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ひろか
2022-10-12 23:23:51
9708文字
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観劇録
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*観劇録*『葬送曲』感想と考察。
おぶちゃさんの『葬送曲』の感想と考察です。
⚠︎内容に関するネタバレ・深読みを含みます。
*観劇録*『葬送曲』感想と考察。
⚠︎内容に関するネタバレ・深読みを含みます。
今年に入ってから定期的に観に行っているおぶちゃさん。2022年は記念すべき5周年のメモリアルイヤーということで、9ヶ月連続企画に挑戦中である。以前観に行った『スプリング、サプ、カム。』や『御縁記念日』もそのひとつ。
そしてとうとう、連続企画の最後の演目がやってきた。『葬送曲』。主演の髙畑岬さんを筆頭に、おぶちゃではお馴染みの役者さんたちが並ぶ。そしてはじめておぶちゃに出演される役者さんたちも。おぶちゃ史上最多人数で繰り広げられるこの作品に対して期待しないわけがなかった。
最初に観劇した時の印象をひと言で表すなら、生々しい。人間のリアルというか、もっと狭い家族のリアルを描いているだけに、私にも思い当たる節が多くあってどきっとした。
おぶちゃ暦半年の私でさえ、決して明るい印象のタイトルではない今作もきっと手放しにハッピーエンドのはずとどこかで思い込んでいた。事前におぶきょさんが「タイトルの暗いイメージをそのままの作品にはしない」とおっしゃっていて、それはたしかにその通りだったのだけど、観終わった後の感情がこれまでのおぶちゃ作品と全然違った。個人的な初日を観終わった後の私は文字通り呆然としていた。
ごくありふれた日常。葬送曲で描かれているのは何も特別なものではなくて、誰にでもあるはずの日常だ。だからこそ暗く重いばかりの作品ではなく明るい場面や楽しい場面もあって、登場人物たちが直面する問題もだれにでも思い当たるものだったと思う。
「こういう家族の問題って大人になってから出てくるよな」というキョウヘイのセリフは本当にそうで、ただそれは自分が大人になったから"出てきた"というよりも"見えてきた"なのかなと思ったりもした。子どもでいるうちは大人も家族が抱えた問題を隠そうとするし、子どもも不穏な空気を感じ取りつつも難しい言葉はわからないから大人同士の会話が耳に入ってきても理解はできない。15年前の祖父の死に際してキョウヘイの両親や伯母さんがしていたのは果たして本当にお葬式の段取りの話だったんだろうか?きっとそうじゃないことにキョウヘイも薄々気付いていたんじゃないだろうか。ただ彼はその時まだ受け止める余裕はなく、家族の問題に向き合うには子どもだったのかもしれない。20歳といえば成人こそしていても大学に通っていればまだ学生だし、キョウヘイ自身将来のしがらみにとらわれずにお芝居に打ち込めた頃だと思うので、そういう意味ではまだ"子ども"だったのだろう。家族というのはバランスだと思う。本当はそこに内在する問題というのは慢性的にあるはずで、それが誰かの死によって表面化することは珍しいことじゃないだろう。特にキョウヘイたちが直面した相続の問題というのは、なんとかしなくちゃと思っていても実際その時が来るまで話が進まないものなのだと思う。ただそれが一気に表面化したことでキョウヘイはこう思ったのだ。
「現実はなんの前触れもなく壊しに来る」。
