時新
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[コルカエ]塩、コーヒー、光

小説 ※不穏、心身の不調に関する描写 コルカエ/様子のおかしいコルサと傷つくカエデ 20240104

 カエデの家のチャイムは、少し割れたような独特の深い響きで鳴る。
 交際を始めてずいぶん経つが、それぞれ自分達の仕事が最優先で、逢瀬の間が開くのは珍しくない。今日も、最後に2人でゆっくり過ごしてからひと月以上は経っていた。
 特にここしばらくはこちらの方が、リーグの閑散期を良いことに、今までになく集中して制作に打ち込んでいた。正直に言えばずっとアトリエに篭っていたい気持ちもあったが、かねてからの約束を反故にするのは憚られたため、こうして時間通りにカエデの家を訪れている。

 パタパタと足音が聞こえた後にドアが開く。久々に顔を合わせたカエデは、しばしこちらをじっと眺めてから、すぐさま微笑みを浮かべて迎え入れてくれた。
 仕事中のカエデは長い髪をキツく結っているが、オフの今日はゆるく束ねているだけだ。柔らかく広がる癖毛の端々がくるりと跳ねる様が愛らしい。ゆったりとしたワンピースは首元が開いていて、細いネックレスが上品に光る様が映える。
 こちらはアトリエからまっすぐ来たので変わり映えのない仕事着のままだった。玄関辺りに控えているワナイダーに目配せをしながら、腰に携えたロープを外して外套掛けに預ける。以前これを着けたまま入って行こうとした時、武器か何かと見なされたのか、一瞬で糸に包められてしまった経験があった。

 通されたダイニングは程よく整頓されている。落ち着いた風合いの調度、思い思いの場所でくつろぐ虫ポケモン達。こちらのポケモンもいればここで挨拶させて一緒に遊ばせるところだが、今日は手持ちを連れてきていない。
 大抵のセルクルの民家は庭にプールがついていて、カエデの家もそうだった。天気が良いと、レースカーテン越しの窓にプールの水面が反射した揺らめく光が当たるのが、いかにも美しい。今は窓辺に鎮座するタマンチュラの糸玉が光を受けて、複雑で繊細な陰影が生まれている。

 しゅうしゅうと湯の沸く音。キッチンで紅茶の支度をするカエデが、背中を向けたまま声をかけてくる。

「リーグの担当さんから聞いたわ〜、コルサさん最近と〜っても忙しそうにしてるって。それになんだかちょっと痩せたみたい。お疲れじゃないかしら?」
「本業に集中していてな、むしろ絶好調だ!カエデの方は、一番忙しい時期は過ぎたか?」
「ええ、最近はちょっと余裕ができてそう、ちょうどお願いがあるの〜」

 お互いの席へ、ミルクティーらしいカップと、ケーキが一切れずつ置かれた。いつも店舗で見るようなクリームやフルーツが載った華やかなものではなく、飾り気のない焼き菓子だ。この四角い形はパウンドケーキといったか。

「新商品の試作でね、よかったら感想を教えてほしいの!コルサさんから見ても、ちゃんと美味しくできてるかしら〜」

 珍しい依頼だ。
 カエデの家を訪れると必ず何かしらの菓子が提供される。造形の凝ったものから素朴なものまで幅広い。そして食べた菓子について感想を述べるのもいつものことだ。
 しかし、初めから感想ありきの味見として頼まれたのは初めてだった。

「大役を任せていただき光栄だが、あまり批評的なコメントはできないぞ」
「大丈夫、コルサさんの感想が聞きたいの」

 得てして、見かけの単純さだけでは寓意するものの奥行きは測れない。その道のプロが試行錯誤して決めた配合の機微を、多少食べ慣れているとはいえ素人が満足に解釈できるとは思えなかった。
 どうやって当たり障りなくこの場を切り抜けるべきか考えを巡らせながら、緊張を悟られないよう、カエデが並べたフォークをゆっくり手に取る。
 ケーキは如何にもシンプルで、生地を型に流して焼いただけといった風情だった。縁の焦茶と断面の黄金色とのバランスが美しい。
 フォークをすっと差し込んで、ひとかけらを口に含んだ。やや粗い生地は舌に馴染み、噛むほどにぼろぼろと解ける。

「ふむ、口当たりが良いな。しっとりしているが、重くなくて食べやすい」
ほんと?良かった〜、今回は食感のバランスにもこだわってて、いろいろ調節したの〜」

 カエデは細めた目でじっとこちらを見つめている。ゆっくり二口、三口と食べ進めていると、カエデが不意に名前を呼ぶ。

「コルサさん」
「ん?」
「ケーキの味、分かっていないでしょ」

 努めて平静を装い、片眉を上げてみせた。拗ねたようなフリで、目線を逸らしてティーカップを口へ運ぶ。ミルクが多いせいか生ぬるい。

確かに、製菓のプロからすれば、ワタシの舌など素人も同然だろう。甘くて美味しい、それ以上は恥ずかしながらあまり分からん。ちゃんとした味見はハイダイ師匠か誰かにでも頼むと良い」
「甘くて美味しい?ほんとうにそう?」
「ああそうだ、これ以上は勘弁してくれ」

