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ほうじゅ
2018-11-01 22:22:41
7178文字
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【黒猫のはなし】17 片思いのはなし
黒猫に見守られて、恋をした誰かのはなし。
まだ、春には遠い頃。
にぎやかな喧騒と人の群れに混じって、見慣れた背中は去って行った。
残された私は、まだ彩りを持たない寒々しい桜の木の下で、いつもと同じように、ただその背中を見送ることしか出来なかった。
でも、それで良い。
……
この思いは、ずっと秘めたままでしか、いられなかったのだから。
私が初めて彼を見たのは、今から三年前の、ある冬の日。
私がいつものように、校庭の片隅にあるベンチに座っている時だった。
ベンチの傍には桜の木があり、見上げると、葉を落とした寒々しい枝が、灰色の空に線を引いている。
春になれば、この場所は花見を楽しみたい生徒や教師が訪れるようになるものの、それ以外の季節には、あまり人は訪れない。
そのため、花が咲く季節以外にこのベンチを使うのは、私と、もう一匹くらいしかいなかった。
その一匹というのは、気まぐれに現れる黒猫のことだ。
その黒猫は、不思議な気品のある美猫だった。陽の光を浴びた毛皮は、魅惑的な黒薔薇のようで、首に巻かれた薔薇色のリボンには、顎の下の位置に、鈴のようなものが二つぶら下がっている。
私を射抜くような、澄んだコバルトブルーの瞳は、その日も、私より低い視点から、私と一緒に校舎の様子を眺めていた。
寒々しい空を見上げてぼんやりしていると、ふいに、カシャンという音がした。
私と、私の座るベンチの下で丸まっていた黒猫は、一緒に後ろを振り返る。
すると、まだ幼さの残る顔立ちの少年が、フェンスに足をかけて、学校に忍び込もうとしているところだった。
危ないよ、と私が声をかける前に、少年は身軽にフェンスを乗り越えると、高校の敷地へ飛び降りた。
授業中なので校庭には誰もいないというのに、少年は慎重に周りを見渡すと、そのまま、私の位置からは見えない校舎の影の方へと走って行ってしまった。
少年の姿が見えなくなると、黒猫が妙に間延びした声で、なーうと鳴いた。
「中学生の子かな、制服が違ったね」
私が話しかけると、黒猫がベンチの下から顔だけ出して、私の方を見上げてきた。
「何の用事でやってきたんだろうね?」
もう一度話しかけると、黒猫は何も言わずにさっさと首を引っ込めてしまう。
少しは答えてくれても良いのに。しょんぼりといじけながら、彼が去っていった校舎の方を見守って、そのまま、その日は終わった。
──彼が再び私の前に現れたのは、その年の春のことだった。
どうやら、彼は今年この学校に入学した生徒だったらしい。
桜の花びらが舞う中、期待と希望に満ちたざわめきの片隅で、彼が胸に桃色の造花をつけて立っているのを私は見つけた。
ついこの間まで中学校の制服を着ていた彼は、真新しい高校の制服に身を包み、近くの生徒と話をしている。けれど、せかせかと動き回る教師の指示を受けると、彼は整列する生徒の中に混ざり、そのまま、体育館の中へと入っていった。
生徒全員が建物の中に入り、外がしんと静まり返った頃、私は思い出したように頭上を見上げて、優しい色を付けて咲いた桜の花をぼんやりと眺めた。
小さく可憐な花は、青空の中、穏やかな風を受けてゆらゆらと楽しそうに揺れている。
なーう、という間延びした声に視線を落とすと、いつのまにか黒猫がやってきていた。彼はいつものように、するりとベンチの下に入り込むと、昼寝をするように体を丸める。
「ねえ、冬の時に見た男の子を、さっき見つけたよ。ここの新入生だったみたい」
私が話しかけても、黒猫は何も答えてくれない。私は苦笑しながらも、ひとりぼっちで言葉を続けた。
「どうしてあの日、学校に来たんだろうね。もしかして、入学式が待ちきれなかったのかな」
体育館を眺めて、私はうーんと首を傾げる。足元から、なーう、と答えるように猫の鳴き声が聞こえ、私はくすりと小さく笑った。
鮮やかな花びらが舞い散って、新緑が輝き出した頃、私はまた彼を見つけた。
花の時期はこのベンチにも、ちらほらと新入生が訪れていたものの、花が散ってしまった今は、めっきり人が寄らなくなった。