私このセリフがすごく好きで。それまで髙畑岬さん演じるキョウヘイと田中菜々さん演じるその妻ノノの夫婦漫才で明るく楽しい雰囲気だったのが、このセリフ(正確にはひとつ前の「15年間なにしてたっけ」も含む)から一気に変わる。たしかにキョウヘイにとってそう感じたきっかけである"15年前の祖父の死"というものが目の前にある家族の問題の起点として語られる以上、祖父の死という現実がそれまでの家族の平穏を壊してしまった、と取ることもできる。しかしそれ以上にこのセリフには含みを感じていて、キョウヘイがこの歩んできた15年間のなかにそんな瞬間が散らばっていたようにも思うのだ。そのきっかけになっているのが、作中は電話であることが多かった気がする。たとえば決まっていたドラマを降板になったとき。リョウヘイがやらかしたと連絡を受けた時。リョウヘイが跳ねられトモヤが倒れた時。シロタに呼び出された時。もちろん他にもいろいろあるけれど、作中電話がなにかいい知らせだった場面ってそんなに思い浮かばない。電話って基本的に突然鳴るものだし、なんの前触れもなく壊しに来る現実の象徴としてわかりやすかった。
反対に日常の暗喩としては食事のシーンが使われていたのかなと思った。作中どんなトラブルがあっても、必ず一度食事のシーンを経由していたんじゃないかと。思えば冒頭の夫婦漫才もお米が炊けるところから始まるし、15年前の場面もお葬式の夜の食卓から始まる。こと大部家はご飯を食べることをすごく重要視していたような気がして、いただきますをしっかりと言うのが印象的だった。各々の生活に何が起こってもそこだけは変わらない。たとえトモヤの心臓が止まってしまって一家の食卓に彼がいなくても食事の時間はやってくるし、いただきますの挨拶はしなければならないのだ。何が起ころうが現実が壊しに来ようが、ある意味日常を生きなければならない。食事というのは生きることでもあるから余計それを感じたのかもしれない。
日常というのは往々にして、当たり前のようで当たり前じゃないのだと思う。笑いあったり喧嘩したり、そんなありふれた日常が実は薄氷の上を歩くようなものかもしれないということを実際に理解している人ってどれくらいいるのだろう。言葉ではそう言っても理解している人ってそんなにいない気がするし、きっと私もその一人だ。そういう意味でも登場人物たちの日常というのは"どこにでもある"と表現出来るのだと思う。もちろん、その人の日常はその人にとってかけがえのない唯一のものではあるけれど。
一方でキョウヘイの役者、という仕事柄、観客という立場の私にはなかなか経験しないものがあったのも事実だ。その筆頭として描かれていたのが劇団内でのパワハラである。
職場でのパワハラ、という意味では会社だとかバイト先だとかさまざまな場所であり得るものだと思うけれど、劇団というさらに狭く人間関係が密な空間で起こるパワハラだからこそ、他の場所のものとは違った威圧感を感じた。ボスを演じるおぶきょさんのお芝居、怖かった
…
。普段イベント等でにこやかに優しく対応してくださるおぶきょさんしか知らない身としては、今回のボス役はなかなかに衝撃的だった。高圧的で自分本位な劇団のボス。彼が声を荒らげるだけで身の竦む思いがしたし、やってることはもう無茶苦茶で。たとえそこに何が起こるかわからなくて辞められないという現実があったとしても、そりゃあ外からは信仰集団に見えてもおかしくなかっただろう。
そんな環境下でキョウヘイも充分ボスのパワハラを受けていたと思うのだけど、なんと言ってもシロタさんがしんどかった。彼女はボスからのパワハラさえなければ彼女のいう"真っ直ぐに生きたかった"を実現できたんじゃないだろうか。負けたくない、泣きたくないと仕事に打ち込む彼女はかっこよかったけれど、それすらどこか痛々しくて。最初の読み合わせやそのあとキョウヘイと話すシーンではどこにでもいるキラキラした女子大生だった彼女がボスとの一件を境にどんどん疲弊し虚勢を張り続けることになるのが悲しかった。
