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いを
2023-07-12 18:10:40
1599文字
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刀神
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桃
鳴弦のこと。
・(ほんのり)葵衣さん【_f4b3c2】
お借りしています。
ごろんと足もとに何かが転がってきて、鳴弦は視線を落とした。
それは先ほどからよく見ていた、桃だった。
熟れて、やわらかくなった桃の
毳
けば
に、水滴がついている。雨に降られたのかもしれない。きっと、そうなのだろう。
雨粒は、毳を撫でると鳴弦の掌について、上から下に流れていった。
桃の毳は上手に撫でれば取れるだろうけれど、鳴弦は下手くそだったのでよく手で潰してしまっていた。
だれかが「捨てな」と言ったので、もったいないけれど畑の中に捨てたものだ。
そのだれかが全然思い出せなくて、きっと幼い頃の記憶なのだと思う。
このあたりに桃の木なんて、ないだろう。
くちびるを上げ、左の手を前に出した。
すいっと手の甲をくすぐる、式神の小さな魚。名などない。ただ、試しに生み出しただけの存在。ゆくあてなどないのだろう、だから鳴弦の腕に絡みついているのだ。
「お前は桃を知ってる?」
魚は悠々と泳いでいる。
鳴弦の言葉などしらずに。ただ。
「お前たちは海の生き物、桃は地上の植物」
海の生き物は地上の生物のことなんか知ったこっちゃないんだろう。桃だって、きっとそうだ。逆だって同じだ。
こんな風に戯れていることなんか、彼だって知ったことではない。
流れるシャワーの湯が、足の指の間をくすぐる。
道場で手合わせをして、そのほてった熱を逃すためのぬるま湯は心地がいい。
ちらちらと左手からうしなわれつつあるその式は、ぬるま湯に溶けるように消えていった。
左側だけ長い髪の毛をうしろに撫でつけて、鳴弦はシャワーのコックを捻った。とたんに消えた水温に、もの淋しさを覚えながら、体を拭く。
寒い。寒くはない。矛盾を抱えて服に袖を通す。ぶかぶかのコートを羽織って、シャワールームを出た。
そういえばお前は桃の色のような髪色をしているな。
どうしてかお前を見ていると懐かしい思いになるのは桃の色だからだろうか。
お前は俺と手合わせをしてくれたあと、何故か
白南風
しらはえ
みたいな、すこし湿った風を思い起こすんだ。
寒くて、それでも湿ってはいるから、そんなに冷たくはない。不思議な感覚を思う。
お前の片脚のことを気にすることがないほど俺は手合わせの時必死だから、木刀を叩き落とされることに少し安心するんだ。これは現実なのだ、って。
夢。
夢って言うのは、昔は神様のお告げだとか、そんなふうに考えていたらしい。今でも確か、科学的に証明できていないらしいから、そういったことも笑えない。下緒院に入っているからかもしれないけど。俺はよく鯨の夢を見る。前言ったとおりのこと。意味なんてないかもしれないし、鯨の夢ばかりでもないから、ただの笑い話だ。
美術館に行ったあとの日は、絵の夢を見ることだってある。現実を投影するっていうこともあるんだろう。
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウロ・ファン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアノ・デ・ラ・サンティッシマ・トリニダード・ルイス。ピカソの本名。俺、ちゃんと言えるんだ。言えたからってべつにどうということはないけど。これだけはちょっとした自慢。
ピカソの青の時代っていうやつ。俺、ずっとそうだったらどうしようと思うんだけど、そんな不幸でもないから、きっとそのうち消えるんだと思う。若い者の象徴なのかもしれないって。
お前はそういう時代あった?不安でどうしようもなくなる時期。でもお前は強いから、そういうの乗り越えたんだろうな。
俺みたいなやつとは違う。違うとは思うけど、中身は同じ人間だし、刀遣いだし。少しくらい、同じ部分があったらいいと思うよ。
バケツをひっくり返したような大きなプリンを前に、鳴弦はコーヒーゼリーをスプーンで掬う葵衣を見ていた。
今度は蜜豆でも食べようよと、言い乍ら。
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