私がのんびりと緑の木陰を楽しんでいると、学校の花壇を熱心に見て回る少年の姿が目に入った。なんとはなしに眺めていて、少年が、例の男の子だと私は気が付いた。
彼は、色とりどりのパンジーが咲く花壇の前でしゃがみ込むと、手にしたノートに何かを書き込んでいる。それから、隣のマリーゴールドの花壇へ移動すると、同じようにそこでもノートに何かを書いていた。
ベンチから見える範囲の花壇すべてで同じことをし終えると、彼はふらりと校舎の中に入って、姿が見えなくなってしまった。
その次の日も、彼を見つけた。今度は、学校の敷地の外回りに沿って、植えられた樹木を眺めては、昨日と同じようにノートに何かを書き込んでいるみたいだった。
……
もしかすると、彼は植物が好きなのかもしれない。
校庭で掛け声をあげる運動部の姿を横目に、彼はゆっくりと時間をかけて、イチョうの木を、モミジの木を、一本一本眺めている。
しばらくすると、私の座るベンチの横の桜の木へと、彼がやって来た。
花が咲く季節以外に、ここに人が来ることが珍しいためか、いつものようにベンチの下にいた黒猫が、ひょいと顔を出して彼を見た。
黒猫と一緒になって、彼の姿をこっそり眺める。冬に見た時とあまり変わらない、幼さの残る顔立ちの彼は、一ヶ月経っただけではまだ新しい制服に着られているようで、なんだか少し可愛らしい。
私がくすくす笑ってしまうと、それに気付いたのかはわからないが、彼がふいにこちらを向いた。
誤魔化すように、私が慌てて姿勢を正すのに対し、黒猫はベンチの下から出て私の足元に座ると、悪びれもせずにまじまじと彼を眺め始める。
「こんにちは」
ぶしつけな黒猫の視線に気を悪くする様子もなく、彼はにこりと挨拶をした。私が答えるように小さく頭を下げると、足元では、黒猫が尻尾をぱたんと一度だけ振った。
「わざわざベンチが置いてあるのに、あまり人は来ないみたいだね」
「
……
うん。でも、花が咲いている時には、少しだけ来るんだよ」
なーう、と黒猫も答えるように鳴いてみせる。それを見た彼は楽しそうに笑って、新緑が生い茂る枝を見上げた。
「そうなんだ。 でも、僕は当分ここに通うから、また会ったらよろしくね」
そう言って彼は去っていく。去り際に、一瞬だけ目があった
……
ような気がした。
さわやかな風が吹き抜けて、誘われるように空を見上げる。雲ひとつない、快晴だった。
当分というのはどれくらいなんだろう。梅雨の間や、夏休みも、この場所へ来るのかな。
吸い込まれそうな青空を見上げてそんなことを、ぼんやり考えた。
ふと見れば、足元の黒猫が私を伺うようにじっと眺めている。にこりと親しく微笑んでみたら、つんとそっぽを向かれてしまった。
それから彼は本当に、ベンチに通うようになった。正確には、ベンチの横の桜の木に、だったけれど。
彼が来るのは毎日ではなかったものの、多いときには週に四回、少ない時でも必ず一度はこの場所に来ていた。
雨の日には傘を差して、夏休みには見慣れない私服姿で、風が強い日は小脇に抱えたノートが飛ばないように気をつけながら、冬には厚いコートを着込んで。
そうして一年も経つ頃には、すっかり彼も桜の下のベンチの常連客になり、気まぐれに訪れる猫と同じ日に来た日は、楽しそうに笑っていた。
私もなんだか楽しくて、彼と一緒に笑っていた。黒猫だけは相変わらずの、愛想のなさを見せていたけれど。
そんな日々が当たり前になった頃、久しぶりに、“どうして彼がこの場所に通ってくるのか”という疑問がふっと沸いた。
すると、私が何かを聞く前に、彼は自然と話してくれた。
──僕は、樹木医になりたいんだ、と。
「小さい頃は花屋に憧れていたんだけど、勉強するうちに、夢が変わっていったんだ。 君はいつもここにいるから、知らないかもしれないけど、学校の奥の方には温室もあるんだよ」
「ううん、温室のことは知ってるよ。でも、そっかぁ。やっぱり、植物が好きだったんだね。ここで桜を見上げる時、いつも楽しそうな顔をしていたから」
珍しくベンチの上に丸まっている黒猫は、話に耳を傾けるように、じっと目を閉じている。まどろんでいるように、しっぽはゆらゆらと揺れていた。
「本格的な資格を取るためには、学校を卒業したあとに、七年以上そういう関係の研究や仕事に関わらないといけないみたいで、まだまだ先は長いんだ。それでも、やっぱり叶えたいから、
