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しろくまたたくはくしゅんさん
2018-11-03 15:32:07
10175文字
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しねばもろとも(仮)【勝デク】
いきづまったので投げる。大正パロ。ぶった切り途中だしこれは二話目。しょたしょたが大正にいるだけ。
緑谷出久という男の人生は、常に死とともにあった。兎に角心臓がいつまで経っても落ち着かないのである。
「げェ
……
」
昼食を総て嘔吐してしまった彼は、喉を擦る。授業を終えて家に帰れば、寝るまでずっと習い事をさせられている。これは齢八歳の子どもにしては非常に詰まらない生活ではあるが、幼いころよりさうであった彼と、その競い相手である勝己にとって当たり前のことであった。恐らく他家の子とは合切の理が違うのだと理解かってはいる。然し其れを嘆くこともなく、歓ぶこともせず、ただただこの気味の悪い生家に縛り付けられているのである。
扨て、出久が喉を擦っていたのは先程勝己の竹刀でやられたからである。才の無い出久に、武術で勝己に勝てと言うには土台無理な話である。彼は町のほうで武術の仕合がある時は出向いて試しにと相見えるのだが、最早「見舞」である。二つほど年が上であろうと、打ちの滅してしまうのだから終ぞ大人しか相手にしなくなった。否、家では出久が応対するのだが、相手にならぬ。従者から「競い合い高め合えば、いつかきっと虎の子から虎になりましょうぞ」と耳の裏が滑るほど言われているのだが、如何にもそういふ相手ではないと疾うに分かっていた。其れは明晰な智を持つ勝己であれば勿論理解しているのであろうが、全く以て手を抜かぬ。抜かぬどころか常に柱を立てた琴の糸のように張り詰めている。せめて自分が相手の時くらいその張り詰めた糸を緩ませてくれればよいものを、と出久はため息をついた。すぐにまたげぇげぇと喘ぐ。突きが喉に入ってしまったため、数日は飲み込むのも息をするのにも痛みが伴うだろうと考えて、うんざりとした。
勝己は昔からあのように張り詰めていたわけではない、と出久には断言できる。幼い頃の勝己と出久は乳母たちと一緒に手習いをし、飯を食べ、庭で遊んでいた記憶がある。勉学にせよ遊びにせよ、勝己はなまじ何でも出来てしまうので出久は憧れると同時に、己と比べて何が至らないかを考えるのが常であった。だがそうして内省に塞ぎ込もうとする出久を、勝己は外へ外へと導く。すぐに連れまわす強引さ。そして乳母の目を盗んで仕掛ける悪戯と、それが成功した時に巻き添えで逃げ回ったあの日々を、出久は忘れることはない。寧ろ、現在になってその頃を思い出すことが多い。大きなお屋敷の中で無心に遊び回り、笑い合い、明日の事なぞ何も考えることが無かったその頃。
其の日々が失われる切欠は、乳母たちが屋敷を去っていった次の日であろうと出久は思う。その日の前後の記憶を彼はあまり覚えていない。何故か思い出すのが憚られるのだ。無理に思い出しても、襖の奥で赤く輝く灯と長い髪の毛がズルりズルりと這い寄ってくるような光景で、それ以上の事は全くと言ってわからない。気が付けば蒲団の上に横たわっていた。包帯に覆われた右手の真ん中に痛みがある。只それだけだ。出久は昨日と変わりの無い日常へと飛び込む。顔を洗い、厠を済ませ、食事を共にする大広間に向かうも馴染んだ顔が無い。珍しいこともある、と出久は見慣れない男の従者を呼び付けて「かっちゃんはどこ?」と尋ねたが、男は無表情で「勝己様は、まだ寝床に御座いましょう」と答える。床に臥せっているのだろうか、それならば一大事である。なにせ勝己は病を患ったことが無い。慌てて廊下を渡り勝己の部屋へと向かえば、長い廊下の向こうから陽のように輝く色をした少年が歩いてきた。──勝己だ。
「かっちゃん!」
