適当に髪で留めていた簪が畳の上に落ちる。少しずつ、古くなっていくのは仕方のないことだろう。もう、あれから五十年近くたったのだから。
古ぼけた石の玉は光を失いつつある。
「……」
それでいい。
それで。
この三本の簪も、いつか砂みたいに手の隙間からこぼれてしまう日がくるのだろう。桂木は左手のなかの一本の簪を見下ろした。
――桂木。俺はね、壊れていく姿が見たいんだ。苦しむ姿が見たいんだ。だから刃佩流になったんだよ。外道だって?知ってるよ、そんなこと。
まるで愛らしい秘密を告白するように、男は言った。
――だからね。俺は地獄行きが決まってるんだよ。地獄ってのがあるならの話だけどね。
長い髪の毛を適当にまとめ、三本の簪で適当に留めた男は笑ってみせた。それこそ、狂人のそれだろう。桂木はなにも言わなかった。「そうか」と、肯定のような、ただの相づちのようなそれを打っただけで。
ある日のこと。
気が狂った刀神の破壊命令がくだったのはいつだったか。その時、確か雨が降っていたと思う。
その刀神はこの周辺を焼き尽くして、古い公園の前に立っていた。まるで誰かを待っているような。そんな光景だった。当時の桂木のバディは目を輝かせた。その、人間みたいな姿を見て。
こいつも気が狂っているのか。と、桂木は思った。
「ちゃんと殺してやらないと。これ以上神、って名乗るものじゃないだろう」
と、囁くように呟いた。
それもそうか、とも思った。そんな自分も、気でもおかしくなっているのだろうか。分からないしどうでもいいけれど。
刀神の名を呼ぶと、嬉しそうな顔でこちらを見た。男が目を見開いた直後、その足もとから火柱が上がった。
「おっと。はは。すげぇ、殺気もなんもしないねぇ」
「用心しろよ」
「桂木ィ。面白くないこと言うなよ。こいつ、何人も人間やってるんだぜ。だったら報復するのが筋ってもんだ。人間様の下克上ってやつよ」
男はずらりと脇差を抜いて、右手で構えた。桂木はそっとため息をついて、こちらを見つめている桂木よりも身長の低い刀神を見返す。目は濁っている。そんな気が狂うような出来事が、この刀神にはあったのだろうか。
――羨ましいことだ。
桂木の心は動かなかった。心なんてどこかにいってしまった、とでもいうかのように。
「心って、なんだっけ」
ふと考える。
「なんか言ったか、桂木」
「別に」
挨拶をするように返す。
刀神は桂木を指差した。刀遣いを通り過ぎて、雪魄桂木刀・伍号を指差したのだ。
「うらやましいな。ちょうだい」
くちびるを開くことなく、刀神はそう言った。まるで頭の中に直接問いかけられている感覚に、桂木の背筋が凍り付いた。
凍る、という言葉の意味を久しぶりに飲みこんだ。
「なに? 桂木をちょうだいっての? 残念だけど、コイツは俺のバディだよ」
何でもないように笑った男は、すぐに地面を蹴った。雨で溜まった水たまりの水が桂木の足袋に跳ね、汚した。
刀神はなんの表情もしていない。迫り来る死を、すべてを受け入れる、とでもいうかのように。
だが――。
ばしゃん、と音がした。
焼かれて枯れ、朽ち落ちた枝を踏んで転んだ子どもの姿が、刀神の背後にあった。刀神はぐるりと首をかたむけ、後ろを向く。
このあたり一帯、全て封鎖したと思ったのだが。
ちっ、と桂木は舌打ちをした。ここからの距離であれば、異能で刀神の視線を外せるかもしれない。
氷を生成し、軽く投げる。刀神の肩に鋭利な氷が埋め込まれた。
だが、痛みに戦くことはなかった。ただ男が持った雪魄桂木刀・伍号の刃が刀神の腹に埋まった。くの字に刀神の体が曲り、地面にあおむけに倒れる。水しぶきをあげて倒れた体は微動だにしない。