……
頑張ってみようと思う」
たったの一年で、少し大人びた顔つきになった彼の瞳の先は、この桜の木のもっと先にある何かを見つめているのだろう。
彼がここに来る時に、必ず持っているノートの中には、植物についての知識がぎっしり書かれていることや、先生ととても難しいことを話し合って、彼が頭を悩ませていることを、私はよく知っている。
雨が降っても、風が吹いても、どんなに日差しが強い暑い日でも、凍えるような寒い日でも、彼がここに通い続けていることを、私はよく知っていた。
「
……
がんばってね」
私は、そっと囁くように呟いた。残念なことに、気の効いた素敵な言葉は出てこなかった。
そんな私の隣では、黒猫が、なーうと間延びした声をあげている。
「うん。
……
ありがとう」
けれど、彼はそう言って、──とても嬉しそうに笑った。
大人びた瞳を細めて、幼さの残る口元は柔和に緩めて、本当に嬉しそうに。
その時、私は、まるで、当然のように。
……
彼のその笑顔に、魅了されてしまった。
違う、とわかっているのに、その笑顔がまるで私に向けられたもののように感じてしまって、どうしようもなく嬉しくて、
……
どうしようもなく、切なかった。
──私はきっと、あの瞬間、彼のことを好きになってしまったのだ、と。
……
見慣れた背中が、この学校から去っていくのを見送る日になってから、初めて、気が付いた。
「
……
結局、見守ることしかできなかったけど」
彼がこの学校で過ごす最後の一年間も、私はただベンチに座り、黒猫はベンチの下でまどろみ、彼はひたすら植物のことをノートにメモをした。
他の二年と変わらない、何の代わり映えもしない、とてもありふれた日々を送った。
「でも、そうすることしかできなかったんだから」
花が咲く季節は眩しそうに桜を見上げる彼を眺め、葉が生い茂る頃には木陰で涼む彼を見守った。
木々が緋色に染まり始めると、空腹に苦笑する彼に微笑み、新雪が校庭を覆った日には、彼が風邪をひかないかと心配した。
長期休暇に入るとまた来てくれるだろうかと不安に思い、テスト期間に入ると、植物以外の勉強も、ちゃんとしているんだろうかと訝しんだ。
体育祭や文化祭は、一緒に参加できないことを、寂しく思っていたけれど。
……
こうやって、卒業して、去って行く姿を見送る今よりは、少しだけ、マシだったのかもしれない。
──ただ、見守るだけの恋だった。
二人の間に深い交流はなく、彼は私の思いを知らないまま、この学校を去っていく。
けれど、一途な夢を語る彼を好きになったのだから、彼を引き止める真似はせず、こうして、今日もこのベンチで、見送ることが一番正しいことなのだろう。
「本当に?」
まるで心を見透かされたようなタイミングで、突然声をかけられた。
驚いて振り返ると、そこには一人の青年がいた。
腰まで伸びた綺麗な黒髪を、首の後ろで赤いリボンでひとつにしばり、裾の長い黒いコートを着ている。
一見、今日の“卒業式”を見に来た父兄にも見えたものの、周囲から浮いた存在であることを、なぜか私は敏感に察した。
そんな彼は、間違えることがないほどはっきりと、私のことを見つめていた。
私を射抜くような瞳に、蹴落とされそうになりながらも、堪えるように言い返した。
「だって、見守ること以外には、私は何も出来なかったんだから、」
「それでも、思いを伝えることはできる」
青年の言葉に、ぎゅっと胸が痛くなった。
思いを伝えることは出来ない。
見守ることしか私には出来ない。
……
だって、彼には私が見えていない。
目が合ったのは偶然で、微笑みかけてくれたのも偶然だった。
正しく言葉も交わせない。
会話をしているフリをして、私は一人で笑っていたんだ。
だって、私は、本当は、
……
ずっと前に、この世から、いなくなってしまった人間だから。
今の私は理由もなく、ただぼんやり彷徨うだけの、──ひとりぼっちの幽霊なんだから。
「──大丈夫だよ」
ふいに青年が、優しい微笑みを浮かべた。
まるで私を見守るような、澄んだコバルトブルーの瞳と、もう一度目が合った。
……
途端に、私は何も考えず走り出していた。
見守るだけの恋だった。
終わることを待つだけの恋だった。
私はいつもベンチに座って、学生たちを眺めていた。
