ほうじゅ
2018-11-05 18:32:44
5881文字
Public
 

【読み切り短編】天使

××××年前に〇学生だった逢愁さんが、はじめて“最後まで書いた”おはなし。

 彼女に出会ったのは、青い空の下でのことだった。
 風に吹かれて揺れる長い綺麗な黒髪と白いワンピースの色が背後に広がる青と交じり合うその姿はひどく綺麗で、思わず天使みたいだなと思った。
 穏やかな双眸は薄い色素の茶色をしていて、白い肌が陽光に照らされて透き通って見えた。どこか近寄りがたく、だけど、ひどく懐かしい……そんな不思議な感覚が胸を占める。
 彼女は静かにこちらに向かって歩いてきた。そして、何かに気づいたように立ち止まりこちらを振り返る。幼さの残る相貌に僅かに嬉しそうな気配を滲ませた彼女は、こう尋ねてきた。
「ここへ行く道をご存知ですか?」
 彼女は、手にしたメモに写し書きされた地図をその細い指で示し、小首を傾げる動作をした。何が起こったのか理解できずに呆然としていると、彼女は顔を上げて不思議そうな表情を浮かべる。それを見てやっと、彼女が自分に道を尋ねてきたのだということを理解した。
「本屋が、この道をまっすぐ行ったところにあるので……その突き当りを右に行けば」
「そうですか、ありがとうございます」
 彼女は丁寧な口調でお礼を言ったあとに、穏やかな笑顔を浮かべてペコリとお辞儀をした。
 くるりときびすを返す際に彼女のワンピースがふわりと翻る。
 そのまま、凛とした背格好で彼女は歩き出した。真っ白な後姿をぼんやりと見送っていると、すぐに彼女は見えなくなる。
 突っ立ったままでいる訳にも行かず、再び開いたままだった文庫本に目を落とす。しかし、目で追う文字の羅列は規則的で、視界を上から下へ通り過ぎて行くだけだった。全く文字の内容を受諾することのない脳裏には、先ほど出会った白い彼女の姿態が思い浮かぶ。
 仕方なく顔をあげて彼女の去って行った方向をぼんやりと眺めたあとに、ふと彼女の行き先を思い出した。
……どうして、墓場なんかに」
 先ほど彼女が尋ねたものは、墓場への行き方だった。
 青い空。春から夏に移り行く季節をやわらかい風が運んでくる。小さな意思をその羽に託して羽ばたいていた白い蝶がいつの間にか姿を消し、咲き乱れた残骸である淡い桃色の花びらだけが、今までの季節の余韻を残す。
 そんな時の最中。先ほど出会った天使のような彼女は墓場への道を辿っている。
 何故だかおかしな気分になり、短く息を吐き立ち上がった。自然と動き出した足の向かう方向は、彼女の去って行った方角だ。どうにも、彼女の印象はそれほどまでに強かったらしい。

