冬野暉/Hikari Fuyuno
2021-03-21 15:44:58
2329文字
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鳩の心臓、獣の泪/断章 風の娘


 ……「輝ける夏の乙女よ、もはやあなたをつなぐ鎖はなく、あなたを閉じこめる檻はない。鉄の呪いは私が打ち砕いたのだから。さあ、母なる女神と四季の姉妹の方々の許へお帰りなさい」
 アガートラムの言葉に、夏の乙女は首を横に振りました。
「いいえ、勇敢にして心やさしきアガートラム。わたくしは天に帰ることはできません。なぜなら、わたくしの呪いは解けていないのです」
「なんということだ」
 未だにうるわしの乙女を苦しめるものがある事実に、アガートラムは声を上げました。
「どうすればその呪いを解いてさしあげることができるのか」
 アガートラムの問いかけに、夏の乙女はにっこりとほほ笑みました。
 頬をばら色に染め、青い花の色の瞳を輝かせ、それはそれは可憐な、恋を知った娘の顔でした。
「この呪いは永遠に解けることはないでしょう。人を愛する喜びで満たされたわたくしの魂は、もう二度と夏の風になって飛べないのだから」
 アガートラムは大いに驚きました。
 女神さまの娘である天の乙女は、人間の男に恋をすると心という魂の重しが生まれ、空を渡る風に戻れなくなってしまうのです。地上に堕ちた乙女は永遠の命を失い、人の子と同じように朽ち果てる罰を受ける掟でした。
「私があなたの翅をもいでしまったのか」
 苦悩するアガートラムに、夏の乙女は言いました。
「いいえ、愛しいお方。わたくしはあなたに奪われたのではなく、この世でふたつとない宝物を与えていただいたのです。どうかこの身が朽ちるときまで、おそばにいさせてください」
「女神さま、どうぞ罪深い盗人をお許しください!」
 アガートラムは天に向かって許しを乞い、ひしと金色の乙女を抱きしめました。
 このうつくしいひとを前にして、どうして偽りを申すことができましょう。かれの魂もまた、愛という喜びに満ち溢れてしまっているのですから。
 アガートラムは騎士のように跪くと、天からこぼれ落ちてしまった姫君の御手に恭しく接吻をしました。
「慈悲深き夏の乙女よ。願わくはこの地に根を下ろし、私の傍らで花となって咲いてはくれまいか。いつか散るさだめでも、愛という種はやがて実を結び、末永く栄えることだろう」
 夏の乙女は、まさしく咲き綻ぶ花のような笑みを浮かべて頷きました。
「どうぞお立ちになって、背の君。このままでは誓いの口づけを交わせないわ」
 アガートラムは初々しい少年のように頬を赤らめ、「困ったおひとだ」と呟くと、奥方の望むままに珊瑚色のくちびるにそっと顔を寄せました。

「『こうしてふたりは晴れて夫婦となり、子宝にも恵まれ、生涯を終えるそのときまで仲睦まじく過ごしたそうです。』……めでたしめでたし」
 父親がぱたんと絵本を閉じると、広い膝の上に座った幼子が声を上げた。
「父さま。このお話に出てくる『黄金の宿木』って、あの紋章のことですか?」
 ちいさな指先は、暖炉の上に掲げられたタペストリーに向けられていた。
 深緑の地に輝かしい金色で縫い取られているのは、ひと振りの宿木の枝だ。
「ああ、そうだとも」
 癖の強い栗毛を撫で、父親は頷いた。
「わがバルノァ家が受け継いできた、勇ましき〈銀の隻腕アガートラム〉の誇りだ」
「エコゥのご先祖さまは、妖精のお姫さまと結婚したのですか?」
 青い花の色の瞳をくるめかせて尋ねてくる娘に、父親は苦笑した。
「いいや。わが父祖の花嫁は、高潔なリヴェラの騎士たる貴婦人だったそうだよ。けれどアガートラムにとって、おそらく触れがたいほどに尊い姫君だったのさ」
 まるで英雄の胸の裡を見透かしたような口調だった。
 少女は、自分と同じ色の瞳がひどく遠くを見つめていることに息を呑んだ。
 彼女には母親がいなかった。産まれて間もない赤子だけを残して消えてしまった娘の噂は、少女の耳にも朧げに聞こえてきた。
 ――女神の娘コレェという名の、不思議な女。
 年若い父親は周囲から再婚を迫られても首を縦には振ろうとしなかった。優秀な跡継ぎの頑なな『わがまま』に、祖父や大叔父たちが手を焼いていることも知っていた。
 それでも少女が一族の間で邪険に扱われるどころか蝶よ花よと愛でられて育ったのは、身内に甘い家風と、男児ばかりがぽこぽこと生まれる中で久方ぶりに恵まれた姫という立場のおかげだ。少女の髪も目も、父親からアガートラムの血統を色濃く受け継いでおり、祖父ばかりか大叔父たちや父の従兄弟に至るまで「姫や姫や」とかまってくる。
 中には、「まだまだ母恋しい姫のために早く嫁御を貰ってやれ」とのたまう者もいた。しかし、父親はリヴェラの男らしい意地の強さをいまでも貫いている。
 きっと父親の魂は、いなくなってしまった妻へ捧げた愛でいっぱいなのだ。それを嬉しくも切なくも感じ、少女は父親の首にかじりついた。
「どうしたんだい、私のおちびちゃんル・メイ?」
 くすぐったそうに喉を鳴らし、絵本を置いた父親は娘の体を抱え直した。
 骨張った長い指が髪を梳く感触に瞼を下ろし、少女はささやいた。
「エコゥは父さまが大好きです。アガートラムと約束した夏の乙女みたいに、ずっと父さまのそばにおりますよ」
 栗色の頭を撫でていた手が止まった。
 父親は少女を抱く腕に力をこめ、まろく白い額に接吻を落とした。
「ありがとう。私のかわいい妖精姫メーア・ル・シルフィード
 けれど、と続く言葉は涙に濡れたように掠れていた。
「きっとおまえもいつか風に呼ばれてしまうだろう。だっておまえは――

 天から響く風の音を、先人は女神の歌声エコゥと呼んだ。
 母親が残した名は、いずれ目覚める娘の宿命を予言する。