何年前からそうしていたのか、どうしてあの場所から動けないのか。
ずいぶんと長い時間、考え続けていたけれど、結局のところわからなかった。
だから私は考える代わりに、あのベンチに座り続けて、この学校で過ごす生徒たちのことを見守り続けることにした。
花が咲く季節以外、人が近寄らない場所にあるベンチに、私のような存在がいることに気づく生徒はとても少なくて、ごくごく稀に気づいたとしても、怯えて離れて行ってしまうか、警戒して近寄って来なくなってしまった。
だけど、彼だけは、この場所に通い続けてくれた。
例えそれが、私のような幽霊が、ここにいることに気づいていなかっただけだとしても。
ただ、桜の木の様子を見に来ていただけなのだとしても。
……
泣き出してしまいたくなるほどに、嬉しかった。
同じ敷地にあるのに、もう手も届かない学び舎。
ベンチから動けない私は、ベンチから見える風景でしか彼のことを知らなかった。
彼が中学生の時にここに忍び込んだこと。その後彼が無事にここに入学してきたこと。
樹木医になりたいという夢を持っていて、その勉強にのために励んでいること。
そして、彼がその夢を叶えるために遠い大学へ行ってしまって、多分もう、ここには戻ってこないこと。
それだけしか知らないのに、伝えることもできないのに。
本当にどうしようもなく、──私は彼のことが好きになってしまった。
愚かな自分を責めるように、最後の懺悔をするように、見慣れた背中を探し求めて、私は校門まで走ると、あがってしまった息を整える暇もなく、彼のことを探す。
そして、私は彼を見つけた。
「待って
……
っ、待って!」
その声が届いたのか、今まさにこの学校から去ろうとしていた彼は振り返り、私のことを見ると、驚いたように目を丸くした。
ああ、
……
見えている。
ずっと彼の目に映っていなかった私は、たった今、ようやく、彼の目に映ることができた。
何を言うべきか、何を伝えるべきか、一瞬だけ悩んだあとに、私はどうしてそんなことを今更尋ねたのか、わからないような質問をした。
「どうして、三年前の冬の日、学校に来たの
……
?」
私が初めて彼を見た冬の日。
三年間見守り続けてわかったことだが、彼は普段あんな風に、学校に忍び込むような真似はしない性格だった。
どうしてあの日、あんな風にしてフェンスを乗り越え学校に来たのか。
彼にしてみれば、見慣れない人間からの、まったく検討のつかない質問だったはずだ。
それなのに、彼は真摯な表情で黙り込んだあと、『冬の日』というのが、忍び込んだ日のことだと思い到ったようで、表情と同じ、真摯な声音で答えてくれた。
「
……
この学校の温室に、少しでも早く来たかったから」
どうして、と尋ねる前に、彼が言葉を続けた。
「ずっと、憧れていた女性がいて。
……
その人はいつも、温室にいるみたいだったから。 結局、この三年間、一度も、会えなかったんだけど、
……
今、こうやって、卒業の日に、会うことが、できた」
最後の言葉は、慎重に選び取るように、ゆっくりと吐き出された。
……
彼の言葉の意味を、すべて理解すると、私はきっと、後悔してしまう。
自分が生前何をしていたのか。一体いつ命を落としたのか。
どうして今更になって、あのベンチから離れられることができたのか。
たくさんの疑問が同時に頭を巡る。
けれど、私はそれをすべて無視して、ただ一言だけ、彼に伝えた。
三年間で得た一方的な思い出や、色々な喜びや悲しみの思いの中に、
──三年間秘め続けた、恋心を少しだけ忍ばせて。
「今まで、ありがとう」
きっと、これが最善の言葉だった。
はらりと零れ落ちたものが、冬の名残の雪だったのか、春の先駆けの花びらだったのか、
……
目から流れた涙だったのか。
もう、わからなかったけれど、心はあたたかな光に満たされていた。
そして私は、この世界から消えた。
多くの人が溢れる場所で、一人の少女がそっと消えるのを、少し離れたベンチの上で、黒猫が見守っていた。
少年が少女を探している。
だがその姿から視線を外すと、彼は軽々とフェンスを飛び越え、そのままどこかへ姿を消した。
誰もいなくなった片隅のベンチでは、誰かの思いを辿るように、澄んだ鈴の音が一度だけ響いた。
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