いを
2023-12-17 18:36:42
3352文字
Public 刀神
 

あの星は消えたよ

菊司のこと。
・定之さん【higasa_onink】
お借りしています。

 ほおが冷たい。容赦なく潮風が菊司の適当にまとめた髪の毛を嬲る。簪は、していない。黒いゴムでとめているだけだ。
 劫罰狐を見ると砂浜に坐り込んで、細い流木でミミズが這ったような字を書いていた。
 菊司はいつどこで買ったのか記憶にない黒いストールを肩に羽織り、シャツの上にコートを着ている。それでも吹きすさぶ海からの風は冷たく感じた。
 靴はいつもの赤いスニーカー。
 砂浜にゆっくりと沈み込む感覚が懐かしい。
 レンタカーは海の駐車場に停めてある。レンタカー屋の店員が、申し訳なさそうに「今はホンダのS660しかありません」と言っていた。エスロクロクマル。数年前に廃盤になった車ですと、店員から聞いた。
 赤い、いかにもスポーツカーという外見は、菊司には似合わない。それでもそれしかないのだから仕方ないだろう。
 助手席に乗っていた定之は海が見えると、じっと海と空の境界に顔を向けていた。劫罰狐は後部座席で丸くなっていた。

 定之はパーカーにマフラーをぐるぐる巻きにして、ぼんやりとやはり海と空の境界を見上げている。
 左目に眼帯をつけている彼の顔は、ほとんどが髪でかくれていた。
 冬の海はさみしくて寒いが、菊司にとって海というものはそういうものだった。
 菊司と定之が立っている砂浜には、こんがらがった網のようなものや藻、流木や欠けた貝殻が落ちている。
 腰を曲げて、貝殻を拾う。人差し指と親指につままれたその貝は赤ん坊の爪のように脆く、すぐに粉々になってしまった。
「定之くん」
 定之がこちらを向いた。いつも「定之どの」と呼んでいた菊司だったが、はじめて「定之くん」と呼んだことに気づいたのだろうか。
 冬の海はまるでモノクロ映画のように色がなかった。
 唯一、彼の髪の毛が色彩を放っているようにも見えた。
「ほら、これ。今度はまだあったかいよ」
 定之にペットボトルの緑茶を手渡す。駐車場近くの自動販売機で買ったばかりの緑茶だから、まだあたたかい。あの雨の日のお茶より、ずいぶんましだろう。
……
 素直に受け取った定之は、手のひらを温めるようにペットボトルを握った。
「付き合わせて、ごめんね」
 定之はかぶりをちいさく振り、再び水平線に目を向けたようだった。
 冷たい潮風が菊司の喉をついて、咳をうながした。わずかな苦しみを覚えて眼鏡を外し、目を擦る。塩っ辛い風が眼に沁みた。
……海に、」
 定之が掠れた声で呟く。
 菊司はうん、と頷いた。
「海に、来なきゃいけなかったんだ」
 ――けじめとして。
 首に提げた、ぼろぼろになったお守りを指でいじる。定之はそれを見つめた。
「このお守りね、幼なじみからもらったんだ。刀遣いになるからって。これが最初で最後のプレゼントだった」
 つま先で砂を掻き分けるしぐさをしながら、告解をするように呟く。
「俺は、彼女になにもあげられなかった。それはもう、なんにも。死んでから気づいたんだ」
 そういう男だったのだ、自分は。胸中で思い、深く息をついた。
「ねえ定之くん」
 黙って聞いていた彼は、つと視線を上げた。すこしぼんやりとしたまなこは、それでも菊司を見ていた。
「後悔の痛みはつらいね。それでも後悔しなきゃ生きていけないんだ。俺は」
 外したままの眼鏡をジーンズに差し入れて、顔を両手で覆う。
「どうして」
 彼は波の音にかき消されるようなトーンで訊ねた。波の音が耳の奥でこだまする。
「どうしてだろう。後悔はきっと、してはいけないことなんだろうね。するなと言うべきなんだよ。でも俺はいいお手本になるような大人じゃないから」
 口を覆う手のひらが、ことばを遮った。
 彼に聞こえているのかいないのか、分からない。分からないけれど、言わなければならない。前に進まなくてはいけないのだ。
「この海であの子は死んだ。俺の手の中で息絶えた」
 手を離し、ぼやける視界で水平線を見つめる。