作中一番謎が多かったと感じるのがこのシロタさん。思うに彼女はショウ以外とも関係があったのではないかという気がしていて、そんな自分やショウの真っ直ぐ自分を案じてくれる眩しさを見比べてなお落ち込んでいったんじゃないかと思っている。子どもを産まなかったのは金銭的にもショウの立場的にも厳しかっただけじゃなく、お腹の子がショウの子って確信がなかったからなんじゃないだろうかと。それで言うとショウもかわいそうで、ショウとの対峙の場面、キョウヘイは何も間違ったことは言っていなかったと思うのだけど、ショウにとってはもう聞く耳すら持てないほど追い詰められていたんだと思う。あれだけ荒んだ態度を取り続けたにも関わらず、産みたかっただけなんすよ、とすべてが決壊したように涙を見せたショウ。ショウが慕っていた分キョウヘイもショウを可愛がっていたはずで、そんな後輩のそんな姿を見てしまったらこれ以上追い詰めることなんて出来なかっただろう。同時に虚無感にも襲われたのだと思う。すべて投げ出したくなったというか、ここまでする意味というか
…
「こんなもん書かなくていい。もう行け」と告げるキョウヘイの横顔は疲れ切っていた。
劇団のことに限らず全編通して、登場人物みんなキョウヘイに頼りすぎっていうのはすごく思って。キョウヘイのモデルとなったおぶきょさんが書いている台本だからどうしても自分が体験したこと感じたことがメインになるのはある程度あるとしても、何かあるとみんなキョウヘイに頼るからそこが息苦しいところではあった。要所要所に出てくる「キョウヘイさんがボスに取り計らってくれた」というセリフからもわかるボスからの信頼の厚さもあっただろうけど、なにより三兄弟の長男としてのキョウヘイの在り方が周囲を頼らせたのかなとも思う。長子ってどうしても頼まれてもないのに世話を焼きがちだしすごく周りを見て動くから自然とそうなってしまうんだろうな。キョウヘイのケースはまた特殊だけれど、そういうところに同じく長子である自分と重なる(といっても私はそんなに頼りがいのある人間ではないのだけど)ところがあったのもまた見ていて苦しかった。
そんな中でもよかったのは、ボス除く劇団のメンバーが結構和気藹々と真剣にお芝居に向き合っていたこと。みんな劇団のシステムはおかしいと思いながらいろいろ策を練りつつも、お芝居がやりたい、お芝居が好きっていう思いは本物で。この先役者として何がしたいか語る場面はすごく夢に溢れていて素敵だった。仲の良さが伺える場面も多くあったし、「このメンバーでお芝居したい」という思いがみんなにあったのだと思う。そういう環境で活動できるのは役者だろうがそうじゃなかろうがすごく刺激的でいいことだと思うし、ボスのパワハラが横行する中でもそれを愚痴りながら一緒に戦えるのはよかったのかなと。
そしてリョウヘイがリエちゃんと出会えたこと。たしかに劇団内恋愛禁止というルールがあり、それを言われた上でメンバーになっている以上、キョウヘイがショウに言ったようにルールを破るのはだめなことだと思う。それでもこの劇団に入ってリョウヘイが頑張っていた時期も、リエちゃんと出会って最終的によきパパになっているのも、この劇団がなければあり得ないことだった。
キョウヘイ・リョウヘイ・トモヤの三兄弟、各々がすごくいいなと思って。三人ともものすごく兄弟思いなのがいろんな場面から伝わってくる。男兄弟の空気感って私には全然馴染みのないものなんだけど、ある程度三人とも成長してつかず離れずのちょうど良い距離を保っているのが、全体的に人間関係に何かしらの重さがあるこの作品の中では見ていて心地よかった。ことキョウヘイについてはこの作品のストーリーテラー七割を占めていたからこそ弟たちを大切にしているのがものすごくよく表れていた。作中彼が家の中でも外でも長男しすぎで観ていて苦しかった話は先ほども書いたけれど、キョウヘイが長男としての役割を果たそうとしている時と弟たちの前で自然に長男である時とは受ける印象が全然違った。ちなみに私が前者の代表格だと思うのはラストのおばちゃんと対峙する場面、後者の代表格だと思うのはボスに頭を下げて「それでも弟なんすよ」とリョウヘイを庇う場面とユウカに対して「弟死にかけてたんだぞ」と声を荒らげる場面。そんなに長男として、と気負わなくても立派に長男できてるよキョウヘイ
