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いを
2024-01-05 18:43:14
3057文字
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刀神
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贋作の夜
菊司のこと。
・(お名前だけ)定之さん【higasa_onink】
お借りしています。
「母さんがね」
凪はカフェのすみのテーブルに置かれたコーヒーカップをソーサーに戻しながら呟いた。
菊司の、血は繋がっていないが兄にあたる男は立派なスーツを着て、菊司を見定めるように見つめている。
「俺からこんなこと言うのもおかしいんだけどさ。お前、付き合ってる子とかいないのか?」
「いるように見える?」
襟のだらけたシャツを着て、ベルトの代わりに組紐を腰に巻いている男に。
頼んだコーヒーは湯気があがって、菊司の丸い眼鏡を曇らせた。これで目が隠せると、内心安堵する。
凪の姿勢はぴんと真っ直ぐだった。向かい合ってすわっている菊司はといえば猫背だ。
――
これが、菊司なりの恩返しのつもりでいる。誰にも言うことのない恩返しだ。
兄の凪、姉の波。彼らより劣っていればそれでいい。劣っていなければいけない。
兄や姉の事業に口出しをしたことはない。
たとえなにかアドバイスできることがあったとしても、口に出すことは一度たりともなかった。
それがたとえ、彼らに対する侮辱にあたっているとしても。
今の両親が、血の繋がっている自分の息子や娘が養子である菊司よりも優れていなければならないのだ、という思いを抱いていることは知っている。
「
……
母さんに、結婚しないのか、とでも言われて来たの?」
コーヒーカップに手を伸ばして、一口飲みこむ。フルーティな苦みを感じた。
目の前の凪はとても難しい顔をして、「そうだな」と頷いた。
「父さんや母さんは、そろそろ結婚しなさいと言っている。好きな人がいるなら別だが、いないなら見合いという手も」
見合い。
どうせいいところのお嬢さんと見合いをさせるつもりなのだろう。
好きな人はいないのか、という問いはただの口実だ。実際は「見合いをしなさい」と命令しているに過ぎない。
「僕ねぇ、兄さん。ほんとに、拾ってもらった恩返し、なんにもできていなくて申し訳ないんだけど」
「
……
」
「兄さんにも姉さんにもよくしてもらったね。ちいちゃいとき、大人たちの嫌悪の目から守ってくれたことも、一緒に夜、部屋の中で枕投げして遊んでくれたことも、母さんが眉をひそめたくなるくらいに一緒に泥遊びしたことも、父さんが嫌っていた漫画をこっそり買ってきてくれたことも、みんな覚えているよ」
「そんなこともあったなぁ」
目尻のしわがすこし、深くなる。懐かしむように、目を細めていた。
「でもね。僕、だめなんだ。清陵院家の養子でもあるし刀遣いでもある。そんなどっちつかずで生きてきたのに、結婚なんてできやしない。その
娘
こ
がかわいそうだ。こんな僕なんかと見合いなんて」
「刀遣いでも、一般の子と結婚しているひとはいるだろう」
「それはね、そういうひともいるだろうよ。でも僕はだめだ。兄さん」
はめごろしの窓から、星が出ようとしている。けれど一番星がかすかに見えた。
枯れた木の葉がゆらゆらと冷たい風にゆれて、じきに落ちてしまいそうだった。
「
……
なぜ、だめなんだ?」
膝の上の手のひらが、ゆるく丸まる。がさがさとした爪の先が手のひらにわずかに食い込む。
凪は真っ直ぐな目で菊司を見ていた。
否定も肯定もしていないような目をしていた。
「僕が、家族愛というものを理解できていないからだよ」
ガタガタと窓ガラスが揺れた。近くで電車が通ったのだろう。
凪は眉間に指をあてて、ため息をつく。「そうか」と小さな声で呟いたようだった。
