八雲が甘党で、どれだけ食べてももたれない胃を持ってること、わたしは知っている。知っているからといって、別に誰かに言いふらしたりはしない。わたしよりも頑丈な胃を持っていることをわたしが知っていれば充分だ。
あいかわらず可愛げのない洋服を着て、せめて待ち合わせに遅れぬようにと腕時計を見る。そろそろ出てもいい時間かもしれないと玄関に立つ。
小夜子の家は洋館のような出で立ちで、淡い紫色の花をつける木が植えられている。いつ植えられているのかは知らない。興味もないが、梢が下ろした影で影踏みをすることが昔、好きだった。叔父と一緒にしたのを思い出す。
風で梢がゆらゆらと揺れ、なかなかうまく踏めなかったものだ。けれど叔父はうまく踏めていた。風の向きを知っていたのだと、思う。
こっそり家から飛び出して、約束の場所まで走る。このくらいの距離、別になんともない。
空は晴れ渡っている。薄い水色、雲は筆で刷いたように横に凪いでいる。
こつ、こつ、と低いヒールの音がディミヌエンドみたくちいさくなった。小夜子が走り出したのはずいぶん前のことのように思った。今だって、立ち止まることなんてしないけれど。
ガラの悪いシャツを着た男が屋根の軒下に立っていた。
小夜子は胸中で悪態をつく。先を越されてしまった。時計を見ればまだ約束の時間より15分も前だった。
丸いサングラスをかけたその男は、チラとこちらを見て腕を上げる。小夜子は足を速めて、男の前に立った。
「小夜子ちゃん。早かったね」
「あなたが早いの」
「ごめん……?」
言い聞かせるような、怒ったような声に男は頭を掻く。別に怒ってなんかいないけれど、口調が強いのはどうしても直せなかった。二十歳を過ぎても、こんなだ。
「じゃあ、行こうか」
この近くでアフタヌーンティーが有名なホテルがあるらしい。知名度の高いホテルだから、きっと上品に食べなくてはいけないのだろうと思ったが、男は「そんなお行儀よくしなくたっていいよ」と笑った。
小夜子は小夜子なりに行儀よくしようとは思っていたのだけれど、いや、今も思っているのだけれど――なんだか落ち着かない。
男は慣れているようだから余計に。
戌亥八雲は慣れたようにホテルのレストランに入っていった。小夜子は男のあとをおとなしく着いていって、予約席と書かれたプレートを下げたスタッフがつと捌けていった。
「……」
小夜子は黙って椅子を下げて座った。八雲は目の前に座って「紅茶は何がいい?」と尋ねてきた。
「紅茶。冷たいのがいい。走ってきたから」
「走ってきた? 家から?」
「そう」
真面目にそう答えてあげたのに、目の前の男はちょっと噴き出した始末だ。半目になると、「ごめんごめん」と含み笑いをしながらくちびるに指先をあてる。
細長い指だと思った。
――わたしのような、ごつごつとし始めた手とはすこし違う。
けれどそんな綺麗な手がわたしは好きなのだ。
八雲がスタッフを呼ぶまでも無く、テレビなんかでよく見るケーキスタンド、ティーカップやソーサーが置かれた。
「申し訳ありませんがアイスティーはご用意ができず」
とスタッフは言っていた。別に冷たい紅茶にこだわっていることもないので、所謂、普通の紅茶と呼ばれるものを用意された。
ホテルの中は寒いと感じるまでもないけれど、体は空調によって汗が引いていた。
「小夜子ちゃん、食べねぇの?」
「食べるけど」
ケーキスタンドをじっと見つめて、極めて甘そうなものを八雲に差し出した。きっと彼はこれくらいなら易々とお腹に収められるのだろうから、問題ないだろう。
「わたしこれくらいでいいわ」
お皿に置いたのはプレーンのスコーンを2個。あとは何杯かの紅茶があれば充分。
「あなたならこれくらい余裕で食べられるでしょ」
「まあね」
八雲は口を開いてケーキを着々と胃に収めていった。小夜子が紅茶を一杯飲んでいるうちに、みっつ平らげている。
小夜子にしてみれば驚異的なスピードだった。戦う時の身のこなしも素早ければ、食べる時も早いのか。新たな発見をして、スコーンをちぎって一口口に入れた。しっとりしている分、重たい。こういうものなのだろうか。スコーンなんていう上品なものはあまり食べてこなかったから分からない。
「わたし覚えているわ」
紅茶で喉に詰まりそうになっているスコーンを無理やり流し込んで、その琥珀色を見下ろした。
「あなた、わたしと初めて会ったとき、ガキって言ったわよね」
八雲の手の動きがピタリと止まった。サングラス越しの目はなんとなく、ばつが悪そうだった。
「二年前くらいだったかしら。でもね、わたしも大人になったわ。否応なしに大人になった」
「……そうだね」
「でも大人になってよかったって思えたのは、きっと八雲さんのおかげね」
大人になることはいいことでも悪いことでもあるのだろうというのは、小夜子の持論だった。お酒をやったり、煙草をやったりするだけが大人ではないのだ。
「髪の毛切ったの、子どもだったわたしとさよならのつもりだった」
今はうなじが見えるくらい、髪が短い。制服だって、もうない。
「食べたら?」
ぐいと今度は小さなケーキをお皿にのっけて、自分はティーカップを持った。
少しの間黙っていた八雲は、再びフォークをケーキに刺し入れる。その綺麗な指を見て、目を伏せた。
「ねえ、このあとごはん行きたい」
「夕飯のこと?」
「そう。今ね、すっごくしょっぱいお酒飲みたい」
口に合わないとかじゃないのだけれど、それを八雲も知ってのことだろう、さっきと同じように噴き出した。
「居酒屋でまた甘いの食べたらいいわよあなた」
こんな、お上品なとこでしずしず食べてるわたしなんて、わたしらしくないでしょう。
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