 しばらくも歩かないうちに、見知った小さな本屋が見えた。こぢんまりとしたその店の前には、小さな鉢植えがいくつも並べられていて、今は使われることの無くなった年季の入った木製の椅子と小さめの机が脇に片付けてある。
 店の前には一匹の黒猫が墓場の方角を眺めながら座っていたが、こちらの存在に気づくとくるりときびすを返して店の中へと入って行った。
 猫の姿を追うように、開け放たれた入り口からちらりと中を覗き込むと、いつもと同じく眠たげに店番を務めている老翁が居た。
 すぐに外に出られるように、と考えられて設置されたレジの前に置かれた丸イスの上に座り、老眼鏡越しに文字を追っていた瞳が、すっと上に上がりこちらの姿を捉える。
 軽く会釈すると、そちらも小さく笑みを零して手をあげる。そして、ふと何かを思い出したかのような表情を浮かべたあとで小さく手招きした。
 不思議に思いつつ誘われるままに店内に足を踏み込んだ時、ふわりと古びた本の匂いがした。
 老翁は丸イスに腰掛けたまま、先ほどまで読んでいた小説をパタンと閉じると姿勢を直してこちらを向いた。
「どうしたんですか?」
 目の前に立って尋ねると、老翁は
「少し頼まれごとをして欲しいのだがね」
 と、言った。
 了承すると、老翁は少し待っていてくれるかな、とだけ言い残し奥に続く廊下へと消えていった。
 なんとなく店内を見回してみると、小さな店内に並べられた棚に眠る本たちが静かな時を過ごしていた。レジの奥に置かれてあるイスの上を覗き込むと、安らかな寝顔で黒猫が眠っている。入ってきた入り口を振り返ると、開け放たれた扉の向こう側には溢れんばかりの陽光が降り注いでいた。
 カタン、と小さな音がした。そちらを向くと、小さな控えめの花束を持った老翁が廊下の向こうに立っていた。ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる老翁の持った花束は、店の前に並べられている鉢植えに咲いてある花……スズランを二本真ん中に置いて、周りを可愛らしいカスミ草が囲んでいる簡素なものだった。
 こちらまで来た老翁は、少しだけイスの上に丸まった猫を見やったあとにこれを、と言って花束を差し出してきた。
「今日は妻の命日でね……墓参りに行ってやりたいんだが、今日はあいにく人が来る予定があるんだよ」
 苦笑を漏らして老翁は、だから代わりに花を供えて来てやってくれないだろうか、と言った。
 断る理由はもちろん無かった。ここに住んでいた老婆には、生前お世話になっていたので少しでもその恩が返せるなら、と二つ返事で承諾する。
 受け取った小さな花束には少しだけ温もりが残っている。老翁は嬉しそうに微笑みながら、ちょうど今日の三年前に亡くなった愛しい人の墓の居場所を教えてくれた。
 聞いた場所を記憶に刻み込み、頷いて見せて店を出た。
 煌く陽光の下に出た時、まるで条件反射のように彼女のことを思い出す。あの時、彼女は墓場への道を聞いてきた。ならば、彼女はそこにいるのだろうか。もしそうなら、また会えるかもしれない……そこまで考えたあとで、どうしてそんなことを考えたのかと不思議に思ったが、手にした約束を忘れないように小さな花束を持ち直して、気持ちを入れ替え墓場への道を歩き出した。
 歩く道はひどく静かに穏やかで、そんな道を一人で歩いている事実に違和感を覚えた。しかも、それはある人の代理だというのだから、余計に変な気分がする。しかし、その変な気分は、別に嫌ということは無かった。ただほんの少しだけ、申し訳ない感情を抱く。
 辿り着いた先は、綺麗な緑に囲まれてひっそり佇む墓地だった。厳かなその敷居を跨ぐとすぐにあの白い彼女の後ろ姿が見えた。
 周りには綺麗に整列された墓石が立つ。しかし、その墓石は陽光の下であるためか、薄暗い雰囲気は無く、逆にキラキラと輝いていた。
 そんな中、彼女は何をするでも無くじっと、ただひとつの墓石を見つめて立っていた。一体それが誰の墓であるのか軽い興味に惹かれたが、自分の本来の目的を思い出し慌てて目的の墓を探した。
 そして、彼女が見つめているその墓が探しモノであることに気がついた。
「あの、」
 後ろから声をかけると、彼女は振り返り一瞬だけ驚いた表情を浮かべたあとに、柔らかな笑顔を浮かべた。
「はい、なんでしょう?」
……お墓参りですか?」
 彼女は道を尋ねてきた時と同じように、丁寧な口調で尋ね返してきた。思わず言葉に詰まり思ったままのことを口にする。言ったあとでなんとマヌケな質問をしたのか、と後悔した。墓場への道を尋ね、墓場に来たのだったら、それは当然誰かの墓参りと考えるのが普通だろう、と自分の問いに対して気が滅入る。
 しかし、簡単に答えが返ってくるか、さもなくば呆れなどの眼差しで見られるに違いない、というこちらの予測とは違った反応を、目の前に立つ彼女は返してきた。
 尋ねられた質問に、小首を傾げて不思議そうな顔をする。その後すぐに何か閃いた様子を示したあと、急に困った表情のまま黙りこくってしまった。
 何か言うべきだろうかと再び口を開きかけた時、彼女は黙ったまますっと墓の前から横に退くと道を開けた。困惑しつつも軽く会釈して墓の前に立つ。
 手にしていた小さな花束を墓の前に横たえて置くと、目の前にある墓が既に誰かの手によって掃除が終えられ綺麗にされていることがわかった。
 軽く手を合わせて目を閉じる。この墓参りは代理と言えども、一番重要な人の代理だ。自分にできる精一杯の黙祷を、と思い脳裏に色々思い起こさせた。
 老翁の代理が終わったあとは、軽く自分自身から老婆に対する黙祷を送る。静かに冥福を祈りながら、老婆が今では幸せに……俗に言う天上世界で暮らしているであろうことをなんとなく確信していた。
 生前も、本当に天使のような人だったのだ。だからこそ、きっと無事天まで辿りつき、もしかすると本当に天使になって、そこから下界を見守っていてくれるのかもしれない。
 もしもそうなら、ありがとう。
 そして、これからもどうぞよろしく。
 心の中で呟いたあとに、ゆっくりと目を開く。そこでようやく未だに彼女が隣に立ったままだったことを知った。
「あの、もしかして……掃除してくれました?」
 目の前にある墓を示して、彼女に尋ねると彼女はゆるく首を振った。じゃあ、一体誰が掃除をしたのかと考えた時、ちょうどその問いに答えるかのように彼女が言った。
「いつもここに来る……おじいさんが掃除をしてくれているんです。小まめに掃除をしては、その度に花の水を換えて、わた……えっと、この方が好きだった和菓子なんかを供えたりして」
 楽しげに彼女は話しながら、だからいつもこのお墓は綺麗なんですよ、と嬉しそうな笑顔を浮かべた。そんな彼女の言動に何か引っかかりを覚えつつも、そうなんですかと相槌を打ち再び墓に目をやった。
 多分、彼女の指すおじいさんとは老翁のことだろう。いつもこまめに来ているのに肝心の命日に行けない気持ちはどういったものだろうか、と少し思案する。
 そして、その肝心の日に代理を任されたことを言いようがなく誇りに思えた。
「知ってます?この花……このスズランもこの方が好きだった花なんですよ」
 少女のように彼女は無邪気にクスクス笑った。それから愛しげに目を細めて、
「本当に愛して……愛されて、いたんですね」
 と、言った。
「知り合い……だったんですか?」
 その質問に彼女はふいにピタリと笑いを止めて困った表情を浮かべたあとに、こちらの表情を伺った。
 しかし、今度はすぐにあの穏やかな笑顔を浮かべて逆に問うてきた。
「あなたは、お知り合いなんですか?」
「あ、……はい。今日の墓参りは代理なんですが知り合いでしたよ。いつも良くしてもらっていたので……今でも感謝しています」
 心からの気持ちだった。あの天使のような人には感謝してもしきれないほどの恩を貰った。だからこそ今も感謝し続けて僅かな恩返しに身を投じている。
 答えを聞いた彼女はひどく嬉しそうな笑顔を浮かべると、そうですかと言い言葉を続けた。
「それを聞くときっとこの方も喜ばれますね」
 そして、彼女はその笑顔を携えたままこちらに向き直りペコリとお辞儀をした。
「それでは、私は失礼します」
「あ、……はい」
 突然の言葉に戸惑いつつも頷くと、彼女はクスリと笑いを漏らしてから穏やかな笑顔を浮かべて最後に一言だけ言い残した。
「ありがとうございました」
 彼女はきびすを返して歩いて行く。その後ろ姿はやはり凛としていて、知らないうちに見惚れていた。彼女は墓場の入り口に辿り着くと再びこちらを振り返ったあとに、小さくお辞儀をして最後の笑顔を浮かべる。それからすぐに、彼女は背中をこちらに向けると消えてしまった。

