いを
2023-10-21 18:30:38
3226文字
Public ブツメツフツマ
 

あのまぼろしにも孤独があるように

邂逅。
・崩さん【_XwX_tm】
お借りしています。

 邂逅は一度死んだのだから、寂しい気持ちも嬉しい思いも、ぜんぶぜんぶ、からだと一緒に炎に焼かれてしまったらよかったと思ったものだ。
 それでも男の心はそのままで、寂しい気持ちも嬉しい思いもぜんぶからだの中に入っていた。棺の中に押し込まれた気分にもなっている。死んだ人間が入るための筺。そこには肉体が入るのだろうが、魂などというものはもうとっくにどこかへ行っているのだろう。邂逅の場合は棺に入ることなく焼かれてしまったのだけれど。これは笑いごとだ。秋の美しい月が見下ろしている。邂逅はそれを見上げていた。ぼんやりとしか入ってこない光を見て、なにが楽しいのか自分でも分からなかった。
「楽しいもんなんて、ハナっから期待しちゃいねぇよ」
 まるで、言い訳のように呟く。カランと下駄が鳴る。なにかの合図みたいに、近くから靴音が聞こえてきた。暗いので分からないけれど、聞いたことのあるトーンだった。「だから」、なのか、「なので」、なのか分からないが、邂逅は足を止めた。
 カタ、カタ、という音とともに現れたの背の高い、何度か見た、頭のてっぺんからゴミ箱――を被った男。影が長い。長くて、先から溶けそうだった。
「ああ、坊ちゃん。また会ったね」
 カタ。音が止まった。向こうも立ち止まったのだった。
「おれのこと覚えてる?」
「覚えてる」
「おれも、お前のこと覚えてるぜ。あ、」
 ――えーっと、名前。名前なんだっけ。
 がさがさとしたくちびるに人差し指の第二関節をあてて考え込む。
「名前、聞いたっけ」
 かすかに風が出てきて、ゴミ箱がカタカタと再び鳴った。冷たくて乾いた風が邂逅と男の間を吹き抜ける。枯れた葉も一緒に流れていった。その次の瞬間にも足の甲に葉が落ちて、やがて地面に転がっていく。
「おれの名前は、邂逅。カイコウ、と書いてわくらば、、、、――よろしくね。坊ちゃん」
 男はなにも言わなかった。警戒しているのか、唐突なことに戸惑っているのか、それともまた別の意味の沈黙なのかは分からない。
「人間に名乗るなんていつぶりだろ」
 少し笑う。
 男の名を知りたいところだけど、こんな本名か分からない怪異が名乗ったって、なんにもならないだろう。名前は、呪いだ。名付けという行為は、太古の昔から続けられてきた呪いだ。
 怪異に名前を知られて喜ぶ人間なんかいないだろう。少なくとも邂逅は思う。
 それでもちょっとだけ、邂逅は知りたいと思った。ほんの少しだけ、名を、と。名前を知ってどうにかするなんてことは微塵も考えてはいないが。
「おれが名乗ったからって別に名乗らなくてもいいよ。興味はあるけど。今の人間の名前」
「視覚、奪わないんだ」
 意外そうな口調ですこし違った回答が返ってきた。邂逅は少し愉快になって「アハハ」と笑った。
「おれもね、そうしょっちゅう奪ったりはしないよ。前だって奪わなかったでしょ。一応、そこそこの理性はあるさ」
 理性のない獣になれでもしていれば、ずっと昔に祓われていただろう。邂逅は利口なほうではないが、想像力がなさすぎる阿呆でもない。
 手先と足先がじんとしびれてきた。こんな格好なのだから仕方がない。指先を擦りあわせて、お互い見えない目を動かす。
 そう、
 互いの「目」を、いま、ふたりは知らない。
 いや――、昔の彼の目は知っているが「今」は少なくとも知らないはずだった。
 けれど、彼の顔は覚えている。まだいとけない手足をしていた子どもの頃の彼の顔を。今は隠されているけれど。その、顔を。
 空は相変わらず曇天で、風だけが温度を持っているようにも感じる。冷や水を容赦なく浴びせるような風。男は寒くないのだろうか。顔が見えないので分からない。ただ、手のひらをゆるく握っていた。
