お前のせいで、と言われることは慣れた。だが邂逅は誰も恨まない。恨むという感情がないからだ。あえて言うのなら「憎い」ものはいる。自分を二度も生んだこの世界だ。一度目はこの世に赤ん坊として産まれた時、二度目は死んでなお霊として生まれた時。
何故、邂逅を生かしたのだろう。生かそうとしたのか、この運命というものは。世界というものは。国のために殉じることすらできず、なにも悪くはない家族を巻き込んで役立たずの邂逅だけが生き残った。妹の、弟の、兄の、父の母の姪の甥の絶叫が耳にこびりついている。
どうして生き残ったのが邂逅だったのだろう。なぜ邂逅でなければいけなかったのだ。
そんな罪悪感だけを抱えて幽霊になってまで、生きている。
公園のベンチに寝転がって、男は暗い空を見ていた。死人に夢など不要だろう。薄い胸が激しく上下している。こんな時でも汗は出ない。カラカラの体では、当たり前だろうか。
土を踏む音が聞こえた。視線だけ動かすと、棒のようなものがあった。人影だと知ったのは、少し経ってからだった。
「ああ……お前、そうか」
見覚えがある。もう十年くらい前だろうか。それくらい前に視力を奪った人間だ。
「なんだ。おれを祓いにきたのか?」
祓いにきたのなら、今ならその手ひとつで祓えるものを。名前は知らない。けれどこの世のすべてを憎んでいるようなその目を、邂逅は「うつくしい」と思った。
「おれが憎いんだろ」
「……そうだな。私はお前が憎い。お前は私の視力を奪った」
「そうか。だったら殺せよ。おれは今すごく気分が悪いんだ」
「殺す?」
男は低い声で「殺す」といった。脅しているわけでもない、ただ、反芻しただけの声色だった。
「殺すという動詞の意味を、お前は知らないのか。生きているものに言う言葉だ」
「おれはもう死んでるからな」
「死者に殺すとは言わない」
「ああ……そうだな。確かにそうだ」
男は身じろぎひとつせず、こんこんと伝えてくる。
「私はお前を殺すためにここに来たんじゃない。祓うために来た」
「同じことだ……」
「お前をあるべき場所へ送る」
左手を腹に乗せ、右手をベンチから放っている邂逅の姿を、男はじっと見ていた。見ているだけだった。
「あるべき場所ってどこだよ。地獄?」
「地獄など存在しない。仏もいないのだから。お前にも伝えたはずだ。この世には神も仏もないと」
「じゃ、どこに送るってんだ」
男は一歩、足を踏み出した。湿り気をおびた土の音が聞こえる。
「お前が望む場所に」
邂逅が望む場所。そんなものはこの世界のどこにもない。それが答えなのだろう。無に帰すというのだ。邂逅の願いどおりだと言うのならば。
「なぁ、さいごにすこし話をしてくれよ」
「立ち話でいいのか? お前は」
「今からだを動かすの、つらいんだよ。おれのこと見下ろしていいから話をしてくれ」
男は深いため息をついて、ベンチの横に並んだ。男の顔が見えた。月光に照らされて。律儀にも、五条袈裟を着ている。仏なんかいないというくせに。
それとも「あるべき場所へ送る」ための、規則だとでも言うのだろうか。
「私の名を置いていこう。私は黛無告。寺の次男、三十六歳。あの学園の非常勤講師をしている」
「へぇ。坊主が非常勤講師ね……。だから子どもを庇ったりなんかしているわけか」
「他に知りたいことは?」
「急かすなよ。なぁ無告。おれは今すごく具合悪いんだけど、どうしてだと思う?」
「さあ」
無告は本当に興味がなさそうに、肩をすくめた――ように見えた。ざらりと梢が揺れて、黒っぽい葉が散っていった。
けれど男は、手にもった数珠を出してこない。まだ祓う気ではないようだった。話を続けろとでもいうように、くちびるを閉じている。
「幽霊だって夢を見るんだぜ。夢ってのは、お前らの専売特許じゃないわけだ。いやな夢を見たら、どうすればいい?」
「人それぞれだ。決まった答えはない」
「ふぅん。そうなんだ。じゃあいいや」
――あと、いうことといえば何だろう。ふと考えて、思い至る。
「……おれ、お前のとこの生徒の視力を奪ったんだ。もう十年くらい前かな……。お前の視力を奪った一年後くらいだ」
