男の歩幅に合わせややとび気味に歩くヒールの足音。



 瞳が並行に動き、向こうの街角へ視線が伸びる。記憶に潜り、より深い思い出を見る。



『花を、買っていってあげよう』
 慈しみに満ちた声。いつもの服とは違う。黒に染まった服。街は雨が降っているが、通りがかる者たちは皆異様な光景を見るように眉を寄せると、足早に去っていく。
『これと、ああ……これも。彼女が好きだと言っていた花だよ』
 花を一つ一つ、束ねていく。私は、と前置きしてから言葉がなかなか出てこない男を、左右の色が違う瞳が見つめる。
『好きな花など、知らない。知ろうともしなかった』
 雨粒に触れ、目を細め、そしてその中の記憶を探る。しかし雨のもたらす記憶はわずかで、刹那だ。花の中で笑う彼女たちの顔が見えた。任務の間、つかの間の休憩に作られた花冠が、白い髪の上に載せられる。神と、最も美しい生命体が集う花園には笑顔があふれていた。
『これは────僕が好きな花』
 薄く青い、小さな花弁があつまった花が束に加えられる。慈悲深い笑みを浮かべると、唇が問う。
『君の好きな花は?』



 階段を下る。街の影が路の先を暗くさせていた。いつもは栄え、店の前に商品を並べている商店街も、すべて店の中に仕舞われている。店の前には、いつも露店に出している棚や木箱の跡が地面についている。



『うん?絵本が気になるのかい?』
 店前に並んでいる色とりどりの本。幼いこどもたちが楽しめるよう絵が入っているそれらの前に立ち止まっている。
『稲妻の桜の翁の話、モンドの星が降る丘の話……。──僕が好きな話?ううーん……これ、かな』
 一冊の本。半分が魚の体をしている人間の話だ。見上げれば、表紙を懐かしそうに眺める雫の瞳。
『最後は泡になって溶けてしまう。でも、きっと足で歩いたことは忘れないよ』
……?それ、は、』
 誰の話をしているんだ、と尋ねることは終ぞなかった。



 海面は以前のように下がり、ポートマルコットの先、落ちる滝の向こうには家が並んでいた。人間はたくましい。水に沈んでいた家を再び住めるように綺麗にすると、ぽつぽつ明かりが灯るようになった。住処が戻ると、おかえり、ただいま、と元々近所だった住民たちが帰って来た隣人を笑顔で迎え入れる。
 彼らが一番、この日を悼んでいた。海が元に戻ったのは彼女のおかげなのだから。救われた街を眼下に、男は足を止めた。



『やあ。こんにちは。はじめまして。』
 その日も酷い雨だった。ぬくぬくと漂っていた大海から突如として放り出され、海の生き物たちから追われるように海岸を目指したのだ。浜に上がり、地上の重力にめまいを覚え倒れこんだその先。
 柔らかで、海の底に咲く花の匂いにつつまれる。雨から守るように顔を覗かれた。左右に違う瞳。慈しみ深き視線。産まれて初めて向けられた、敵意のない表情。
『君の名前は?』
 尋ねられ、告げる。告げた後、なぜしゃべってしまったのかと口を覆った。顔色を変え、殺そうとしてくるかもしれないのに。
『それは君の御父上の字名だろう?──ああ、そうか…………。うーん……。あ!それじゃあ、こうしよう!』
 小さな体が持ち上げられる。柔らかで、華奢なのに、存外力持ちなのだな、と掲げられた場所から見下ろす。
『    !どうだ、君にぴったりだろう?』
 細められた瞳に、一筋の光が差した。



 一層強くなる雨。握っていた花の薄い花びらが水滴の重さに負け、垂れ下がっていた。
「名は、呼ばれなければ意味がない」
 彼の名を、水龍の名を、今はこの国の神である者の名を、知る者はいない。彼の名は、彼に名を与えた者が泡となって消える時、同じように消えたのだ。
 膝をつき、かつて海岸であった砂地に花を置いた。雨は続く。降りやまない限り彼の記憶の旅は続く。あまりの懐かしさと恋しさに、雨がずっと続けばいいと堕落するには、公平無私な審判官の理性が勝ちすぎた。
 空が晴れる。上空から降り注ぐ水滴は少なくなり、とうとう最後の一滴が彼の手のひらの上に落ちた。夕方の日差しが街に降り注ぐと、人々はどこか安堵した顔で軒下に現れる。夕餉の時間だ。慌てて買い出しに行く者、帰りを急ぐ者、雨を鏡にしてあそぶ子どもたち。
「君が愛したものを、私は守れているだろうか」
 問いかけにこたえるさざ波はどこか優しく響く。波打ち際まで歩くと、彼は手のひらの雫にどの海よりも深い愛を告げた後、海に還してやった。
 想いの強さに、雫はたった一滴ながらも叫ぶように海中に響く。クラゲたちが水面に浮かび、ヤドカリは殻にこもると転がり、タツノオトシゴは狂ったように踊り出した。最後に、いないはずのクジラが深淵で鳴くと、また元通りになっていく。
 男は口の端だけで笑うと、「すまない。騒がせてしまった」と口にする。
 しかし今はもう、彼女に愛を伝える方法をそれしか知らぬのだ。