…
。
彼らが過ごしてきた日々の中にそんな瞬間ってたくさんあったはずで、リョウヘイとトモヤは少なからず兄のその背中を見てきたんだろうな。キョウヘイの結婚式、とんでもない振る舞いをし出した従兄弟を二人がかりで連れ出してそれぞれの言い方で咎める場面に、弟たちから兄への想いも感じられてとても好きな場面。
結婚式の場面に限らずリョウヘイやトモヤに関してもいろいろな場面で兄弟への思いが見て取れた。
一番表れていたのはやっぱりトモヤの心臓が止まってしまった場面だなと思う。あの場面はどこか二人の関係性というよりは三人それぞれの気持ちや関係性がすごく如実に出ていた。キョウヘイとリョウヘイはよく喧嘩をする兄弟だったと語られるけれど、二人とも末弟をとても可愛がっていることが御百度参りのシーンで痛いほど伝わってきた。弟の死の淵に立ち会ってあんなに必死に走って祈って
…
キョウヘイはともかく、リョウヘイが連絡を受けて急いで駆けつけ、雨の中祈る姿は紛れもなくお兄ちゃんだった。家族の中でたった一人、「そんなのかわいそうだ」と除細動器を入れることに反対したリョウヘイが、一度外に出てくださいと頼まれた時一人だけ何か言おうと前へ出る。そしてキョウヘイが黙ってそれを止める。この時二人が眼差しでどんな会話をしたのかはわからない。けれど二人がトモヤの兄として何が最善か考えて行動したのがこの場面だったのだと思う。その結論は二人で食い違っていたけれど、そこはリョウヘイもキョウヘイの静止を飲むんだよね。これまでキョウヘイが自分の兄としてしてきた振る舞いを思えばこそ、ここは兄に従っておこうと思ったのかもしれない。いや、もしかしたらかける言葉なんて明確ではなかったのかもしれない。それでも穏やかな弟が声を震わせて叫ぶのを目の当たりにして何か声をかけてやりたくて前へ出たのだろう。本当に優しく、弟思いのリョウヘイがそこにいた。それを止めるキョウヘイもまた、リョウヘイもトモヤも大事に思っている兄だった。
この場面、やっぱりトモヤ役の鈴木雅也さんのお芝居の力がなければ成立しなかったと思う。穏やかで寡黙な三男、役者とヤンキーの兄を持ち、その必要はないのだと頭で理解しながらもどこか兄たちに引け目を感じている様子だったトモヤ。部分的にストーリーテラーを担う分彼の心情が語られる場面もあるにはあるけれど、それは観客に向けてのものであって、キョウヘイたち登場人物にはなかなか気持ちを吐露する様子のなかったトモヤ。
心臓が止まって生還して、除細動器を入れることを聞かされた時のあの叫びではじめて、トモヤは自分の気持ちを家族に吐き出したのかなと思った。もちろん夢が絶たれるかもしれないことや、急に心臓が止まっていたと聞かされた動揺もあっただろう。障がい者という言葉の重みもあっただろう。けれどなにより「なんでもかんでも俺の知らないところで決めやがって!もうガキじゃねんだから!」という叫びに、これまでトモヤが感じてきた疎外感や孤独のようなものを感じて胸が痛くなった。末っ子ゆえに歳を重ねても子ども扱いされることも多かっただろうし、まだ知らなくていいと言われたことも多かっただろう。兄二人が口を利かなくなった時も特別何も聞かず、何も話されることもなく。そんな些細な積み重ねが彼の孤独になり、ここで爆発したような気がする。痛切な表情が痛々しく、勝手に生かすなとらしくもない言葉を吐いても結局彼は手術を受けたのだろう。でももしかしたらそれも彼の意志というよりは、親や兄を悲しませたくないという彼の優しい気持ちだったかもしれない。手帳を叩きつけようとして出来ない彼のもどかしさや虚しさがつらかったし、キョウヘイの「トモヤが健常者として生きられる世界はもうない」というセリフが私の職業柄とてもつらくて。健常者と障がい者、なにも変わらないと、障がいを個性だと言うには厳しく冷たい現実がそこにある。当事者であったトモヤや家族はそれを痛感したことだろう。それでも現在軸の場面ではトモヤは穏やかで心優しいまま、結婚してパパになっていて少し安心した。