「何……」
殺気に気づく。右目だけが動いたように感じる。
それでも邂逅は続けた。途中で祓われたって仕方がないと思いながら。
「一番大事にしてるんだ。子どもの目は陽にまだそんなにあたってなくてきれいなんだ。おれはもう何十年も見てないけど、昼の空と月みたいな色をしてる」
「返せ。今すぐに。私のような存在をそれ以上増やすのは許されない」
「……そうだよな。やっぱりそうだ。そんなきれいなもの、おれが独占してちゃいけないよな。分かってるよ……」
白く長い髪の毛がベンチに流れていく。乳白色の色よりも、もっともっときれいなものだ。夜の、空の星は。どんな名前の星かなんて、邂逅には分からない。知り得ない。だからあれらが本当に名前があるのかどうかも分からない。
「返す、って」
腹の上に置いた手をそっと握りしめる。着物にしわが寄り、かすかな衣ずれの音が近くで聞こえた。
「返すって、言ったんだ」
「……」
「言ったんだよ。返すって、返したいって。おれなんかが持ってちゃいけないものだって、知ってるから」
幼い子どもの言い訳のように、邂逅は薄いくちびるを開いた。
言ったんだ。本当に。崩に、ちゃんと。
心のなかに渦巻く熱くて苦しいものを吐き出すように、空に向かって呟いた。
無告は何も言わない。ただ、沈黙を守っている。
「そしたらあいつ、なんて言ったと思う? それ本気? だってさ」
ものすごく怪訝そうな声をしていた。どうして今更、と思っていたのだろうか。思っていたことは分からない。
喉が締められているような息苦しさを感じながら、邂逅は思い起こす。そのあとの言葉は無告には言わない。言う必要はない。
――「いいよ持ってて、返してもらったらまた他のやつから取ろうとするじゃん、そっちのほうが嫌」。
そう言った。崩という少年は、そう言ったのだ。
優しいとか、優しくないとかそんなことを置いておいて、邂逅は素直にきれいだなと思った。
きれいな、うつくしい心をもった少年だ。
はるか昔にうたわれた「国のための犠牲」とかいうものよりもよっぽど美しい。
けれどそれ以上に、どこか心に引っかかりを覚えたのも事実だった。
崩が言ったそれは、「このままでいい」ということだ。見えないままでいい。なぜなら、他の人間が取られるほうがいやだから。彼が言ったのはそういうことだ。
確かに崩に返したら他の奴から取るだろう、邂逅は。本能のように。
「それがさ、魚の骨が引っかかったみたいに、頭について離れないんだ。本気だったよおれ。本気でちゃんと返そうとしたんだ」
「何故」
無告は静かに訊ねてきた。
「何故、それほどまでにその子に執着しているんだ」
「執着?」
「執着だろう、それは。何故その子の目でなくてはいけなかった? 何故今更返そうとした?」
ぼんやりと間抜けに口を開いたまま、邂逅は空を見上げていた。どうせいくら手を伸ばしたって届かない星だ。じろじろ見ても構わないだろう。
――なぜ。
これは執着なのか。
「きれいなものだとお前が思ったのに、どうして自分は持っていてはいけないと思ったんだ」
そうだ。持っていてはいけないと思った。こんなにきれいなものを。おれなんかが、と。
嘘ではない。
本当にそう思ったのだ。
「……ただの罪悪感ではないだろう。それは」
そういえば、前に朱影踏と一緒にテレビというものをはじめて見たな、と思い出す。
その時彼が言っていた、心と体は分かっている、という言葉の意味を考えた。邂逅自身の心と体が分かっているのなら、そういうものに名前がつくものなのだろう。人間は名前をつけたがる生き物だということを、少なからず知っている。
草にも花にも星にも風にも、感情にも、彼らは名前をつける。美しいものを美しいものだけとしていられないのかもしれない。名前をつけて、その手に閉じ込めたいとさえ思っているのだろう、きっと。
名前をつけて、
たったひとつの、心というものに。
包帯の内側で、目を伏せる。視界が更に半分になって、ぼやけた。
テレビのなかの人間は、親しげに手を絡ませたり、必要以上にくっついたり、口と口を塞いだり、塞がれたりしていた。あれはなにをしてるんだと朱影踏に訊ねると「キス」とだけ言っていた。
