いを
2023-08-18 18:32:22
3464文字
Public 刀神
 

曼荼羅の烏

蓮のこと。久遠のこと。
手合わせの話。
・灰さん、お名前だけ降藤さん【yasuinokikaku】
お借りしています。

 神田灰という人は、あくまで穏やかな刀遣いだと思っていた。
 対して玉匣蓮という男は決して穏やかではないし、神田灰のように実質・・参段の力を持っているわけではない。だからこそなのだろうか。蓮はなにかに勘づいたのは。なにかとは何なのか、蓮にも分からない。ただ、そういうにおい、というものを感じた。今は灰の顔はよく見えるし、嫌な気配というものはない。ただ、ことばにできない悲しみをほんの少し、伴っていたようだった。
「教官になったと聞きました」
 灰に蓮はそう言った。
「手合わせをお願いしたい」
 真っ正面からそう言った蓮に向かって、灰は少し目を丸くさせてから、「いいよ」と言ってくれた。教官という職務は忙しいと思っていたから、断られる予想をしていたがいい意味で裏切られた。
 道場に立ち入ると、他の刀遣いたちはいなかった。珍しいこともあるものだなと思い、そのまま更衣室に向かって道着に着替えた。灰は特に着替えないようだ。人によって動きやすい恰好、しっくりくる恰好、というものはあるのだろう。蓮の場合、手合わせに対する「スイッチ」というものがある。それが蓮にとって「道着に着替えること」だった。これから変わるかもしれないし、変わらずにずっと着替え続けていくことが必要になるのかもしれなかった。
道場に戻ると、灰はすみに坐っていた。静かだった。
……
 ふと、近くに黒い棒のような細長いものが立っていることに気づく。早乙女久遠だった。静かな夕暮れの空気に混ざり合うように立っていた。
「俺が審判をする」
 壱段が審判をするのか。そう吐き出しそうになった喉を絞めて、一度頷いた。
「早乙女くんには俺が頼んだんだよ。ちょうど、近くを通ったから」
「前、神田さんに審判を頼んだので。これくらいは」
 灰の木刀はすぐ隣に置かれていた。これこそが、標榜だ、とでもいうように。
 しんと静まりかえった道場は、耳鳴りがするくらいだった。つ、と呻いて蓮はこめかみに手を当てる。音がする。耳鳴りよりもひどい音が。灰の傍にいると、裁判所の傍聴席にいるようで緊張する。と、同時にそれを宥めてくれるような、そんな思いにもなる。どちらもまるで、正反対だ。
 灰と蓮は木刀をさげ、位置に着いた。
 道場の神聖な空気を吸って、吐く。伏せていた目を灰へ真っ直ぐに向ける。
「始め」
 久遠の声が蓮の耳を叩いた。灰のすり足の音が消える。音が――、遅れて手に鋭い痺れを感じた。木刀を鋭く打ちつけたのだ。それでも――おそらくだが全力ではない。蓮でも感じるのだから、久遠も見越しているだろう。
 灰の足を見る。
 足の筋肉の使い方。力の入り方、抜き方は、そこから上半身の動きに繋がり、そして腕の筋へと繋がっていく。凪鞘班にいた頃に教え込まれた事柄でもある。からだは、繋がっているのだから。
 灰は蓮の真向かいに立ち、木刀を振りかぶった。空気の音さえさせない。だが手加減している・・・・・・・と否が応でも思い知らされる。けれど伍段を突破した、というなけなしの誇りはある。守りだけでは、相手が妖魔だろうと人間だろうと勝てない。蓮は足を一歩踏み出し、灰の木刀を打ち据える。甲高い音が自分の呼吸音を消すほどに響く。
 灰の目を睨む、と言っていいほどに見上げる。だが灰の目の色は涼しい。あくまで冷静だった。まさに「参段以上」の目であることは間違いなかった。蓮はいつからか感じるようになっていた。人間の強さというものを。皮膚が粟立つような感覚。足が痺れ、からだが総毛立つ感覚は人間以外・・・・ではなくとも感じるようになったのは下緒院に異動してからだった。
 迫り合う木刀のブレも、灰にはない。以前言っていた、体幹が蓮とちがってしっかりとしているのだろう。
……ッ!」
 ひゅっと蓮の息をつく前に、灰が仕掛けてきた。手首だけを捻り、蓮が持つ木刀の腹を削り取る勢いで押してきたのだ。久遠と同じほどの握力。ぎっ、と歯を食いしばり押し返そうとするが、やはりびくともしない。どんな鍛え方をすればこんな腕力、握力になるんだ、と思うがそんな考え方をしている時点で「負け」だ。