出久は安堵した。単為る寝坊でも勝己にしては珍しいことであるが、体が確としていれば何の問題もない。昨日は只管怖かった。明日から小学校だが友達が出来るか不安だ、等。出久は普段通り勝己に話しかけた。だが勝己の瞳が小さく鋭くなったかと思えば、次の瞬間には出久の体は宙に浮いていた。一本背負いに、背中が触れた先は草と苔が生い茂る柔らかい部分であったのは、恐らく勝己が意図した上での着地点だと後で気付いたが、当時の出久には衝撃であった。
「俺に触んな、デク」
突然の嫌忌たる宣言に、出久は混乱した。一つは真逆に変異した態度。もう一つは今にも零れそうな涙を溜めた瞳。肺から濁った空気を吐き出した出久は「かっちゃ、」と呼び手を伸ばすが、振り切るように勝己はその場を去っていく。朝餉を食べに大広間に向かったのであろう。従者の男に背中を擦られ、落ち着いた頃に廊下へ戻り大広間に向かう途中、廊下に長い長い一つの黒い糸が落ちていた。女中の誰かが男衆の着物の解れにでも直した帰りだろうかと蹲り見つめて「ひっ」と叫び声をあげる。其れは髪の毛であった。歪みも捩じれも存在しない、真っ直ぐで真黒い髪の毛であった。夢のように朧げであった前日の記憶に在った黒髪を思い出し、出久は泣きたくなった。従者に聞いても「さあ何方のものですかな」とはぐらかされた。この時出久は漸く気付く。この屋敷は何処か可笑しい。判然とせぬが、化け物のようなモノが潜み、心を喰らっている。そんな気がしたのだ。現に勝己の態度は豹変した。昨日まで甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた乳母も何処へやら。草木を揺らす風ですら、昨日を境目に変わってしまった気さえする。出久はがたがたと震え出した体を止めることはできず、その後三日ほど寝込んでいるうちに小学校の入学式から初めての授業まで終わっており、勉学は愚か友好関係においても乗り遅れてしまった。気が付けば勝己と一緒に大広間で一緒に飯を食うこともなければ、朝夕に挨拶することも無くなり、学校では話しかけても無視をされる。既に友好関係でも上位を築いていた勝己が無視をしたとなれば、周りもこぞって出久をぞんざいに扱った。
其れが今日に至るまで続いている。家では時折手習いで講師を迎える時、それから先程のような手合わせの時は顔を合わせるが、会話らしい会話は一切無い。寧ろそれ以外で顔を合わせた事が無い。小学校に上がってしばらくして、出久は母屋ではなく離れに部屋を移された。誰の命令かはなんとなく想像がつく。あれ以来一度も見かけていないが、あの長い長い黒髪の人であろう、と。然し異様な雰囲気に包まれた母屋よりも、塀に囲われ小さな庭がある離れの方が落ち着けた。母屋に呼び出されると「遠い」と感じるが、出口などは裏門から出られるなど勝手が良い。庭も母屋の方の華々しさには敵わぬものの、季節のものが植わっていて心穏やかに鑑賞できる。出久にはそれで充分であった。
さてと出久は面を上げる。日の高いうちに明日の課題をしなくては。この間母屋には電気が敷かれて明るくなり、その日は女中たちが光が染みるだの何だのと騒いでいたが、出久には関係のないことである。皮肉かそれとも単に電圧が足りなかったのが、彼が居る離れに電纜(でんらん)は繋がれなかったのだ。代わりに使わなくなった蝋燭なぞこの家には幾らでもあるが、遠い母屋まで取りに行くのが億劫なのと、もし夜に切れでもして暗い中取りに行くのは気が引けた。童心だろうと大人であろうと、あの暗さがとても恐ろしいものであった。
斯うして出久は夜の灯事情には敏感であったが、ある時分蝋燭を切らしてしまった。明日の朝にするという選択もあったが、果たしていつも寝過ごしている朝五時の寺の鐘を聞いて起きられるであろうか。いいや、と出久は首を振る。然しでは課題を放り投げるかと聞かれれば其れも出来ぬ。唯でさえ「木偶の棒」と詰られるのである。今まで忘れた事は無いが、忘れれば一層周りから野次を飛ばされ、教師から隠れた処で級友たちから皮膚を抓られるのだ。恥さらしめ、と従者の口からではなく目で蔑まれるのだ。勝己はどんな反応をするだろうか、と考えて、出久は目を伏せた。暗がりの畳の目に指を這わせる。このような時間だ。母屋で此処から一番近い部屋で寝ている従者の男に頼むには気が引けた。矢張り己が出向くしかあるまいと出久は足にぐっと力を入れた。