聞いたことがある。好きな人間に、人間がする行為だ。
今、からだの中身なんてないのに、生きていた頃のように血が通ったように感じた。熱を、感じた。
「単純なことだ」
思考していた内容を無告は見透かしたように言った。
「お前は、その子に好かれようとしたんだ。違うか」
「好かれようって? おれが?」
「お前はその子に視力を返して、見て欲しかったんじゃないのか。お前を」
男の言葉は、ほとんど突き放したような言い方だった。
好かれる。
好かれたい。
七億不思議の一端が、――もう死んでいるはずの人間が、生きている人間に、好かれたいと願った。
「そんなこと、ある、はずが」
「お前は人間だったんだろう」
「もう死んでる」
「だが心は生きている。お前にはまだ心がある。人間の心だ。心があれば、」
無告はそこで言葉を切った。そして、再度ため息を深くつく。呆れたように、まるで小さい人間の子どもに言い聞かせるように。
「……好きにだってなるだろう」
その名前を知っている。
邂逅は少なくとも、そこまで無知ではない。
「私が言うのはここまでだ。今日は見逃してやる。そのままそこで考えていろ」
そう言い放って、無告は去っていった。また生き延びた。生き延びてしまった。
「そんなの、……そんなもの、いいわけないだろ……」
死んだ人間が生きてる人間に抱いてはいけない感情だ。
わきまえろよ、と呟く。
とっくに死んだ人間が、一丁前に生きてるみたいな心を持つなよ。
今までどれだけの人間を苦しませたんだ。どれだけの人間を悲しませたんだ。死んで詫びることさえできないのに。それなのに、その名前を邂逅は知ってしまっている。
からだの中には何にもないのに、まるで心があるような違和感がある。
心なんて、臓器としてどこかにあるわけもない。
分かっている。
それくらい分かっている。
「……」
――崩。
優しいお前だから、聞き遂げてくれるだろう。この感情の名前を。
罵倒もしないだろう、きっと。あんたのその感情は間違いだ、勘違いだ、とも言わないかもしれない。
そうだろうということを想像できるくらいに、話をした。
ひょいと抱えられて、崩が通っていた小学校でプールを見たし、うさぎ小屋も見た。
頭にかぶってるそれに、かわいい顔を描かれているのを、何度も見た。
ちょっとだけ触れてみたいと思ったけれど、神聖なもののような気がして指先はいつも下を向いていた。
優しいお前に、好きになってほしい、愛されたいだなんて思わない。思ってはいけない。
それでも、嫌いになってほしくはない。
絡まってほどけない糸が、邂逅のからだの中に浮いていた。
皮膚の感覚なんかほとんどないのに、心というものだけが痛む。心が麻痺していれば楽だったかもしれない。けれど、それでは人の心というものではないのだろう。無告が言っていた。
ひとに恋をした霊なんて、笑えない冗談だ。
腹にのせたままの手のひらを、痛覚がないから遠慮なく握れる。爪が皮膚に食い込む繊細な感覚なんて、もうとっくになくした。皮膚が破れて流れる血さえ、邂逅にはない。
流せるものなんか、もう何もない。
あの時、焼けてすべて失ったのだから当たり前だろう。
朱影踏とテレビで見たふたりは、寄り添ってしあわせそうにしていた。
幸せとはなんなのか、邂逅には分からない。
それでも崩といた時間は少なくとも、穏やかだった。
人間が、あの学園の特待生が、敵である七億不思議と話をすることなんて、普通考えられないだろう。
彼と話をしているときは、家族の悲鳴が、絶叫が、遠のいた。だから、穏やかでいられた。
これが遠い過去、人間だった邂逅の、むき出しの感情だった。
「お前にこんなこと伝えたら、きっと困っちゃうだろうなぁ」
――邂逅は、自身を生んだこの世界の運命を恨むことすらできない。弱った心では、「恨む」という重たい感情を持てなかった。
それがいいことなのか悪いことなのか、邂逅自身にも分からないだろう。
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