 迫り来る灰の木刀の刃は眼前に来ている。死、というものが背筋を駆けて脳まで届く。こめかみから汗が滲み、顎まで到達し、道場の床に落ちた。
 けれども目の前の男は一切、汗がない。
 この。
 この男が。
 参段なわけがない。
 ぐるりと・・・・灰は手首を再び捻り、木刀の向きを急激に変えてきた。
 全く違う方角から力を入れられ、蓮は息を詰めた。ぐ、と歯と歯の間からうめき声が漏れる。
 手の感覚がなくなる直前、灰は木刀を引いた。思わず蓮は足を一歩引き、距離を取ろうとした蓮の懐に灰の頭があった。思わず目が見開く。思い出せ。妖魔との戦いを。夜伽噺卿・降藤の力強い言葉を。思い出せ。思い出せ。
 蓮は木刀を弾かれた恰好のまま、これ以上足を引かず踏み出した。灰の目が僅かに細められる。蓮の、だん、と床を踏み込む音が響き、迫る灰の木刀を防ごうとした――が、握力はすでに限界だったのか。木刀を握る手はもう動かなかった。
 ――せめて、木刀を落とさないように。
 そう灰に言った手前、落とすという無様な行為をしたくなかったのだ。
「止め」
 久遠の声が鋭利に響く。
 気づけば目の前にある木刀の刃はぴたりと止まっていた。
 蓮の顔からおおよそ10cm。ぎりぎりの位置で灰は腕の筋肉を使って軽く止めたのだ。そんな芸当参段ができるわけがない、というのが蓮の考えだった。機械ではない生身の左腕・・が、急停止したように止まっているのだから。
……、」
 蓮はここで初めて息をしたような思いになった。どっと汗が出て、今にも膝をつきそうだ。灰は木刀を収め、蓮を見ている。
……ありがとう、ございました」
「ありがとうございました」
 乱れた息のまま、同時に頭を下げる。灰は、息ひとつ上がっていなかったが。
 蓮は激しく咳き込み、じりじりとした腕の筋肉の痛みを感じながら背中を丸めた。久遠――壱段との戦いとはまた違う戦い方を、蓮は感じた。身に成った、といえばいいのだろうか。
「大丈夫? 玉匣くん」
――はい。大丈夫です。……神田さん」
「ん?」
「あんた、やっぱり参段じゃないだろ」
……
 灰はかすかに困ったようにあの笑顔を見せた。段位以上の強さを、蓮は確かに感じたのだ。勘、というものだろうか。頼りないものだが下緒院の勘は鋭いと蓮は思っている。自画自賛のような考えだが。
「前に煉魔で会ったとき、あんたの顔よく見えなかったんだ。なんとなく霞かかってるっていうか。そんな感じだったけど、今は少し晴れたみたいに見えている。……なにあったのか知らねぇけど、少し気になった。……なんで昇段試験受けないんだよ」
「寄子さんにも言われたな……
 灰はあの時より短くなった髪の頭を掻いて、困り顔。蓮はため息をついて「出過ぎたことを言いました」と息をついた。
「あ、いや、気にしないで。でもやっぱり分かるものなんだね」
……。今日はありがとうございました」
「うん。こちらこそ。なにか掴めたみたいだね」
「はい。なんとなく。まだ、雲を掴むような感じですけど」
 最初はこんなものだよ、と彼は言いたげな顔をしていた。そして黙り込んでいた久遠がそっとくちびるを開く。
「妖魔は神田さんのように待ってはくれない。言いたいことは分かるな」
「分かっている」
 灰が意思や善意、そして理性のある人間だからこそ、蓮は無傷だったのだ。――手合わせとは言え。
 ふー、と長いため息をついて濃い藍色の袴を見下ろす。すこしほこりっぽい。洗濯をしなければいけないだろう。ようやく、頭が冷えてきた。
……また、手合わせしてくれると嬉しいです。神田さん」
「うん。きみの成長、楽しみにしているよ」
「はい」
 一度頷き、もう一度灰に頭をさげる。今はとりあえず、シャワーを浴びたいくらいに体が熱い。頭は冴えているのだが。
「では、俺はこれで。失礼します」
 灰は笑み、「また」と手を軽く振った。
 
 更衣室に戻り、タオルを頭に被せ、思いっきりぐしゃぐしゃと拭った。汗がうなじに流れて気持ちが悪い。早々にシャワーを借りよう。着替えもあるし。
……まだまだだな、俺も。上には上がいるって、こういうことか」
 ぼそりとつぶやき、着替えが入ったロッカーの戸を閉めた。