 嫌にしつこいカエデと目を合わせないまま、ケーキの残りを口に入れてしまう。申し訳なさもあるが、今のワタシには自分以外の創作活動に心を尽くせる程の余裕が無い。
 カエデはゆっくりと瞬きをして、自分でも一口ケーキを食べた。一息ついた後、スマホを取り出して何やら弄りながら、独り言のように言った。

「これね、ケーク・サレっていうの。しょっぱいケーキなんだ〜」

 なかなか飲み込めないままのケーキが口を塞いでいて、咄嗟に何も言えなかった。
 思い返せば、こんなに一度に固形物を食べたのは何日ぶりだったか。無理矢理にぐっと飲み込もうとしても、咽頭がその方法を忘れかけているようだった。
 カエデは落ち着きを保ったまま、いつもの甘く柔らかな調子で話し続ける。

「ジオヅムのお塩と、オリーヴァのオイルが主役なの。ムクロジはあま〜いお菓子が多いから、たまにはお食事の代わりにもできるような焼き菓子も並べたくって。基本の生地のレシピが決まったら、具を入れたものも作る予定なのよ〜」

 カエデはスマホをテーブルへ伏せて置いた。つぶらな黒い瞳がまっすぐに、こちらを見据えているのが分かる。目を合わせることができず、ぼんやりと視界の端でまなざしを感じる。
 行き場のない目線を泳がせた先、カエデの首元で、ネックレスの細い鎖が息遣いに合わせてわずかに波打ち、ぬらぬらと光るのをただ見ている。

「ごまかそうとしたんだ。味が分からないのに、何ともないふりをして嘘をついたのね。わたしが作ったお菓子だって知っていて。」
……
「おいしいお菓子を作ること、それを誰かに味わってもらうことを、わたしがどんなに大切にしてるか。コルサさんは、分かってくれてると思ってた……

 カエデが目を伏せ、声を詰まらせた。ネックレスが揺れる。
 なんとか飲み下した塊を吐き戻さないよう、ゆっくりと息をしながら、震える口を開く。

……すまない。だが、今は、仕方がないんだ」
仕方がないって、何が?」
「とても調子が良いんだ。今までになかった感覚だ。新たなステージへ至らんとする最中なのだ。だから、このままでいなくてはならない。削ぎ落とされ研ぎ澄まされた精神と身体とをもって、世界を異化する、そうして前へ、未達の先鋒へと進むのだ」

 変化に気づいたのは数週間前。多忙にかまけ常用の薬を切らしてしばらく経ったある日、飲んだ水の味が普段と違っていた。水に限らず口にするもの全て、パンもワインもスープもなにもかも変わっていった。甘味も塩味もなにも感じず、香りもなく、ただ口腔でものに触れる感触と温度、あとは何を口にしても同じく僅かに苦いような刺激だけがあった。
 それをはっきり自覚した頃には光や色や音の見え方も今までと異なっていた。
 有機的混沌。万象の再定義。
 ポケモンの世話はリーグ職員に、家事の世話はハウスキーパーに頼んでいた。生命を保つため最低限の栄養と水分と睡眠。あとの全てを創作に注ぎ込んだ。
見破られてはならなかったのに。

「今のこの状態でなくては作れないものがあるのだ、頼む、どうか」
コルサさん、きっと、わたしのことを分かってくれない訳じゃないわよね。いろんなことが全部分からなくなってるだけ。味も匂いも分からないんだもの。たぶん、自分のことも、今は分かってないのよね」

突如、外で重い大きな音が響いた。空飛ぶタクシーが停まった音だ。

「コルサさんが芸術をどんなに大切にしてるか、ちょっとは分かってるつもりよ〜。でもごめんね。わたしは芸術よりも、コルサさんの方が大切だから」

 足音がドカドカと乱雑に響く、耳障りなドアベルが二度、三度と立て続けに鳴る。
 こちらが動けずにいる間に、カエデは驚きもせずにすっと席を立って玄関へと歩いていった。ドアの開く音、何やら聞き覚えのあるような男の声、応対するカエデの声。

 ふらつく足で席を立とうとした途端、目の前にビビヨンが羽ばたいてきて行く手を遮った。よろけてテーブルに手をつく、ティーカップが倒れて泥水のような中身がこぼれる。
 退いてくれ。時間がない。アトリエに戻らなくては。この手で形にしなくては。
 連れて行かれる前に。