「おれが奪うのは視覚だけじゃないよ。そのほかに聴覚嗅覚、触覚に味覚」
 もしかすると言っていなかったかもしれない。でも言っていたかもしれない。指折り数えて計五つ、言葉に出す。
「人間が五感って言うヤツさ」
 少し、悪寒を感じた。怒りか、それとも軽蔑か。もしくは、そのどちらでもないものか。邂逅には分からない。氷よりも冷たい何かが背中を通り抜けていった。氷ではないかもしれない。えたいの知れない炎かもしれない。
 邂逅には人間を殺す力はない。けれども、一因にはなる。片方の視覚を奪えば当然のように視界は半分になる。後ろからくる大きな鉄の塊に轢かれて死んだって、それは邂逅が殺したことになるだろう。ひとを殺すのはひとでなければいけないかもしれないが、曖昧にその間に漂ってくる邂逅のような存在もいる。きっと憎悪するだろう。嫌悪するだろう。
 ひとがひとを殺したところで、全人類を憎むようなことがあまりないかもしれないけれど、邂逅のようなヒトではないものがひとを殺したら、その存在すべてを憎むようになることを、少なくとも知っている。
――寒い。
 包帯の内側で右側の顔の皮膚がジリジリと痛んだ。
「分かってくれなんて言わないよ。おれたち――、いや、おれは存在自体が害悪だ」
「害悪」
 彼はオウム返しにそう言った。
 やはり、すこしこもった声だった。ゴミ箱をかぶっていればそうだろう。
 こうさせたのも、きっと邂逅のせいであろう。邂逅が奪わなければ男はきっと、ゴミ箱なんてものを被っていなかったかもしれない。結局なにも知らずに、邂逅は奪ったのだ。彼の未来のことなど考えずに。
「そういうふうにできているんだろうよ。悪役にならなければいけない。べつにおれはそこに悲観なんてしちゃいないが」
「そうされたら困るんだけど」
「アハハ! 違いない」
 悲しい顔をして奪えば、辛そうな顔をして奪えばそれは罪にならないのか。そんなわけがないだろう。どんな顔であろうが悪は悪だ。「いいこと」や「正義」になるわけがない。
「五感を盗むって言ったよね」
「そう」
 カタ、とゴミ箱が鳴った。
「名前まで取られちゃうんじゃないなら、まあいいか」
 彼は納得したような、そうでないような口調で続けた。
「崩って呼んで」
「くずす?」
 喉を通った感触は意外となだらかだった。
「お前の、名前?」
「そう」
「崩。フフ、そうか」
 ほんのすこし背中を丸めて笑う。笑った直後、喉からこぼれたのは乾いた咳だった。秋からは空気が乾いているから仕方がない。
「お前の名前、覚えたよ。崩。おれは学がないから、どんな字を書くか分かんないんだ。今度教えてくれよ」
 ――また「今度」も、おれが未練がましくここにいたら。
 そう咳のあと特有の掠れた声で囁いて、邂逅は崩に背中を向けた。
 背中を向けたのだって、べつに大した理由なんてない、と思う。ここで祓われたら終わり。祓われなかったら続く。0と1。それだけだ。
 生やら死やらに執着などするものか。と、そう考えるけれど、結局は分からない。自分がどこに向かっているのかなんて、自分にも分からない。生きていないのだから。生きていないなら、こうやって喋っているわけもないのだし、おそらく死んでもいないのだろう。
 幽霊は死んでいる人間という定義なのかもしれないが。
 邂逅は生きても死んでもいない。
 この世界には一度でも死んだことがある人間は存在してはならない。
 こんなになるまで存在し続ける理由なんてものがあるなら、こっちのほうが教えてもらいたいもんだ――とは、思っている。
 何故自分たちのようなものがいるのだろう。
 世界は生者の世界だ。生きとし生けるものが主役の世界だ。死者は、ただの脇役だ。介入すべきではない。
「おれたちに意味なんてあるのか分かんないし、楽しいこと、なんて期待したら持ってるモンも零しちまうよ」
 月が煌々と照っている。
 光か闇に溶けるように、邂逅は公園の一本道から消えた。
 最初から何もなかったように。