 その後、本屋に行き花を供えてきたことを伝えると、老翁は穏やかに目元を細めて笑った。
「ありがとう。君に花を供えてもらえたのならきっと満足していると思うよ」
 老翁の言葉に笑みを浮かべて答えたあとに、ふと思いついて彼女のことについて尋ねてみた。
「この店の前を通ったと思うんです。白いワンピースを着た黒い髪のなんだか……天使みたいな女性だったんですけど。見ませんでしたか?」
 彼女の容姿を思い浮かべつつあやふやな説明をする。もしかすると、彼女のことを老翁に尋ねたのは今思えば一種の直感だったのかもしれない。説明を聞き終えた老翁は短くそうかねと呟いたあと静かに頷いて、穏やかな笑顔を浮かべると言葉を綴った。
「天使、か。……あいつもきっと喜ぶよ」
「あいつ?」
 再び質問を重ねると、老翁は笑顔を浮かべたまま答えた。
「私の妻だよ」

 本当に、天使みたいな女性だった。
 風に吹かれて揺れる長い綺麗な黒髪と白いワンピースの色が背後に広がる青と交じり合うその姿はひどく綺麗で、薄い色素をした茶色の瞳を細めて作られた穏やかで暖かな笑顔が懐かしかったのは……きっと三年ぶりに見た笑顔だったからなのだろう。
 その人は、日課で本屋に行く時間になって店を訪れた時、いつも店先に並べられた小さな鉢植えに水をやっていた。こちらがやってきたことに気がつくと穏やかな笑顔を浮かべながら自分の好みの和菓子を店の奥から持ち出してくる。
 店先には彼女のお気に入りである年季の入った木製のイスと小さめの机が置いてあり、いつもそこで簡易な茶会を開いた。その度にどこからかやって来る黒猫を膝の上に乗せたまま、鉢植えに咲いたスズランの花言葉を語ってくれた。
 彼女の膝に座る黒猫は決して彼女以外に懐こうとしなかった。彼女がどこかに出かける時は必ずどこからか現れて店の前を陣取り、彼女の姿が見えなくなるまで姿勢を正して見送っていた。
 だからこそ、老翁はあの白い彼女が最愛の人であったことに気づいたのかもしれない。
 もしも、何かを相談すると心身になって悩んでくれて自分なりの答えを出してくれる。
 彼女の言葉のほとんどが先への道標になった。それは、ただ純粋に自分の中での光となっていたのだ。
 彼女はそうして光をくれる、暖かで、優しくて、とても大きな存在だった。
 真っ白な性格をしていて日向の中イスに座り優しげに笑顔を浮かべながら本を読む姿がひどく神秘的で、まるで本当の天使のようだったことを覚えている。
 だから、本当の天使になったのかもしれない。
 自然とそんな考えが浮かび苦笑が漏れた。多分、彼女は今でも天からこの自分たちのいる世界を見下ろしているのだろう。

 愛しい人と、黒猫と。
 今もなお店先に並べられた
 スズランの花を見守るために。

……これからも、よろしくお願いします」

 声に出して、スズランとカスミ草の花束が置かれた墓石に言うと、僅かに風が吹いた。