ほうじゅ
2018-09-01 03:57:57
3927文字
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【黒猫のはなし】13 夏の日のはなし

黒猫と一緒に昼寝して、なつかしい夢を見たはなし。


 ミーンミーンと、今まさに生き急ぐセミの声。
 時たま吹く風は周囲の熱に飲み込まれ、私の元へ辿り着く頃には、すっかり勢いをなくしている。
 いい加減、何かしなければいけない。少しは宿題を進めないといけない。これでは人としてダメになってしまう。
 そんなことを思いながら、私は暑さに動く気力を吸い取られて、ダラダラと部屋に横たわっていた。
 扇風機はとっくの昔に役立たずで、クーラーなんて気の効いたものが個人の部屋についているほど、私の家は贅沢ではない。
 ああ、でもいい加減何かしよう。ぼんやりした頭でやる気なく考えていると、どこからかストンと軽やかな音がした。
 反射的にそちらへ顔を向けると、凛とした姿の黒猫が、妙に涼しげな顔で歩いていくのが見えた。
「え?」
 思わず体を起こして、私は猫を凝視する。当の彼は、チラリと横目でこちらを伺っただけで、驚くでもなく悠々とした態度を保ち、そのまま廊下へと姿を消して行く。
 一体どこから猫が侵入したのかと周囲を見渡す。が、確認するまでもない。開け放しにされた窓から入ったということは、一目瞭然だ。二階だからと油断していた、まさか猫が入り込むとは。
 それにしても、開いていたからといっても、住人がいる前を堂々と通り過ぎて行くとは、なんとも大胆な猫だ。
 動揺より先に好奇心が沸き、猫が向かった廊下を覗くと、彼はまだ廊下を歩いていた。
 その後ろを、音を立てないようにして続き、すぐにここが自分の家であることを思い出して、小さく息を吐いたあと、今度は堂々と、先を行く彼の後ろを歩き出した。
 彼は我が物顔で、まるでここで暮らしているかのような迷いのない足取りで、トントンと狭い階段を降りて行く。
 長いしっぽをゆらゆらと揺らし、彼は我が家の廊下を歩き、居間を横切り、台所に辿り着いてから再び廊下に舞い戻り、しばらくぐるぐると家の中を歩いたあと、とある一室に到着した。
 ここに来てようやく猫は歩みを止めて、縁側に続くガラス戸の前まで行くと、何食わぬ顔で座り込む。
「それでも結局、私の家からは出ないわけね」
 呆れたように言ってみせても、猫は何も答えない。手持ち無沙汰になった私は、ひとまずその隣に腰を下ろした。
 彼は、とても美しい漆黒の毛並みを持つ黒猫だった。首に鮮やかな赤いリボンを巻いて、正面に位置するところに、小さな金色の鈴が二つぶら下がっている。そんな彼の瞳は、夜の端を思い出させる深いコバルトブルーをしていて、夏なのに暑さを感じさせない凛とした空気を纏っていた。
 そんな彼はふいにこちらを向くと、姿に似合わぬ妙に間延びした声でなーうと鳴くと、体勢を崩し、その場で丸まり大きなお団子になってしまった。
 本格的にくつろぎだした黒猫を私はしばらく眺めたあと、ゆっくりと息を吐いて、黒猫と同じようにだらりと横になる。
 背中に感じる畳の感触と木目の天井を目にして、ここが和室なのだと思い出す。私の家にある唯一の和室、それは、かつて祖父が暮らしていた部屋だった。
 小さい頃、祖父によく遊んでもらっていた私にとって、この部屋は決して少なくはない思い出が眠っている。けれど、祖父が死去して以来、なんだか薄暗がりを覗く心地がして、この部屋を訪れることもなくなっていた。
 しかし、長年の時を経て訪れた和室は、記憶にあるままの状態を保っていた。
 壁にかけられた時計がチックタックと時を刻み、懐かしい記憶を呼び起こす畳の匂いに、部屋は優しく包まれている。縁側に続くガラス戸にかけられたカーテンは、ガラス越しの光を完全に遮断せず、色褪せた布地越しに、床に水面に似た模様を落としていて、廊下から流れ込む風を受け、ゆらゆらと揺れていた。
 私は吸い込まれるように、その偽物の水面を眺めていた。
 ゆらゆらと揺れるカーテンが小さな波を作り出し、昼下がりの和室は穏やかな水底へと、緩やかに姿を変える。
 地上を覆ううだるような暑さも、この場所には存在せず、風鈴が作る小さな音色は、水音となって耳に流れ込む。
 自分が風景の一部になったような奇妙な安堵感を覚えて、私はゆるゆると、浅い眠りに落ちていく。