というか、お母さんの人生に試練があまりにも多い
…
。御縁記念日の踏襲が多かったのも葬送曲の見どころだったなと思っていて、そういう場面が出てくるたびに知ってる!観たことある!と心の中で大興奮だったのだが、だからこそ御縁記念日の未来はこう描かれていくんだ
…
という感慨もあって。
長男キョウヘイを産んだ時には肺が潰れていると言われ(@御縁記念日)、次男リョウヘイはやんちゃゆえに車にはねられ、トモヤは心臓が止まって死にかけ、そしてつきまとう介護と義姉の問題。もちろんそれだけではない人生なのだろうけど、こうして列挙してみるとあらためてその人生に山が多い。にもかかわらず一家全体を明るくしてくれる陽気さを持つお母さんは本当に素敵なお母さんだと思うし、御縁記念日と違ってキョウヘイ目線で進む話で他でもないおぶきょさんが母をそう演じるということは、おぶきょさんの目にはお母さんがそういう存在として映っているんだろうな。
お母さん然り、他の登場人物たちについてもものすごく丁寧に描かれているなと思った。おぶちゃさんの作品は"人"に重きを置いているイメージがあって、そういうところが私がおぶちゃさんの作品が大好きになった理由だと思っているのだけど、葬送曲に関してはおぶきょさんの周りの方々がモデルになっているからこそそれをより強く感じたのかなと思う。だからおぶきょさんの目にお母さんが明るく陽気で優しい素敵なお母さんと映っていたのと同様、たとえばリョウヘイのちょっとしたかわいげとか、ノノさんの癒しかつ愛おしい空気感とか、そういうのはおぶきょさんがモデルとなった弟さんや奥様を見て感じていることなんだろうなと。「人物伝が好き」というおぶきょさん、結論"人が好き"なんだろうなと思った。いいところも悪いところも含めてその人で、いろんなことがあっても決してその中で喜びと希望を諦めないというか。そんな気持ちがおぶちゃさんではお馴染みサプリンさんを生み出したり、こんなに素敵な役者の皆様が集まったり、彼らが本当に心の底から楽しそうに稽古をして、その成果を本番にぶつけてくれたりするんだろうなと思う。
だからだろうか。
私が観てきたこれまでのおぶちゃ作品の中核には"人の善性"というものがあった気がしている。スプサプも御縁記念日も、どの作品も絶対に「人間っていいな」としみじみ思わせてくれる作品だった。
だからこそ最後のキョウヘイとおばちゃんのシーンは鳥肌がたった。なんとも言えない当たり障りのない会話が交わされる中、その場にいないはずの役者たちがぞろぞろと現れる。この時点で感じた不気味さは相当のものだったけれど、何か聞こえる
…
?という疑問がはっきりと言葉として耳に入ってきた時、ぞっとした。私の耳にはっきり届いたのは「帰れ帰れ」と呟き続ける声。他にも苛立ちを隠さない言葉が口々に発されるあの場面、スポットライトが当たっているのは中央にいるキョウヘイとおばちゃん、そしてソウタくらいなので、すぐにこれがおばちゃんの内心だと察しがついた。それなのにおばちゃんはこれ以上ないくらいの笑顔を崩さない。心の声が聞こえるはずもない。それでもキョウヘイは、リョウヘイの結婚式でおばちゃんが笑っていなかったことに気づいたのと同様、またも気づいてしまうのだ。おばちゃんの笑顔の裏に隠されている心の声の数々が汲み取れてしまって、どんどんキョウヘイの笑顔が引き攣っていく。