子どもは泣きそうに顔をゆがめている。
「さっさと行け!」
男は珍しく焦ったように子どもに叫んだ。桂木には、それが男なのか女なのか分からない。今はどうでもいいことだろう。それは顔をくしゃくしゃにしながら、走っていった。
「どうなってんだ、聞いてねぇぞ!」
「……坊?」
今まで聞いたことがないような様子の男に、そっと近づく。
「おっと、近づくな。桂木」
背中に目でもあるようだな、と思った直後、男は片手で三本の簪を引き抜いた。ばらりと長ったらしい髪の毛が背中を覆う。
「それ、持っててくれよ。なくすなよ」
なかば諦めた様子だった。
なにを、と言おうとした直後、男は桂木に振り返る。
恐怖を感じるているような、愛玩動物を見るような目をしていた。
そして男は三本の簪を桂木に投げてよこした。桂木は片手でそれを器用に受け取り、「お前」と言った。
「お前はいい人形だったよ」
桂木が言おうとした言葉に被せて、男は言い放った。
「抜け。柄を離せ」
「これは時限爆弾みたいなやつだ。刀を抜いた直後、燃える。はは、こいつ、笑ってやがる」
桂木が立っている場所では顔が見えない。が、男がそう言うのだから笑っているのだろう。だらりと脱力している刀神の足は、ぴくりとも動かない。
「本当にいい人形だった。刃佩流に属する刀神ってくせあるだろ。お前はなんにもなかったもんな。最初から」
「それは悪口か?」
「そうかもな。俺にとっては都合の良い刀神だった」
「どうするんだ」
「仕方ないから、お前だけでも生かすよ」
「……お前も、」
お前も結局、俺を生かすんだな。
桂木はそぞろに、思った。
もう、刀神は生まれない。今の技術では。口伝は絶えたのだ。だから生きて返すのは確かに、道理なのかもしれない。
「さよならだ。雪魄桂木刀」
男は、刀神の体に埋まった刀身を引き抜いた。
火が。
目が眩むような火の色に、桂木は呆然とした。氷を投げようにも、今日一回目の任務からの直行だったため、生気はもうほとんどない。
男が一瞬の隙をぬって妖刀を桂木の足もとに投げたから、無事だった。ひと筋の疵もない。綺麗なものだ。どれだけ妖刀というものは頑丈に出来ているのだろうか。
左手に持った三本の簪。
青い石はまるで宝玉のように輝いて見えた。
人間の髪の毛が、肉が焼けるにおい。
到底、雨だけでは消せないだろう。それほどの炎だ。
しとしとと暢気に降っている雨筋。
桂木はふと右肩に違和感を感じた。
「……」
ちいさく目を見開く。右肩から、鍾乳洞の中の鍾乳石のように、太い氷が突き出ていた。
思わず呻く。
――からだが、持って行かれる。
氷はあちこちに突き出て、公園内のブランコや鉄棒を飲みこみ、暴走しているようだった。
左手を燃えさかる炎に伸ばす。
なぁお前。こんな都合の悪いときにどうしてお前は死んだんだ。
いや、
逆か。
お前が死んだから、こんなザマなのだろう。
視界がざらつく。テレビという機械で見た、砂嵐のようだった。
「……、」
生気切れか。
園内ほとんどが氷漬けになっている公園を、半分になった視界で見つめた。
ああ。
俺も、あっけないものだ。
折れはしないと思うけれど。
最後の最後に、おかしなものを見せてしまったな、とだけ思った。
けれど刀神の姿も刀遣いの姿も、もう、ない。
皮膚の断片さえ遺さず、骨さえ遺らず、空気中に消えていったのだった。
だれも見ていないか。
それなら、それでいい。
雪魄桂木刀・伍号は、それから1年の間、眠りについた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.