いを
2023-10-31 20:21:27
2907文字
Public ブツメツフツマ
 

泪じゃないものばかり溢るる

邂逅。
・朱影踏さん【higasa_onink】
・(ふわっと)崩さん【_XwX_tm】
お借りしています。

 邂逅はテレビというものを見たことがなかった。名前だけは知っている。昔はブラウン管というもので、今は液晶ということも知っている。けれど実物を見たことはない。見てどうにかなるものなのだろうかと思っているが、どうなのだろう。テレビは遠い場所にいる人間を映す箱だという曖昧な理解だから、そんなものは「知っている」とは言えないだろう。
「なぁ朱影踏。お前テレビっていうの見たことある?」
「あるけど、なんで?」
「どういうんかなって。見たことねぇから」
 邂逅がとある男の名前だった時にはテレビなどなかった。いや、あったかもしれないが学のない男の知識では、ないも同然だった。男は雨漏りのする狭い部屋で、かび臭い布団を敷いて寝ていた。ひたいに雨粒が落ちた日もざらにあった。だから、テレビに最初に映し出された文字が「イ」だったなんて今も知る由もない。
「まぁいいや。今日も酒があるから、テレビなんてなくたって」
 朱影踏の墓――いや、生前の彼あてに供えられた酒を邂逅も頂いてしまうことに罪悪感はなきにしもあらず、だが、持参した青磁のお猪口に酒を注いでもらい、邂逅の手からも朱影踏に酒を注いだ。注がれた清酒に、月が映った。映ったがすぐに風に吹かれて歪む。
 無意識にため息をついて、真っ黒な空を見上げた。墓場で酒盛りとは、いい時代になったものだ。ちかちか、と近くの電灯が瞬いた。もしかするとじき、電気がきれるのかもしれない。きれてもきれなくても、邂逅は変わらないだろう。
「今日はなんか口数少ねぇな」
……うーん。そうかな」
 いつもだってうるさいというほどではない――そこまで考えて、うるさいのかもしれない、と思い当たった。
 お猪口を持った手を、胡座をかいた膝に乗せる。どうごまかそうか、とか、そんなことは考えていない。考えてはいないし、さぐりを入れられているようにも感じない。彼なりに勘づいたことを言ったまでなのだろう。
「ちょこっとさ、人間の影がちらついて……
 朱影踏は「ふぅん」と相づちを打って、酒をあおった。頭の上で縛った長い髪の毛が揺れる。風が出てきたようだった。邂逅のそれほど綺麗というわけではない髪の毛も、先の方がちいさく動いた。
「よりにもよって人間ね」
「そう。そのとおり。よりによって人間なんだよ」
 ゴミ箱かぶってるやつ。とまでは言わなかったが、ゆらゆらと指先で酒の入ったお猪口を無意味に揺らしてみる。
 七億不思議が人間を気に入っちゃいけないのかよ、と自分に問う。答えは「いいえ」だった。他の七億不思議だって、気に入った人間がいるはずだ。数は少ないかもしれない。――朱影踏にも、いるのかは分からないが。
「昔、っていっても十年くらい前に、おれが目を奪った子どもとさ、また会って」
 朱影踏は伏せていた目をちら、とこちらに向けた。
「でっかくなってたよ。おれよりでかいし。そんで、お前よりもでかい。人間ってあんなにでかくなるもんなんだな」
「へぇ」
「おれを見て、おれだって分かったんだ。すごいな人間の記憶ってのは」
「恐怖はずっとついて回るからな」
「そうだな。怖いのはイヤだよな。……ほんとは目だって返しちゃってもいいんだ。でも返しちゃったらさ、」
 そこまで吐きだしてから、酒を持っていない手で喉を覆った。
 返したらどうだというのだろう。
 なにか不都合なことでもあるのだろうか。
「何?」
 朱影踏の声に、包帯の内側にある空洞の右目がじりりと痛んだ。ないのに痛む。こういうのを、確か幻肢痛というらしいが、邂逅にとってはどうでもいいことだ。新しく覚えても、ちょっとした瞬間に忘れてしまうから。
「なんでもない」
 子どものような口調で、邂逅はかぶりを振った。ぱさぱさと髪の毛が揺れる音をあまり機能していない聴力が拾う。
「でも、なんでもないはずなんだけど」
 喉に当てた手を、今度は胸に移動させてそのままガリガリと掻きむしる。ほぼ感触もないから痛みもない。
 その様子を、朱影踏はじっと見ていた。彼がいつから七億不思議をしているのかは分からないが、テレビを見たことがあるということはその辺りの生まれなのだろう。お互い、出生を話していないかもしれない。邂逅が忘れていなければの話だが。
 爪と指の間に肉片が詰まっているのに気づいて、ふと手を止めた。
「からだの奥が、なんだか熱いんだ」
 邂逅の前の名前だった男の死因が焼死であったことなんて、他人にとっては興味のないことだろう。誰にも言っていないし、きっとこの先、誰にも言わないと思う。隠しているわけではないけれど。
「熱、なんて、久しぶりに感じたよ。風邪かな」
「オレたちが風邪引くかよ」
「そりゃそうだ」
 アハハ、と笑ってみせる。その振動でまだ飲み干していない酒が、石を投げ入れた池の水面のように揺らぐ。それもそうだ。もう人間ではないのだ、邂逅は。
「おれたちが風邪引けたらまだマシだよな」
「マシじゃないけどな」
 彼はため息を吐きながらそう言った。
「死んでるのに風邪引くって笑い話になるぜ」
「具合悪いのは笑い話じゃないだろ。まぁ、生気食わなくて苦痛感じるほうがよっぽどしんどいけどな」
「そうだな。生気を食ってるんだもんな、おれたち」
 空腹で死にはしないが、疲弊はするし、苦痛も感じるし、いらだちもするし、不安もある。
 邂逅たちのような存在は祓われるか直射日光を浴びるかでしか死ねないのだから、ある意味「死」への入口は狭いものだ。人間よりも。
 ――ゴミ箱をかぶったあの男が、日が当たる場所で年相応の暮らしをしていればいいのだけれど、とも思う。彼も、死にたいと思ったことがあるのだろうか。生きていた頃の邂逅のように。
 その死を選べるなら――いつか祓われるなら、あの男がいい。
 約束などしなくてもいいし、あの男がこの思いを知らないままでもいい。
 また邂逅が誰かの感覚を奪った時、彼がその場にいたら、祓うだろう。そういう契約だと邂逅は誰かから聞いた。あの学園にいるやつらは七億不思議を祓うためにいるか、本当に何も知らない人間が、ちゃんと人間らしい生活をしているかのどちらかだ。
 邂逅は祓魔師をべつに憎んではいないし、怒りも覚えない。人間に危害をくわえる七億不思議がいるから祓魔師というものがいるのだから、存在しなければおかしいのだ。
 鶏が先か、卵が先か、というあれみたいだな、と邂逅は考える。
「お前が感じてるのはきっと風邪のせいでもないし、酒のせいでもない」
 朱影踏は、慎重にそう呟いた。
「うん。そうかもな。そうかも。だって、いやな熱さじゃないんだ」
 なにがどうなっているか分からないけれど、テレビみたいな物質じゃなくて、こういうものはきっといきものとしてあるべき事柄なのかもしれない。
「おれが」
 ――おれという存在がせめてなかったら、ゴミ箱かぶったやつの視力だって当たり前のようにあっただろうし。
 おれが奪ったのだから、おれの手で返すべきなのだろうし。
「なにか感じられる部分があったらな」