離れの門を出て、月明かりに照らされた庭を歩いていく。雨でなくて本当に良かった。蝋燭束と重い蛇の目など抱えていられるものか。ええい、行儀は悪いが正面よりは近い。このような時間に出歩く男衆も女中も居ないだろう。と出久は縁側の踏み石の無い所から母屋に上がる。炊事場が近いか、それとも玄関前の行灯蝋燭箱の方が近いか──出久は考えて玄関先へ向かう。炊事場は奥まっていて外の明かりが届かぬ場所があって不気味だ。遠回りだが玄関の方が宜しいと思ったようだ。
浸り浸り、つま先だけで移動していると、曲がった廊下先で声が聞こえた。男と、女の声だ。会話は止むと、男は首を垂れて出久が来た方とは逆の方に去っていった。それを見て、はてさてこの部屋は誰の部屋だったかと出久は思い出そうとしていると、その部屋から「ずる、ずるり」とすする音が聞こえる。出久の鼻に届いたのは、昼間どこかで嗅いだ匂いであった。喉を突かれ喘いでいた己の鼻の奥からつぅんと匂った、血。余りの衝撃に舌を噛んだのだ。その時喉の奥に入り込んだ匂い。出久は歯の先に鈍い痛みを持つ舌を擦り付けた。確かに今日日の出来事である。浸り、と歩いて気付く。障子が点々と黒く汚れている。その端は裂損しており、中が覗けそうな穴が開いていた。穴が開いているのであれば、自然と其処に目を当てたくなるというのは恐らくガリレオ・ガリレイが望遠鏡を覗き込むより前に出来た興味本位という反射行為であろう。出久は穴を覗いた。その先に星など在るとは思わなかったが、覗かずには居られなかったのだ。それが彼の一生を縛るとも知らずに。
出久は穴に顔を寄せて、一層血の匂いが濃くなったことに気付く。血は己の喉からではなく、この部屋から匂っている。さらに彼の鼻先は黒い部分に触れる。ふやけていた障子紙が纏わりつき、その黒い汚れが血なのだと知ったがもう遅い。明かりの無い部屋に、それは異様に灯(あか)るかった。闇にぽっと一つ抜きん出て明るい其れが、その部屋の惨状を語っていた。出久は中央に居るその女を知っていた。いや、思い出した。長い髪一つ一つが蠢くようにうねり、周りの寒さも空気の重さも知らぬと煙を吐く口。出久の目はそこから逃げることも出来ぬ。序に身も心臓も脳も止まっていた。然し生きている限り永と遠に其れは敵わぬ。生に踠く体がとうとう溜まっていた静脈血を心臓に送り、肺が酸素を注入し、動脈血が隅々まで活力を送る。動作が一気に押し寄せた齢八歳の体は、がたがたと震えた。「ひ、ひぎ、っ!」と出久は口の端から漏れた声を両手で抑えた。ふわりと煙で女の顔が一瞬隠され、灯が消えた。次の瞬間、真黒くぬらりとした瞳が障子越しに出久の目の前にあった。匂いが血なのか女の煙なのか、それとも女の体臭なのかもわからぬ。余りの恐ろしさに慄いた出久の体は仰け反ったが、尻もちをつく前に女が彼の腕を掴んだ。ぎゅうと掴まれているのに、何故か滑る。血だ。女の手に、腕に、べったりと新鮮な血が付いていた。障子紙が破れてもう一本、赤い手が伸びてきて出久の頭を掴んだ。
「この、愚図。何をのこのことしてるんだい」
出久はこの女が自分と誰かを間違えているのでは、と考えたが直ぐに矢張り自分のことだと思い直す。この由緒正しき日本家屋には、自分以上の木偶の棒は居ない、と。
「このままだとお前は死ぬ。あの子を殺してでも、お前は一等を取って来るんだ」
障子の奥から響く声は小さく、然しこの屋敷すべてに轟くようであった。出久は歯を鳴らし、頷く。相しなければこの部屋の奥で死に絶える人のようになる、と。無論、この血は女の物ではなく、この部屋の持ち主の物である。若く気の強い女中は、今部屋の中で血まみれの骸となり、其の喉は歯で食い破られていることなどこの時の出久には知る由も無い。彼はその遺体を見たわけでも無いが、其れでもこの女から匂い出る血がその誓約を取り付けた。女は満足そうに笑うと手を離した。出久の体は仰け反ったまま自然の理、重力の導きに依って仰向けに倒れ、その目は伏せられたまま翌朝を迎えた。
