今さら同胞がどうなろうと知ったことではない、と思っている。七億不思議はここに留まっているのは当たり前のことで、多分、ここを出て行くという選択はないのだろう。だから祓われたとしても自業自得でもあるし、自分のほうが弱いということでもあるだろう。
邂逅にとっても、いつかどうせ祓われるなら幽霊になって多くの時間を過ごしたここがいい、と思っている。
夜の散歩など、生きていた頃は戦火で怯えるしかない日々にしてみれば贅沢な行いだった。こうなってからでは、逆に陽の光など忘れてしまったが。
生まれてから死ぬまでの三十年と数年よりもよっぽど長生きをしている。生きているという言葉は不相応か。
ふと公園を通り過ぎようとすると、知らない怪異と知った顔、と言えばいいのだろうか。はっきり言うとゴミ箱、を被った背の高い男が対峙していた。そういえば、彼が祓っているところを見たことがないなと思い、キリンの首のように長い電灯の影に隠れた。隠れきれていないことを知りながら。
顔の上半分をぐるぐる巻きにした包帯のせいもあるが、邂逅の聴力はほとんど使い物にならないから、遠くから会話などできやしない。だから怪異と彼がなにを話しているのか、それともなにも話していないのかは邂逅には分からなかった。
「名前……」
そうだ、名前があったのだった。自分の足許を見ながら、崩、くずす、くずす、と、忘れないように口の中で何度か反芻する。名前は便利だ。邂逅自身にも名前はあるけれど、これは自分でつけた名前だから名前というよりも呼称、と言ったほうがいいだろうか。生きていた頃の名前はある。ちゃんとあるけれど、誰にも言っていない。自分が憶えていればいいと思っている。生きていた頃の人間はもうこの世に存在していないから、この名前も存在していないと同意だ。
けれど崩の名前は覚えておきたいと思う。
呼ぶひとがいなくならなければいいと思う。呼ばれなければ、名前なんて意味がない重荷だろうから。
ちり、と寒気がするほどの覚えのある――ここではトラウマとでも言えばいいのか――を、邂逅は確かに感じた。
顎をあげる。
崩がいるほうを見ると、怪異が、七億不思議が燃えていた。
頭を鈍器で殴られたような痛みを感じて、思わず足を一歩下げた。痛んだ下駄の歯のジャリ、という音が火の粉の音に紛れて消えていく。
腕で頭を覆いながら、がたがたと無様に震える体が鬱陶しかった。
「そうか……。そうか、」
お前は火を使うのか。
その言葉は出なかった。邂逅を、邂逅の家族と家を燃やしたのは崩ではないことを邂逅自身が知っている。
どうせ犯人は死んでいる。のうのうと生きていても爺か婆だ。それも、百歳くらいの。相手は邂逅が誰かなんて分からないだろう。知り得ない。そんな奴でも、もし生きてたら、と思うこともある。そうしたら同じように燃やしてやろうと考えただけだ。細い骨など、残さないほどに。
けれど誰が燃やしたのかなんて、もうどうでもいいし誰だっていい。それがたとえ――人間ではなくとも。
「憎いのは、恨めしいのは、お前じゃない」
独り言のように呟いても、かちかちと鳴る歯がうまく噛み合わずに言葉にはならなかった。きっと誰も聞いていない。聞かないでいて欲しい。こんなみっともないさまを、同胞にも、人間にも見せたくはない。
「う、ぅ……っ」
無意味な嗚咽を吐いたって、ただ地面に落ちる雨粒みたいに、すぐに溶けて消える。
最初は髪と頭だった。次は喉、次は肩、背中、胸、太股、足。邂逅の、元から薄いからだなど、すぐ燃え広がってあっという間に酸欠になった。
苦しかった。酸素を求める金魚はこんな気分だったのだろうか。今でさえこんな生易しいことを思えるくらいだし、少しはよくなったと思ったのだがあの苦しみや痛み、熱さは、無情にも体は憶えているようだった。
「寒い……熱い……い、ぃたい……苦しい」
ずいぶん風が冷たい。からだが熱いのか、それとも寒いのかさえ分からない。全てごちゃ混ぜになって、邂逅の内側を今もまた、焼いている。
だが、こんな感覚を覚えているのならいい。まだ。
なにも感じなくなることが恐ろしい。
五感を盗んで気まぐれに返す。それを繰り返して、なにになるのだろう。
――邂逅が五感を盗むのは自分にないものだからだ。右目はとうに焼かれてない。病で嗅覚も聴覚も味覚も使い物にならない。焼かれた皮膚では触れてもなにも感じない。
こんな自分のどうしようもない不幸とみじめさを、他人になすりつけているのだ。五感を盗んでも、自分が感じることなどできやしないのに。ただ、焦れた。焦れて焦れて、思い出したかった。それが無駄なことだと分かっていても。
寒さや暑さを感じるのは、今のからだの、焼かれていない部分だけ。あとは機械的に覚えている。冬というものを、そして夏というものを。
じゃり。
コンクリートを踏む音が聞こえた。
汗もかけないこの身でも、冷や汗をかくとはこういうことかと感じた。
「あれ、邂逅さんじゃん。なにしてるの?」
「いや、……崩が祓うとこ、見てただけ」
ちゃんと言葉にできていただろうか。ゴミ箱をかぶった崩は、「ふぅん」と相づちをうった。
「助けようとは思わなかった?」
「アハ、まさか。しらねぇヤツだし……」
知っている七億不思議でも、助けに入るかは分からない。その日の気分次第だろう。震えそうになる手を強く握りしめて、無理やりくちびるを歪めた。
「……」
「それじゃ。おれ、散歩の途中だから」
それでも、
それでも。
お前の炎はちょっときれいだったよ。
忘れそうになっている、太陽の光みたいだった。
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