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いを
2023-12-25 21:54:17
2653文字
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刀神
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dear my dear
菊司のこと。
・定之さん【higasa_onink】
お借りしています。
雪がほんのすこし、降っていた。
伸びてきた手の爪をぱちんと切る。床にしいたティッシュに細かい爪が落ちていった。
約束の時間までまだ少しある。
あいたいからと一方的に電話をしても、定之は「うん」と言ってくれた。
もうじき、どうやら彼のほうから来てくれるらしい。ちょうど外にいたから、と。
部屋はきれいにしたつもりだが、ほかの人間から見ればどう映るかは分からない。本棚からぼろぼろと落ちた本の山はすみに押しやってはいるが、見ないふりをしていた。これもいずれは片付けなければいけないだろう。
本棚に入っているのはほぼ専門書だが、たまに思い出したかのように小説がある。内藤濯訳の星の王子さまだ。以前貸した本は返ってきていた。
ずりずりと膝をついて本棚を見る。そしてその本をとろうと人差し指を差し込もうとしたとき、控えめにドアを叩く音が聞こえた。
「
……
」
菊司はその指を下げて立ち上がり、ドアノブを引く。
目の前に、ほんのりと雪が頭に積もっている定之が立っていた。
「ごめんね、寒かったでしょ。中に入って」
「チャイムまだ直してないの」
定之は人差し指をチャイムに押しつけたが部屋にはまったく響かない。もうずいぶん長い間、そのままにしていた。
「ああ、まあ、俺の家に訊ねてくるひとなんてそうそういないからね
……
」
いっかと思って。と笑ってみせると、彼は首をちいさく傾けた。
靴を脱いで部屋にあがった定之は部屋を眺めている。
「前よりちょっとだけ、片付いてる」
「うん。エナドリの缶を捨てて、本をね、ちょっとだけ精算したんだ。もう使わなさそうなやつ」
ふうん、とうなずいて、いつもの定位置
――
若干、とは言えないくらいのボロボロのソファに座った。
冷蔵庫からペットボトルの緑茶を二本出して、ローテーブルの上に置く。銀のケトルはあるけれど、あいにく茶葉がきれていた。
「寒くない?」
「うん。大丈夫」
「ほんとはあったかいの出そうと思ったんだけど、お茶が今なくてね」
本棚の前に立って、星の王子さまの本を取りだす。
ところどころにふせんが貼られているその本を、定之は不思議そうに見上げた。
べろべろと貼られているふせんが貼ってあるページをめくる。
「これね、俺が好きなとこにふせん貼ってあんの。ずっと前きみに渡して返ってきたあと、もう一回読んだんだ」
膝の上に本を置くと、定之は覗き込むように背中をすこし丸めた。
「だけれど、あなたのちっぽけな星だったら、すわっているいすを、ほんのちょっと動かすだけで、見たいと思うたびごとに、夕やけの空が見られるわけです。『ぼく、いつか、日の入りを四十四度も見たっけ』そして、すこしたって、あなたは、また、こうもいいましたね。『だって
……
かなしいときって、入り日がすきになるものだろ
……
』『一日に四十四度も入り日をながめるなんて、あんたは、ずいぶんかなしかったんだね?』しかし、王子さまは、なんともいいませんでした」
ふせんが貼られたページを音読する。
定之はだまって聞いていた。手のひらをそのページにあてて、菊司は一度、くちびるを閉じた。それから目の前のペットボトルの緑茶を取り上げてキャップを開けて飲みこんだ。
「かなしければ、人間ってなにかをするものなんだね」
独り言のように呟いたあと、定之の目を見下ろす。
そして、「ねえ」と続けた。
「俺だったら仕事に逃げちゃうな。入り日なんか見てたら余計センチメンタルになっちゃうよ」
「菊司サンが?」
「うん」
すこし下にある定之の頭にほおを寄せる。かすかに濡れているのは、雪がとけて水になったからだろう。
「想像できない?」
くすりと笑ってみせると、定之はかぶりを振った。
「そんなことは、ない」
本をローテーブルに置いて、ソファに座り直す。
「人間だったら悲しくなるときなんて、両手で数え切れないくらいあるもんね。俺だって一応人間なわけだし。
……
定之くんもね」
背を丸め膝に手首を乗せて、再びかすかに笑ってみせた。そして視線を下に落とす。
むきだしの足の甲が見えた。
「人間らしさなんて分かんないけど、それでも俺自身が人間だって思えるのは定之くんがいてくれるからだよ」
膝から手を離して、定之の手を握る。痛まない程度に。
やはり、まだ冷たい。すこしでも菊司の熱が移ればいいのだが。
「
……
なんてね」
困ったように笑って、手を握ったまま定之の顔を見下ろす。
「俺も、人間らしさ、っていうのは分からない
……
。でも、菊司サンも俺も、人間っていうのは、分かる」
ぽつり、ぽつりと呟いた言葉を聞いて、重ねた手にかすかに力が入ったのを自覚した。
「そう思ってくれているなら、きみを好きになれた甲斐があったものだよ」
手をはなして、定之のほおを撫でる。顔はまだ冷たかった。
目をすこしだけ細めて、ひたいにくちびるを寄せる。
「今までの人生がしあわせだったとか、しあわせじゃなかったとか考えたことないけど、俺はきみのそばにいられてしあわせだよ」
なにかを言いたげに開いた定之の下唇の輪郭を親指でなぞった。
「
……
」
華奢な肩がかすかに揺れる。
「きみに、今までたくさんのことを教えられたのだとしたら」
眼鏡のつるをおさえてから、ゆっくりと外した。
「それがいいことでも悪いことでも、俺は俺の人生に後悔はない」
雪のようにそのからだに降り積もるものはあたたかいものであったかもしれないし、冷たいものもあったかもしれない。
――
後悔しないと生きていけなかった男が、よく口に出せたものだと思う。
それでも、菊司はそう思った。そう考えたのだ。
「たぶん初めて、後悔なんかないって言えたかもしれない」
定之の腕が遠慮がちに上がる。
笑っているであろう菊司のほおに触れる。先ほど、菊司がそうしたように。それを写し取るように。
「うん」
彼はちいさく、そう呟いた。
「これから後悔すること、たくさんあると思うけど」
定之の手首をあたためるように触れて、手のひらにくちづける。
「後悔なんかに負けない。俺は天才だからね」
その感触がくすぐったいのか、定之はすこしだけ表情をゆるめながら肩を上げた。
「定之くん」
顎がかすかに上がる。
「キスしていい?」
雪が降る夜は音さえも吸収する。
その代わり夜のにおいが濃くなることを、菊司としては珍しい感覚として知った。
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