「あの子は言ったんだ。立派な刀遣いになってね、って」
……
 定之の表情が見えない。淡々と聞いてくれている。
「俺はそのとき凪鞘班にいてね。彼女が死んでから峰柄衆に異動した。彼女が言ったs、立派な刀遣いになるために」
 昇段試験も受け続けた。そして戦場に出る刀遣いの生存率を少しでも上げようと、さまざまな防具や武具を設えた。それでも死ぬときは死ぬのだ。どうやっても、こぼれ落ちる命というものはある。
「定之くんの目に俺がどう映っているのか分からないけど、俺は俺なりにいい刀遣い・・・・・になろうと必死だった」
「菊司サンは、弐段だ。だから、強い」
「そう」
 菊司はそっと肩の力を抜いた。彼からそう見えているなら、いい。
 再び眼鏡をかけて定之を見下ろした。彼の髪の毛に、砂がついていた。菊司は右腕を持ち上げて、その砂をつまんで落とす。灰色の塊が足もとに転がり落ちた。
……後悔は決して悪いだけのものじゃないけど、痛みを伴う。それを足蹴にすることもできるかもしれないけど、俺はそこまで強くない。せめて、覚えておくくらいだよ」
 隣に立つ定之は、マフラーに顔を埋めるように首を動かした。
 すこしだけ見える耳が赤い。冷たいのだろう。
「抱えられるだけ抱えて、それだけ。俺はね、決めたよ。これを言うためにきみに付き合ってもらった」
 定之の片目がこちらを再び見上げる。
 パーカーのフードが強風で煽られるのを見た。
「思い出を捨てる。俺のせいで折れたバディのことも、俺のせいで死んだ幼なじみのことも。全部、捨てる」
……できるの?」
 菊司はジーンズのポケットに手をつっこみながら、フフ、と肩で笑った。
「さぁ、どうだろうね。でもやってみなくちゃ分からない。捨てることと覚えていることは別。捨てたことを覚えていればいい」
 黒い、毛先の長いストールが首元をちくちくと刺す痛みを感じる。
 それを感じないふりをして、顎を上げた。
「毎年、命日に墓参りしていたんだけどね。……もう今年で終わり」
 幼なじみの両親は菊司を嫌っているから、嫌われたまま終わるのもいいだろうと思う。
――終わりにするよ。進むために。きみにかっこいいとこ、見せたいからね」
「俺に?」
 まるい眼鏡の奥の目を細めて、定之を見下ろす。また冷めてしまったであろうそのペットボトルのお茶を、まだ手で掴んでいた。
 くちびるをゆるめて、砂で埋まった足を一歩踏み出す。
「そうさ。きみに見ていてほしいんだ。ちゃんと、立派な刀遣いになるところ」
「立派な、刀遣い……
 彼の目がほんの少し伏せられた。
「定義なんて色々だけどね。けど、考えることはきっといいことだよ」
 定之はくちびるを結んで、ペットボトルのキャップを見つめた。そして、おもむろにキャップをひねって緑茶に口をつけた。かたむけた首もとに、痛々しい傷跡が見えた。
 彼にも、彼だけの傷と痛みがあるのだろう。それにふれたい、とすこし、思う。誰にも触れてはならないようなそこに。きっと自分は、定之のことを知りたいのだろう。だからこんな話をしたのだ。
「じゃ、お昼どっか寄って帰ろっか」
「うん」
 時計を見るとちょうど長針と短針が真上にきていた。
「好きな食べものとかある?」
「好、きな……?」
 不思議そうに首をかたむけた定之に、四本、指を立てて差し出す。
「きみの好きなものを教えてよ。ひとつ、好きな食べもの、ふたつ、好きな飲みもの、みっつ、好きなこと、よっつ、好きなひと。ああ、好きなひとってのは、色んな意味のはなしね」
……よっつも、難しい」
 口もとに指をあてて考え込む定之を見て、ふっと笑った。
「時間なんて、いくらかけたっていいよ」
 時間は有限だけれど。
「好きなものを考えるときくらい、楽しい気持ちになってほしいからさ」
……うん」
 神妙に頷く彼に再度笑いかけて、いまだ砂浜をキャンバスにしている劫罰狐に声をかける。
「ごう、行くよ」
「行く」
 頷いた劫罰狐は細い流木を持ったまま、歩き出した。それほど気に入ったのだろう。明日にはすっかり忘れているかもしれないが。
 
「定之くん、行こう」