寺の鐘が耳に残ったまま、出久は茫と目を擦る。今日彼が目覚めることが出来たのは日々の習慣である。緑の目は学習机の上の途中になっている課題を見、それから薄く障子を開けて庭を覗いた。清々しい秋初めの空と、広い葉が染まり始めた小さな庭が其処に在る。どれ程恐ろしい夢を見た時もこの庭を一目見れば和らいだ心の臓が、一切も落ち着かぬという心地。昨日までは鳴っていなかろうが体が動いていればもぞもぞ動いているのだろうと謂う気の置き方であった。今は出久の心臓から鈍く揺らすような音が、確かに彼の耳の奥を打っていた。気にもしなかった音を気にする。何時も聞いていた音ですら、今の出久にはおどろおどろしく聞こえるのだ。
こうして彼は死に怯えるようになり、心臓が落ち着かなくなってしまった。
結局この日の朝餉は喉を通ることはなく、昨夜と同じ部屋を訪ねたが、障子も畳もすっかり綺麗になっていた。だが確かに女がこの部屋に居たのだと、逆手の襖の引き目に血の跡を見つけて出久は胸を抑えた。其のまま惚んやりとしたまま学校に上がり、課題については担当教員が二、三日休養をとるとのことで先延ばしになった。出久は首の皮一枚繋がった、とはならなかった。もう二度と学習課題を遣り忘れるなどと謂うことはあってはならぬ。恥を晒せば次あの部屋に居るのは自分なのだ。
生家に帰ると、出久の生活態度は一変した。家にある学習の為の書物を寝る間も惜しまず読んだ。武術に関しても只管打ち込んでいった。体の造りで補えぬ部分は当時珍しかった西洋式の筋肉負荷鍛錬を学び実践していった。然し如何ほど出久が勉学をしても武術を学んだとしても、成績は勝己が常に首位を取り続けていた。出久は三年課程が終わるとき二番目になったが矢張り勝己には勝てない。同じ屋敷に住んでいるため、出久は勝己に分らぬよう後をつけてその行動を観察してみたが、平坦な生活を只過ごしているに過ぎぬ。ということは、最早生まれ持った才能の差であると出久は結論付けた。殺してでも、という女の言葉が彼の頭を過る。正しく、勝己を越えるには殺すしか手段は在るまい。だがどうしてだって、出久には彼を殺すということは考えられなかった。其れと同じく、卑怯な手口も出久は使わなかった。真っ向勝負で勝たなくては、とてもでは無いが彼らの養父である軍人は認めないであろう。其のための監視として従者が居るのだとも、頭のよい勝己も出久も分かっていた。
齢がどちらも十を数えた頃、世界は彼らが生まれた頃よりもいっそう軋みや歪みが大きくなっていた。その日の朝、男衆も女衆も「欧州の方でオッ始めるか」「此れはそう為るわねェ」と言い大広間で集まると新聞を広げて仔細を見ている。出久は離れで朝餉を食べ、膳を下げて洗い場に持って行った帰りであった。この屋敷の人が集まって屯するなど珍しいことであった。故に出久は普段立ち寄らぬ大きな茶の間に顔を出し、人々の垣根の間から新聞を盗み見た。一面の見出しには、黒く大きな文字で「墺國王位継承者暗殺さる」と書いてあった。この人混みでは新聞をゆっくり見る暇もなく、勝己が通る恐れもあったので出久はそれだけを把握するとまた離れへ引っ込んだ。新聞は毎日見るが、夕方になってから見ることが主である。時事の記事など見ても仕様が無い。子には如何にも出来ぬ話しか転がっていないので面白くないのである。しかし出久は毎日目を通している。新聞の裏から一枚捲った紙面には、横長い枠がある。物語欄である。そこに一年程前から連載している英雄譚は、日々重苦しい環境で育てられている出久の、一つの楽しみであった。前納力男という軍人が、米国にて超人的力を駆使し人を助けつつ巨悪に立ち向かうという話は、大人から子どもまで人気があった。出久は学校で勉学に勤しみ、家に帰れば勝己と剣術の手合わせをし、それから従者の男とも手合わせを願い出て、風呂に入り汗水を取り夕餉を食べてから母屋に渡った。食べ終わった膳を下げてから、新聞のある茶の間に向かえば、そこに先客がいた。
「
……
」
「か、っちゃん
……
」
茶の間の雨戸側にいたのは勝己であった。彼は夕影を背にし、出久を新聞越しに睨みつけた。二人の関係と謂ふのは以前から一寸も改善していない。学校でもほとんど目を合わせることは無く、これは出久がずっと机に向かって勉学に勤しんでいるからもあるが、家に帰って来て剣術の合間も面越しで良く分からぬ。出久ははっきりと勝己の顔を見たのが久しぶりであったということである。
