いを
2023-12-03 17:39:37
3336文字
Public 刀神
 

それはあの子の鋏です

菊司のこと。
・定之さん【higasa_onink】
お借りしています。

 遠く広がるターコイズブルーの浅瀬を、菊司は見たことがある。ズボンの裾を捲り上げて白波がたつ、ずっと向こう側の水平線を見ていた。
 白い日傘を持った女が菊司を眺めている。長くて細い髪は潮風になぶられて、空気を含んで揺らいでいた。まるで水の中にいるようだった。
「どうして天照に行こうと思ったの?」
「守りたかったんだ」
 菊司は振り返る。
 女は日傘を取りこぼし、白いそれは空に舞った。
「きみを」
 守りたかった。
 でもだめだった。これは夢だから言える。
「なにもかもを偽ってきた世界で、きみを守りたいという気持ちだけは真実だったよ」
 女はうっすらと微笑んだ。そしてそのまま景色に溶けるように消えていく。
「藤子。何度きみにさようならと言っただろう」
 別れの言葉を。

 ひたいに冷たいものが針のように打ちつけていた。
……
 呼吸をするために口を開けると、雨水が喉に入った。背中を丸めて咳き込んでから、ゆっくりと体を起す。
 脇腹が痛んだ。手でさすって、肋骨に異常がないことを確認する。
 久しぶりに現場に出たらこのざまだ。弐段の名が聞いて呆れる。
 そもそも雨の日に劫罰狐の異能は役に立たないだろうと、出動命令を出した上司に内心毒づく。
「あるじ」
 びっしょりと濡れた髪の毛が重たそうな劫罰狐は、左右違う色の目で菊司を見下ろしていた。
「大丈夫だよ、ごう。ちょっと寝てただけ」
「ねてた……
「それよりまわりをごらんよ。これが妖魔がすることだ」
 劫罰狐は周辺を見渡すように首を動かす。雨粒が大きな白い耳に入ると、ぴくりと耳を動かした。
 崩壊した家、抉られたコンクリート、道路、ひしゃげた電柱。大型の妖魔一体が、ここを壊したのだ。
……
 菊司は立ち上がり、手に持った短刀、劫罰狐を左手で握りしめた。
 そして見知った明るい髪色の刀遣いの隣に立つ。
「定之どの、いたんだね」
「応援で、きた」
「俺も応援。高段位の人かき集めてたみたいだけど……
 定之を見下ろす。彼は真っ直ぐ、どこか遠いところを見つめていた。
 彼が戦っているところを直接見たことはないが、煉魔区での激しい戦闘に耐えぬいたこと、そして彼のバディをつとめた妖刀の刃毀れを見れば実力は計り知れる。
 巌那定之、彼は肆段よりもずっと上の段位にいる。
 なぜ昇段試験を受けないのか菊司には分からないが。
「おじさん、泥だらけ」
「アハハ、一瞬夢を見てた」
「夢?」
「そう、ちょっとね」
 さすがに土砂降りのなかで白衣は汚れが目立つから、現場には着てきてはいない。
 息が白かった。
 菊司の息も、定之の息も。
「つか寒くない!?」
 あたりを見回す。刀遣いたちは忙しそうだ。傘でも借りられればいいのだが。だがこのずぶ濡れの状態で傘は今更すぎるか。
「ちょい、車借りてこよ。定之どの、ごう、そこで待ってて」
 天照の車ならおそらく無事だろう。通常の車よりも丈夫にできているようだから。
 同じ峰柄衆の知り合いに鍵を借りて、エンジンをかける。車の免許は天照に入って二年後にとった。とはいっても、ほとんど乗っていないからペーパーなのだが。
 ガタガタと車体を大げさに揺らしながら二人の横に車をつける。
「はい、乗って乗って」
「のる」
 劫罰狐はうなずいたが、どうやって乗ったらいいのか分からないようだった。定之は車のドアを開くと劫罰狐を促し、そのとなりに乗り込んだ。
「ペーパーなんだけどね……。まあなんとか無事に天照まで着けるようにがんばるよ」
 ルームミラーと座席の位置を調整して、アクセルを踏むと重たげな音をたてて走り出した。
 ここから天照本部まで約二十分。まあまあの距離だ。
 空は暗く、重たい雲がたれ込んでいる。
 雨粒がフロントガラスを叩きつけ、ワイパーがそれを拭う。
 エアコンをつけているから、寒くはないと思うが――
「ねえ定之どの、ごう、寒くない?」
