いを
2023-10-07 20:05:38
4201文字
Public ブツメツフツマ
 

陽狂の庭師

黛無告。
Grenzsituation.
フォロワーさんのお子さんそれぞれお借りしています。

 古い住処だから、というわけではないが、アパートの入口付近に、今どき見ない枝折しおまであるのだから、古いといってもいい具合だろう。
 枝折り戸は、ひとつ。大家の家へと続いている。庭には、四季の花や樹が植えられていた。決して広くはないから、花々は密集していて少し息苦しそうにも見えた。
 大家は男性の老人で、ひとりで住んでいる。奥方はつい先日、亡くなったという。昔からの父の知り合いで、焼香に訪った際には随分ありがたがっていた。
「おはよう」
 老人は竹箒で庭先をはきながら、人のいい笑みで無告に声をかけた。
「おはようございます。朝から精が出ますね」
「これくらいしかすることがないから」
 せめて、きれいにしているのだという。庭を。奥方が遺したこの庭を。
 老人はとんとんと腰を叩いて、背中をほぐす恰好をした。
「呼び止めちゃ、学校に送れてしまうね。気をつけて」
「ありがとうございます。行ってきます」
 いってらっしゃい、と、送り出される。たまにこうして言葉を交わすが、今は珍しい光景なのかもしれない。無告はアパートを出て、歩道を歩く。学校までは歩いて駅まで行き、電車に乗り、また歩いて学園に行く。珍しくもない通勤手段だが、無告は無告なりに気に入っていた。
 ――昔は自転車を乗っていたのだが、この目になってからは歩くようになった。
 朝の空気は澄んでいる。澄んでいて、清い。
 無告は薄いコートの前をあわせて歩いた。カサカサと乾いた葉が足もとを転がっていく。
 妙に蒸し暑い電車に乗り、数駅先の駅で降りる。そして構内を出ると、また歩く。歩いている途中、さまざまな生徒と行き会う。
 サイドゴアブーツのヒールの音が、他の革靴などの足音に消えていく。
「あ、せんせー」
「おはようございます。幸祝さん」
「おはようございます」
 双子の彼女たちはちいさくお辞儀をしてから清廉な花のような満流と萌流は、無告の前を歩いて行った。
 そして右側をだれかが横切っていった。茶色い髪の毛の、男子生徒だ。
「おはようございます。佐伽羅さん」
……おはようございます」
「昨日は休肝日でしたので、刺激物のにおいはしないと思うのですが」
「ええ、そうですね。報告されなくても分かります」
 つんとした顔をした佐伽羅薫は、無告の「報告」にまるで当たり前ですと言わんばかりの口調で叩きつけた。
「時間はいいんですか」
 右手首につけた腕時計を見下ろして「そろそろ急いだ方がよさそうですね」と自分のことなのに他人事のように呟いた。
「では」
 短く続け、薫の前を今度は少し足を速めて歩き始めた。ざわりと風が吹きすさぶ。家を出たときと同じような葉が、右の視界のうちに見えた。
 学園内入り、職員室に向かう。漣のように寄せて返す話し声を受け流しながら、隣の席の教師に「おはようございます」と言った。眠そうな顔をしている教師も「おはようございます」とあくびを噛み殺しながら伝えた。
 デスクの上のパソコンをつけ、今日の予定を確認する。
 それからボールペンを取り出して手帳に予定を移す。いつもの日課である。
「あ」
 黒いインクのボールペンが、赤いインクになっている。無告は苦笑いをした。むざむざ自分で変える意味も理由もない。思い浮かぶのはとある特待生の顔だった。
 蛇石崇我。他に思い浮かぶ生徒はいない。
 ボールペンのペン先をひねると、赤と黒のインクが出てくる。やはり逆になっていた。それを黒は黒、赤は赤にはめ込むと、後ろから視線を感じた。
「蛇石さん。だめですよ、こんなことをしては」
 青い、鮮やかな髪色の崇我は歯を見せた。
「俺がやったって証拠、あんの?」
「ええまぁ。今までのいたずら歴を鑑みると、大体はあなたの仕業かと思われますね。違ったらすみません」
 教室に戻ったほうがいいですよと伝えた。彼は背中を向けて教室から出て行ったが、素直に教室に行ったのかは分からない。
 まわりを見ると、慌ただしくなってきた。クラス担当を持っている常勤講師がそれぞれの教室に向かう時間なのだろう。
 もうそろそろ無告も授業の準備をしなければいけない。教科書と、自前のチョークを机の引きだしから取り出してデスクの上に置く。
 色が薄いとはいえ、サングラスを通しての視界はあまりにも薄暗い。
 動かない左目を気味悪がる生徒はいるとは思うが、際だっては見られなかった。左半分の視界にも、もう慣れてきた。慣れなければいけないほど、時間がたっていたのだ。
 いくらか隠せても、子どもというものは察しがいいものだ。
 彼を知っている。
 隠岐路公紲。
 昔なじみ――とはいっても、年齢が十九も下の子だけれど、幼い頃から察しが良かった。そうざるを得ない生き方だったのだろう。
 比較的広い、無告の実家の寺で追いかけっこをしていたことを思い出す。
 立場上、「隠岐路さん」「黛先生」と呼び、呼ばれているのだが、学園外では「公紲くん」と呼んでいるし、彼も同様だ。ずいぶん、大きくなったと思う。今や無告よりも背が高い。心のなかでは正直、安心している。この学園内では「ひとりではない」。だがひとりぼっちではないからといって、辛くないというわけでもないだろう。人は人、自分は自分、という考え方があるのなら。
 彼がいたから、せめて差し出した手を掴むならば決して離さないと誓えたのだ。こんな、名実ともに――生臭坊主の、自分でも。
 ホームルームのチャイムが鳴る。
 ついで、無告は少し早いが教科書とチョークを持って席を立った。