勝己の顔立ちと謂うのは、些か日本人離れしていた。眼光が獣のように鋭く、目元から目尻にかけて上に向いている。睫毛は伏せれば影を落とすほど長い。鼻筋は幼い頃からすっと通っており、大人になれば彫が深くなりさぞかし美男になるであろう。子ども特有の薄い唇から呼吸がゆっくりと漏れていく。勝己の視線はいつの間にかずれていて、母屋の奥まで見通しているようである。夏の夜間際になると皆寝支度で忙しいのか、風呂に入り蚊帳を吊り下げ、涼しい夜のうちに明日の準備をということで、茶の間の窓なぞ気にする者は居なかった。風鈴がちりりと鳴る。出久は鼻に石鹸の匂いを感じた。勝己は夕餉の後に風呂へと入ったらしく、髪の端々が濡れていることに、出久は気付いた。
「来い」
はじめ、出久はそれが本当に勝己から発されたものなのか疑った。口元は新聞紙で隠れているので、夏風と風鈴がそのように聞こえただけかもしれぬと目を何度か瞬かせた。然し勝己が畳を叩いたので、出久は音を立てぬようそっと勝己の隣に座った。勝己は出久を隠すように大きく紙面を広げ、片側を自分で持ち、もう片側を出久に持たせた。
「かっちゃん、あの──」
「読みたかったの、これだろ。さっさと読めよ」
出久はその紙面から目当ての項を見つけると、隣の勝己を見た。驚くほど近い。それどころか、腕が触れている。「触るな」と勝己から告げられて何年経つか。数えるより早く、勝己がせっつく。
「今日のは凄いから、早しろ」
出久の視線は紙面に戻る。最初の行を二回も読んでしまったので、出久は目をこすると夕日に照らされた黒点のような文字を丁寧に辿った。内容は理解できた。物語の主人公たる力男は今回、米国の紐育(ニューヨーク)にて敵と対峙するところから始まる。先週、力男の師匠と修行を積み重ねてきた力男がとうとう敵と対峙する場面は、緊張感で溢れていた。文末は、力男の師匠が拳を振り上げ、叫んでいる所で終わっている。
「う、わぁ
……
! 明日、どうなるんだろう? 決着つくかなぁ。お師匠様と一緒に死に物狂いで力男は修行したし、きっと大丈夫だろうけれど。いや、敵には仲間がたくさんいるから、囲われたらひとたまりも無い、よ、ね
……
」
考えていることを早口に呟いてしまうのが、出久の癖である。先生や従者からは「君が悪いので止めなさい」と叱られることが多いこの癖は、普段抑えるようにしているものの、どうしてもこの英雄譚を読了後はやってしまうのだ。次の話はどうなるのかと気になって仕方が無いということもあるが、何よりも出久は前納力男の直向きな善性が好きであり、興奮してしまうのである。だがその癖も今日は、今日こそは抑えた方が良かったろうと、さんざ呟いてしまった後に出久は後悔した。勝己は自分のことを酷く嫌っていて、この癖のことも嫌っているであろう。そう思っていた。新聞紙の端が揺れているのに気づいた出久は、ゆるりと首を隣に向ける。すると、勝己は口元を抑えて──笑っていた。勝己はひとしきり笑うと、肩を上下させながら「相変わらず気味が悪いなァ」などと言いつつ、ゆっくりと新聞紙を閉じていく。もう片方の端っこを出久に持たせると、窓際と新聞紙で隔たれた空間から去っていく。
出久はしばらくその場に残っていた石鹸の匂いを嗅ぎ、昔のことを思い出していた。今しがた勝己が見せた笑顔は、昔遊んだ時にくったくなく笑った顔そのままである。風鈴の音が止むと、出久は嗚呼と合点がいった。詰る所、勝己も自分と同じ境遇であるのだ。親を失い、乳母に育てられ、恐ろしい女が支配するこの家に定められ競わされている、英雄譚の好きな少年である。名前が違うだけで、概要は同じ者が二人。その夜出久は布団に潜ると泣いてしまった。