 ──祖父の夢を見ていた。
 幼い私は祖父と手を繋ぎ、川縁(かわべり)を歩いていた。
 しわくちゃな手を握り締め、私は浅い川の水面を、チャプチャプと音を立てて歩く。素足に触れる川の水は冷たく、川底の石はつるつるしていた。
 私は時折何かを見つけては、それを嬉々として祖父に教える。祖父はとても楽しそうに、そんな私のことを眺めている。
 そんな風に歩いていると、セミの死体を私が見つけた。川から顔を出した岩の上にあったので、初めは生きているのかと思ったのだが、しばらく眺めていても動かないので私はそれを拾い上げ、そのセミが既に事切れていることに気がついた。
 それから私は何を思ったのか、祖父に対してこんなことを尋ねていた。
「セミがすぐに死んじゃうって本当?」
 どうして動かないのか、どうして茶色なのか、などという質問をして、祖父を困らせたことが何度もあった。そしてこれも同じように、祖父を困らせる質問であったことに間違いはない。
 祖父は覚えのある表情を浮かべ、しばらく黙り込んだ末に、「そうだよ」とだけ答えた。
 私は「ふうん」と納得したでも感心したでもなく、素っ気なく頷く。ただ自分の手の中にあるものに、「おつかれさま」と呟いていた。
 そのときの、優しく細められた眼差しに、あの頃の私は気づけていたのだろうか。
 大切なものを見守るような、祖父の浮かべた微笑みを、あの頃の私は見ていたのだろうか。
 これが尊い思い出になるのだと、あの頃の私は知っていたのだろうか。
 そう、この夢は思い出だった。私は先の質問を、過去に祖父へと聞いた覚えが確かにあった。

 ふっと目が覚めると、空はすっかり夕焼けの色に染まっていた。
 私はだらしなく寝転んだまま、縁側に広がる赤い空を眺めて、先ほどの祖父の思い出についてぼんやりと考える。
 そうだよ、と答えた祖父の気持ちは、ただの肯定だけではきっとなかったのだろう。
 けれど、肯定以外の気持ちが、あの頃の私にはわからなかった。そして今もわかることはなく、知る術もとうになくなっている。
 ミーンミーンと、今まさに生き急ぐセミの声が聞こえた。けれどそれは夢の残滓(ざんし)で、外から聞こえ届く鳴き声は、いつの間にか、カナカナカナ……と物悲しいヒグラシのものに変わっていた。
 あの後、祖父はセミの亡骸を私から受け取ると、大事に家まで持ち帰り、庭の隅に埋めてやっていた。その庭が、この縁側の前にある庭だ。
 だけど、あの時の小さな土のふくらみはもうどこにも無いだろう。既に昔のことだから。
 ……ふいに、澄んだ鈴の音がした。
 音の出所に顔だけを向けると、見覚えのある黒猫が、じっとこちらを見つめていた。
「ああ、まだいたんだ」
 私の言葉に答えるように、彼はしっぽを一度だけ振ると、ひょいと縁側から外へ降りた。
 あれ、ここのガラス戸、開いてたっけ。体を起こす私に向かって、彼はなーうと鳴いたあと、ひょいひょいと垣根を越えて、さっさと姿を消してしまう。結局、涼みに来ただけだったのだろうか。
 黒猫に遅れること数秒、寝起きでぼんやりした頭を軽く振って、私はガラス戸を閉めると、部屋に戻ろうとする。
 しかし、何かに引かれるように立ち止まり、静かな和室を見回した。
 しんと静まり返った部屋には、物悲しげな鳴き声が微かに響く。けれど、脳裏に浮かぶ川縁の情景が、同時に力強い鳴き声を響かせる。
 一週間という短い命を全うするために、彼らは今尚生き急ぐように、自分の存在を示すように、ミーンミーンと鳴き続けている。
「あ」
 そして、私は唐突に思い出した。祖父の『答え』には、続きがあったことに。
 ──祖父は「そうだよ」と短く答えたあとに、
「だから今を精一杯生きているんだ。そして、そいつはもう生き終えたんだろうね。精一杯生き切るために、頑張ったんだろう」
 と続けたのだ。
 そして、幼いあの日の私はそれを聞いて、「おつかれさま」と言った。
 精一杯生きる。その言葉の意味は、よくわからなかったけれど、手の中のセミが、なんだかとてもすごいことをし終えたように思えたから。
 祖父の言葉の裏側に、どんな伝えたいことがあったのか。それは『続き』を思い出してみても、結局のところはわからない。
 だけど、祖父が私に伝えた言葉と、それを受け取った私の気持ち。
 思い出してみるだけなら、それで十分な気がした。
「あぁ……。じゃあ私もセミを見習って、精一杯頑張ってみますか」
 私は一人頷くと、爽やかな夕風に吹かれながら、部屋に戻って机に向かう。
 祖父が小さな私に言った、『精一杯生きる』ということ。それはとても簡単なようで、とても難しいことなんだろう。
 そう、だから。……今はとりあえず。
 夏の暑さを言い訳に、溜まりに溜めた宿題の山を、今の私の『精一杯』で、片付けることに致しましょう。
 がむしゃらに頑張るということは、今の私には難しいから。
 まずは目の前にあることを、出来る限りの精一杯で。
 
 窓から吹き込む涼やかな風は、今なお懸命に鳴き続ける、セミたちの声を運んでいた。

 
(ムクロジさんに、こちらのおはなしの絵を描いて頂きました!すき………………