 窓辺にたたずむ。
 やわらかい風が吹く。通学路に植えられた街路樹を見渡せた。あれはなんだったか。イチョウだったような気がする。黄金色に染まる季節が楽しみでもあった。
 あとは――なんだったか。図書館に行けば、植物事典にでも載っているだろうか。
 予鈴が鳴り、窓を閉めて教室に向かった。

「自己喪失の意識というものがあります」
 哲学は自分の外の物事を対象としているが、自分自身を意識してしまうと、自分自身の根底にある限界状況が自覚されるようになる。
 本当に、人間とはままならないものだ。
「限界状況とは――教科書の三十ページを開いてください。人間が置かれている状況の中には、死や苦悩、戦い、罪責、偶然のように変化させることができない状況が存在する。この状況のことを限界状況といいます」
 チョークで白い粉を散らせながら、黒板に書く。ちらちらと教室内のわずかな埃に反射して輝いて見えた。それも、ただの視界の幻だ。
……これは自分自身の中でごまかしてしまいがちですが、ごまかさずに今、ここで、なにをすべきか。現実を素直に受け止めて、良心に基づいて決断し、現実の中で真剣に生きること。ぜひみなさん、考えてみてください」
 この教科書のように生きられたらどんなによいだろうか。そう思う自分もいる。胸中でため息をついて、チョークを置いた。
 時間だ。
 皆それぞれ、いろいろな顔があるのだから、当たり前だろう。お手本のように生きる人もいる。強く生きようとする人もいる。逆に悲しみやつらさに閉じこもって耳を、目を塞いで生きていく人もいる。
 ――無告はそういうひとびとを、決して否定しない。それくらいしか、できないからだ。

 昼休みに入ると、図書館に忍び込んだ。非常勤講師ではあるが、堂々と図書館に出入りはできない。してもいいのだろうけれど、「気持ち」の問題だ。
 ふとよく見る黒髪を頭の高いところで結い上げている生徒がいた。
 熱心に本棚にはめ込まれている背表紙を見ているようだった。
 名前を、薬袋小太郎という。
 邪魔にならないようにそっと後ろを通って、植物事典を見つける。すでにどこになんの本があるかは、頭の中に叩き込んでいる。新刊が入れば覚える、読まれなくなってなくなった本は司書に尋ねてみる、を、くり返しているので当たり前か。
 植物事典はあまり読まれていないのか、表紙も背表紙もきれいなものだった。本棚の影に立って、街路樹によく使われる樹のページを見下ろす。
「ああ、鈴懸すずかけの木……
 ぽつりとつぶやいてしまったが、聞いたものは誰もいなかった、ように見えたが、棚の横からしっぽのような髪の毛が見えた。
 通りかかったのだろうか。おそらく先ほどの彼だ。
 小太郎も無告をみとめたのか、一度頭をちいさく下げた。無告も頭を会釈をしてそっと笑う。
 脇に本を抱えて、彼は貸し出し口に行ったようだった。
 鈴懸の木は明治以降に日本に入ってきた、比較的新しい木らしい。新しい知識を得ると、心地がよかった。
 無告は辞典を本棚に戻し、そっと図書館から出た。

 陽が落ちると袈裟に着替え、公園の入口に立った。ふと“におう”それは、どこかで嗅いだことがある。
……
 ここで、左目の視界を奪われた。
 当時自分が未熟であったことを思うと、胸が後悔でキリキリとした痛みを覚える。もう少し自分が強ければ、と。
 強い。
 強さとは何なのだろう。
 自分以外を傷つける力なのか。そうであるならば、あまり好きではない。だがそうでなければ、守れない。自分自身さえ守れずに誰を守れるというのだろう。
 ひとり、失望したり絶望したりしてもなにも変わらない。
 進まなければならない。確実に、進み続けなければならない。たとえ足が傷ついて砕けても。
 ひとり、守れなかった生徒がいる。
 彼のことを思うと、喉を潰されるような感覚に陥る。どれほど苦しく、辛く、悲しかったろう。
 救えずに。
 なにひとつ、救えずにいる。
 この手はあまりにもちいさく、あまりにも無力であった。
 それでも、と思えるのならまだいい。
 まだましだ。
「私はここで生きねばなりません。あなたの分も。だからいずれ、お会いしましょう」
 七億不思議に堕ちた生徒に告げる。
 宣誓するように。
 誰も聞いていない、誰も見ていない夜であった。
 空は寒々しく星が輝いていた。枝の梢が真っ黒く、無告の視界を遮った。そっと目を閉じる。風の音が聞こえた。

「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い……。ああ、確かに、そのとおりだ」