「愛はなくても結婚はできる。でもそれじゃあむなしい」
「だからいっただろ。かわいそうだって」
「そうだな」
「母さんには僕から言っておくから、兄さんは心配しないでいいよ」
「お前は、清陵院の家に入って不幸だったか?」
唐突に、凪が問う。菊司は目を伏せてかぶりを振った。
「僕が不幸だったことなんて、今まで一度もないよ」
だからといって、幸せかと問われたら「分からない」と言ってしまうけれど。胸中で思うが、凪からの言葉はなかったので口を閉ざしていた。
「それならいい」
ほっとしたような声色で凪はコーヒーを優雅な手つきで飲んだ。
汚れたことのないような手だ。
きっと肉刺もあかぎれも知らないだろう。これからもきっと。
刀遣いの手は、みな硬いと思う。
滅多に現場に出ない菊司もこうなのだから、鯉朽隊の刀遣いはきっと、もっと硬いものだと思っている。
どれだけ痛んでも、どれだけ傷ついても刀は手放さない。まるで、誇りのように。
「答えてもらってなかったな」
凪は菊司の眼鏡の奥を見つめた。
湯気はもう出ていない。視線も分かってしまっているだろう。
「
……
好きな人はいるのか」
ふと頭をよぎるのはオレンジに似た色の髪の毛をした彼の姿だった。
好き、や、嫌い、で人間を分けたことはない。
それが「恋愛」を内包するものならば、なおさらだ。
いわゆる恋愛としての「好き」を、菊司は知らない。分からない。
ふう、とゆっくりと息をつく。
それでも彼
――
、豊和の整備をする菊司の背中を時間が許すかぎり見つめているその子に、誰が嫌い、と言えるだろう。
「嫌い」でも「普通」でもない。
だったら何なのか。
その答えをまだ出せずにいる。
――
弱虫。
幼馴染みの藤子の冷めた声が聞こえた気がする。
そうだよ。僕はずっと弱虫だった。いつまでも弱虫のままだ。
「僕は今まで、恋をしたことなんてない」
一度も。
「
……
」
凪はひどく思い詰めた表情をして、白磁のコーヒーカップを見下ろした。
「けどそれを誰かのせいにはしないよ。兄さん。ひとをさ、好きになるっていう感情を持とうとしなかった僕の責任だ」
「それは違う。お前は遠慮していたんだろう。俺たちに」
「フフ、そうかもね。けどべつに兄さんたちのせいにはしてないよ」
興味を持てなかっただけなんだろうと思う。
けれど定之、彼のことは大切だと感じている。すくなくとも。
それをひとは「特別」と。
――
「特別」、などと呼ぶのだろうか。
定之の純粋で無垢な視線を、定之のことばを、菊司は知っている。心の外側をすこしだけ、知っている。
不安。こころという不確かなものを掻き回されるような、そんな痛みや、温度を感じないはずの器官があたたかくなる感覚。彼といるときは確かに少しずつ、感じてきていた。
三人で水平線を見上げたあの日、菊司の捨てるべきだと考えた思い出を、彼は「捨てなくていい」と言った。
それを菊司は「優しさ」と呼んだ。
「けど、
……
うん。今はとても、大切にしたい子はいる」
「
……
そうか。よかった。そう思えるひとができて」
カタン、と凪は音をさせて立ち上がった。伝票を持って、「それじゃあ、また」と菊司に背を向けてレジに向かっていった。
それを見送って、窓をのろのろと見上げる。
夜はいつの間にか訪っていて、銀色の星が出ていた。
もうどれが一番星かなんて分からない。
そうやって、人間も紛れていくのだろう。
けれどどれだけ紛れたとしても、見つけ出せるくらいの気概は菊司にはある。
誰を、とは自問しなかった。
分かりきっているからだ。
大勢の人間のなかでひとりだけをいちばん大切にしたいなんて、刀遣い失格だろうか。
菊司は臙脂色のソファの背もたれに背中を思い切りもたれて、天井を見上げた。
カラカラとかすかな音をたてて、シーリングファンが回っていた。
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