「寒くない」
「ごうは……。あれ、ごう?」
 ルームミラーで後部座席を見ると、白い毛並みが見えた。どうやら丸くなっているらしい。
「なんだ、寝てんの……
 けれど分かる。車に乗っているとなぜか眠くなるのだ。定之はじっと窓の外を見ていた。
 左手でラジオのチューナーをいじるが、うまくチューニングできない。雑音が車内に響く。機械全般に強いつもりでいたが、ラジオはどうも苦手だった。
「うまく周波数合わせらんないな。雑音しか聞こえねぇや」
 やがて諦めて、ラジオを消した。消し方くらいは知っている。
 ウインカーを出して、信号の前で止まった。
「定之どの、行き先天照でよかった?」
「うん」
「そう。ずいぶん服濡れちゃったからシャワー浴びたほうがいいよ。寒いでしょ」
 青信号になると、水しぶきをあげて再び走り出した。菊司も定之もなにかを語ることもなく、やがて車は天照に着いた。似たようなタイプの車がたくさん並んでいる。
「お疲れさま。シャワー行こう。着替えあるでしょ?」
「うん」
 こくんと頷いた定之は着替えを取りに行き、菊司はロッカールームに行った。劫罰狐は相変わらず狐の姿をしている。前まで「ばけるのはにがてだ」と言っていたのに、どういった風の吹き回しだろう。
 おそらく人型になったら濡れる範囲が広くなるとか、そういったところだろう。
「ごう、ぶるぶるってしちゃだめだよ。今拭いてやるから」
 ロッカールームを水浸しにするわけにはいかない。むずむずとしている劫罰狐は、菊司の言葉を無視して体を激しく揺らして水をまき散らした。
「わー! もう、だめだって言ったろ!」
「いった。すまない」
 大きめのタオルでわしわしと毛並みを拭ってやると、劫罰狐はすました顔でロッカールームから走り去っていった。
 菊司は床をタオルで拭いてから腰を上げて、ふうと息を吐く。
 そのまま着替えをロッカーからとって、シャワールームに向かった。そこには既に先約がいた。一室だけ、シャワーは「使用中」となっている。
 おそらく定之だろう。
 一室開けて、菊司もシャワールームに入った。コックをひねって、熱い湯を頭からかぶる。肩甲骨より少し上の、中途半端な長さの髪があっという間に濡れた。
 脇腹を見ると、広範囲にわたって痣ができていた。そのうち治るだろう。ただの内出血だ。
「ねえ、定之どの」
「なに」
 音にかき消されて聞こえないと勝手に思ったが、どうやら聞こえていたらしい。
……今度、海に行こうよ。ごうも一緒に」
「海?」
 彼には見えていないというのに、菊司は一度頷いた。髪の毛の先からあたたかい雫がぽたり、と足の甲に落ちた。
「夏の海って俺、いまいち想像できなくてさ。冬のほうが好きなんだ。まあ、寒いけど。海だし」
 藤子という名の幼なじみと行ったときは、たしか夏だったような気がしたが。
 それでも菊司の頭で「夏の海」という概念は、うまく想像できなかった。
 白い日傘が濃く青い、晴れ渡った空に舞う。
 彼女はその時、どんな表情をしていたのだろう。――忘れて、しまっている。
「海の家もないし寂しいけど、俺は好きだよ。冬の海」
 再びコックをひねって、湯を止める。かけておいたタオルで全身を拭いて、衿のよれた黒いシャツとジーンズに着替えた。シャツの上にいつもの白衣を羽織る。
 シャワールームの出口に、定之がぽつんと立っていた。
 右の肩を軽く叩いて、彼に差し出したのはペットボトルの緑茶。あたたかい――ものだったが、とっくに冷めてしまっていた。
「それ差し入れ。結構――いやだいぶ、冷めてるけど。あったかかったんだよ。最初は」
「ありがとう」
 定之が受け取ると、菊司は自身の肩をとんとんと叩いて「もう帰ろうかなぁ」と呟く。
「俺たちもう十分残業したでしょ。きみも帰りなよ」
「わかった」
 定之の答えに菊司は笑って、それを返事とした。
 
 彼女に何度も「さようなら」を言っていた。
 けれど、彼には――定之には「さようなら」と、言いたくはないな。
 なぜかそう、感じた。
 
「海のこと、考えておいてね」