監視の目から逃れてひっそりとした逢瀬は、その日だけに留まらず、都合が合えば二人は然うした。余りに時間を気にすれば怪しまれるし、茶の間なぞは男衆も女衆もよく屯する場所である。冬であれば囲炉裏に当たりに挙って来るのだから冬は一か月に一度有るか無いかであった。それも次の春になれば人が疎らになっていき、窓際と新聞の間という空間で、二人は桜の花びらが散らばる畳の上に座していた。勝己の態度はこの時ばかりは出久に優しい。普段勝己は出久を学校では眼にもしなければ、手習いの間は虚転々ゞ(こてんこてん)にやつける。だがこの窓際に納まるときばかり優しくされるのだ。出久は暫し混乱したが、元来の距離に納まっただけであり、普段の勝己こそがおかしいのだと思うことにした。二人の距離はそれ以上縮まるという訳でもなく、英雄譚を時折一緒に読む関係であった。それにしても心臓は煩かった。その時の勝己は出久を責めるようにねめつけるでもなく、痛くすることもない。死にそうな思いをする訳でもないのに、出久の耳や頬には囂々血が循るのであった。
桜の散って畑の新芽が出るころ、「まぁ」と高い声が聞こえた。注意は十分払ったつもりであるが、茶の間という場所を選び続けたのが悪かったのか、いずれにせよ何時かは見つかるモノであろうと思っていた逢瀬が、とうとう女中に見つかった。勝己は一度出久に目配せして「御前、此処から動くなよ」と言うとするり猫のように紙と畳と硝子で在った温かい場所から抜けていった。
「あ
……
」
出久は何も言えず、支えを失った新聞の端から勝己の姿を目で追った。幼い足が廊下に佇む白足袋の元に近づくと、その女中と一言二言、静かに言葉を交わしたようであった。その内容は出久の耳には聞こえてこなかったが、女中の疣付いた顔が下品に笑ったのでぞわりと背中に悪寒が走った。其のまま勝己の腕は女中に掴まれて行くのを見て、出久は立ち上がろうとした身を畳に遣ることしか出来なかった。声を漏らそうにも「アぁ」とか「うぅ」とかそういう、獣の弱ったような声しか出ぬ。畳が嫌に冷たいものであるとか、大人がのしのしと床を歩く揺れが気持ち悪いだとか、とうとう口から夕餉を吐き出してしまったのであるが、己の身など疾うに知らず。只廊下の闇に消えゆくように引き摺られて行った勝己の事ばかり考えていた。
出久は夜中に嵐を聞いた。びュうびュうゼェゼェと響くので、春なのに珍しい木枯らしが酷い等と思っていたが、目を開けて可愛がっていた小さな庭の藪椿が全部落ちていたことを悲しく思った。だが手を伸ばそうにも節も痛ければ体が鈍い。とつとつ音がしたので出久は頭を動かし見た。従者の男が口を黒いビロードで覆っている。従者は甘い汁と、粥を出久に流し込むようにして食べさせると、薬包紙を取り出し、湯を茶碗に注いだ。
「医者先生が来なさって、良くなるよう薬も出ました。さあ飲みなさい」
煎じた茶色い粉に黄色もあれば白もある。ぼやけた目でも何種類か薬が混ざっている事は分かるが、それほど大病を患ったのかと出久は口を確りと閉じた。アレは相当に苦い。一番記憶に残る苦さであると、大人になっても語る程苦い薬である。出久は口を閉じていたはずであるが、大病によって痛みと倦怠感を患う身体ではすぐに決壊した。舌に広がった苦みに悶えながら、湯で流すこと数回。しびれるような舌で、ようやっと言葉が出てきた。
「きのうの晩は、ひどい嵐でしたね」
従者の男は始末をしながら、はてと首を傾げる。
「坊ちゃん。昨晩はね。静かでしたよ。こんな街にも星が聞こえるくらいでした」
熱が酷かったので、肺の音でも酷く聞こえたんでしょう。従者はそう言うと氷枕と出久の着物を召し変えて、部屋を出ていってしまった。黄疸性カタルであることを、出久は長らく休んでいるうちに知るが、その時は泥の中に混じった赤い椿をじっと見ていた。きっと目の端が黄色いのも、その中にある雄蕊をじっと見つめていたからであろう。そんな風にして日々を過ごした。出久は熱が引いても、部屋から出ることは叶わなかったのだ。
「悪い虫が居つくので、夏ごろまではここで勉学致しましょう」
斯うして夏が始まるころ出久はすっかり英雄譚がどうなったかを忘れてしまっていた。母屋に通えるようになってから、窓辺で新聞を捲る勝己の姿も見えない。学校に通うようになると、皆出久を菌扱いし離れるようになった。その向こうに勝己は居るが、どこか虚ろである。
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