ここのお芝居徐々に変わっていくのに明らかに変化が見られるから食い入るように見てしまった。キョウヘイの背中に冷や汗が流れる感じとか、喉元にまとわりついて首を絞められているかのような圧迫感、言葉が喉に詰まって音にならない感覚。客席にいてもキョウヘイに押し寄せているのと同じ感覚が伝わってくるようだった。かと思えばようやく出てきたのは「次いつうち遊びに来る?」という震え混じりの言葉。それを聞いた"心の声たち"は堪えきれないとでも言うかのように不快さと苛立ちをより一層露わにする。それでもおばちゃんは貼り付けた満面の笑みのまま、こう口にするのだ。
「また集まりたいねぇ!」
5周年というおめでたい年の、おめでたい企画の、最後の作品。おぶきょさん、この作品が最後でよかったんですか?と思ってしまうと同時に、最後だからこそこの作品だったような気もして。『御縁記念日』が"大部家が出来上がる話"なら、『葬送曲』は"大部恭平がいまに至るまでの話"。それも作中で2022年までが描かれているということは本当につい最近の話、あるいは現在進行形の話であるわけで。主人公のキョウヘイがおぶきょさんモデルであることを考えると作中のキョウヘイの感情には多少なりともおぶきょさんご本人の感じたものがベースになっているということで、それを他人に託すってある意味ものすごい挑戦なんじゃないかと思っている。そしてそれを託す相手がおぶきょさんが「年齢とか芸歴とかいろいろ混ぜた結果"俺の友だち"」と呼ぶ岬さんだったの、絶妙にしんどくなってしまった。キョウヘイ役の岬さんに限らずおぶきょさんの人生を彩ってきた大勢の人をモデルにした役を役者さんたちに託すわけで、そこにおぶきょさんの役者さんたちへの信頼を感じたし、役者さんたちお一人お一人がそれに応えようとしていたのがすごく伝わってきた。
たしかに観劇後は呆然としたし、これまでのおぶちゃ作品のようにあーしあわせ!!とはならなかったのだけど、間違いなく、とんでもなくいい作品を観た自信だけはあった。
人間ってとてつもなく難しいようで、やってることはすごくシンプルで。それなのにこんなにも生きるということが難しいのは、キョウヘイの言葉を借りれば「どう生きたいか、どう死にたいか」を考えながらもがいているからだと思う。おばちゃんと別れたあとのキョウヘイのセリフ、言葉自体のメッセージ性と岬さんの表現ですごく優しく、やわらかく心に染み込んだ。どう生きたいか、どう死にたいか、なんてきっとどれだけもがいても結論が出ないものだと思うし、そうと知りながらも生きている限り向き合ってもがき続けなければならないのだろう。だけどそれでいいのだと、人間という生き物をまるっと認めてくれるような、根本的な意味では"おぶちゃさんらしい"作品だった。
葬送曲。それは人の死を悼むための曲。
この曲で描かれたのは人の死、というよりも、人の生だったような気もするけれど。
葬るということは思い出にして大事に胸にしまっておくことだ。時々そっと取り出して、あんなこともあったなぁと眺めることだ。だからこの葬送は明日を生きていくために必要なものだったのだと思う。そしてその後には家族で食卓を囲みながら愚痴を言ったり近況を報告したり、そんな日常が続いていくのだ。
あらためましておぶちゃ5周年、おめでとうございます。
おぶちゃさんと出会ってまだ半年ほどの私ですが、人を丁寧に描き人を"よし"とする作品に、観るたびに人生いろいろなことがあるけれど悪くないなと、心を柔らかく包みこんでもらっているような心地がします。
9ヶ月連続企画とっても楽しませていただきました。本当にお疲れ様です。
6年目のおぶちゃも応援させてください!
〈『葬送曲』公演情報〉
※敬称略
製作:おぶちゃ
公演期間:2022年9月28日〜10月2日
会場:中目黒キンケロシアター
作・演出:大部恭平
ピアノ:田中和音
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