冬野暉/Hikari Fuyuno
2021-03-21 15:28:05
6748文字
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鳩の心臓、獣の泪/序章

『テルミア・ストーリーズ+』参加(したい)作品
ウェトシー王国建国の『父』フレイ・エウナシタスの半生

 わたしは左胸に鳩の心臓を飼っている。
 長らくそのことを知るひとは、十二のころに死んだ母だけだった。

 臆病で脆い、たやすく縊り殺せてしまえる鳩のようなわたしの心を、彼女は静かな愛でそっと覆い隠してくれた。
 大叔父から厳しく剣の稽古をつけられたあと、火が点いたような眼窩の痛みを堪えながら母の部屋まで走ったものだ。夕陽の影にふちどられた窓辺だけが幼いわたしの慰めだった。
 わたしの故郷はレーテス海沿岸地方の最北、雪白の峰が連なる大山脈を望む土地にあった。
 かつて北方の雄・エスラディア帝国の統治下にあり、〈青髭公〉が悪名をとどろかせた要塞都市リヴェラ。蜂起した民衆を率いて暴君を討ち、新たな領主となった隻腕の英雄が掲げた旗にちなみ、いまでは〈黄金の宿木の砦〉と謳われる武の都。
 母は、リヴェラを治めるバルノァ候家の総領筋に生まれた娘だった。
 英雄と同じ豊かな栗毛と、かれが愛した姫君譲りの青い花の色の瞳、北方の女らしい乳白色の膚をした、童女の無垢と老婆の思慮深さを併せ持っていた。わずか十四で負け戦の質としてエスラディアの将に嫁ぎ、一族が血戦の果てに奪い返したという過去があった。
 祖父の手によって父が討ち取られたのち、祝福されない子どもとしてわたしは生まれ落ちた。
 フレイ輝く槍という、エスラディアで好まれる名前からして、一族の腫れ物として育つと決まっていたようなものだ。母はわが子にフロゥ光の輪と名づけるつもりでいたのだが、祖父が許さず、またバルノァの家名を名乗ることもよしとしなかった。ゆえにわたしは忌まわしきアデル・ドゥ・ロットーの息子、フレイ・ドゥ・ロットーだった。
 わたしにとって祖父はおそろしく、ひどく遠い存在だった。頭を撫でられたり、抱き上げられたりしたことなどなく、それどころか言葉すらまともにかけられた覚えもない。
 記憶に焼きついているのは、母と同じ色をした、しかし石のごとく冷えたまなざしだ。
 母が早くにわたしを産んだように、祖父も若くして娘を儲けていた。月日にくすんだ金髪を肩に流した精悍な美丈夫は、孫がいるにも関わらず縁談に事欠かなかったという。しかし祖父は生涯の妻をただひとりと定め、次代の当主にも従祖父のひとりを指名していた。
 亡き祖母や、その忘れ形見である母に注がれる愛情は、わたしには与えられないものだった。
 愛せるはずもなかっただろう。かつて母が敵に身を差し出したのは、捕虜となった祖父を救うためだった。死に物狂いで取り戻した愛娘の胎に仇敵の子が宿っていると――ほかならぬ娘自身が出産を望んでいると知ったとき、かれはどんなに絶望したのだろうか。
 祖父はわたしを存在しない者として扱った。代わりにわたしを躾けたのは、祖父の末弟だった。大叔父はいつも難しく顔をしかめながら、なんとかわたしをバルノァの男らしく仕立てようと奮闘していた。
 故郷を離れたいまならば、あれは大叔父なりの不器用な気遣いだったのだと思える。だが当時のわたしにとって、泣いても小便を垂らしても許してもらえない剣の稽古の時間は、地獄のような苦痛にしか感じられなかった。
 潰れた肉刺に覆われたてのひらは、焼けた鉄を押しつけられたようだった。自分の吐瀉物にまみれて昏倒したこともある。大叔父は稽古という名目で自分をいたぶり殺そうとしているに違いないと幾度思っただろう。
「立て。剣を取れ、フレイ」
 朦朧とする意識にこびりついた、火花を散らすような声音を憶えている。
 大叔父は長兄である祖父によく似ていたが、その青いは炯々と光る炎そのものだった。一族でたったひとり、まっすぐにわたしの名を呼ぶひとだった。
 ひゅうひゅうと隙間風のような音を鳴らすわたしの喉元に樫の木剣を突きつけ、かれは何度もくり返した。
「冬の嵐にも負けぬ雪鷹オーヴォのようになれ。バルノァの名に恥じぬもののふとなり武勲を立てれば、きっと兄上もおまえを認めてくださるはずだ」
 ――その言葉を信じたことは、いちどもない。
 どれほど研鑽を積み、わたしよりも体格に恵まれた再従兄弟たちを打ち負かすようになっても。バルノァ候家の男子であれば当たり前のように持つ剣を、祖父はけしてわたしに与えなかった。
「おじい様を許してさしあげて、フィー」
 うなだれるわたしの手を取り、母は寂しげに言い聞かせた。彼女はいつもやさしくわたしをフィー春風と呼んだ。
「どうか憎まないでさしあげて。悪いのは、おじい様の思いを踏みにじった、この母なのだから」
「母さまは、どうしてぼくを産んだの?」
 わたしが尋ねるたび、母は困ったようにほほ笑んだ。
「父様と母様が、おまえに生まれてきてほしいと思ったからよ」
 母の細い指が耳にかかる髪を掬う。
 鴉のような黒い髪と灰紫色の瞳は父から受け継いだものだった。もしも母と同じ色彩であればと、鏡を見るたびに思わずにはいられなかった。
 長じるほど色濃くなる父の面影を、母はまぶしそうに見つめた。たった一年、夫婦として暮らし、父親の手によって殺された男を、ためらいもせず愛し続けていた。
「おまえの父様――アデルはやさしいひとだったわ。やさしすぎて弱いひとだった。アデルの左胸には、雪鷹の雛よりもか弱い鳩が棲んでいたの」
 母の語る生前の父は、周囲から吹きこまれた卑劣で残虐な男とは少しも重ならなかった。
 父方のロットー家は、遡れば旧エスラディア領の時代にリヴェラを統治していたティグレー南部辺境伯家に連なる系譜だった。父祖の地であるリヴェラの『奪還』――引いては零落した家門の再興は、代々の悲願であった。
 年若く当主の跡目を継いだ父は、謀略によってそれを成し遂げようとした。
 長年に渡って和議を持ちかけ、言葉巧みにバルノァ候家を交渉の場へ引きずり出した。和平のために敵陣へ赴いた曾祖父と祖父に、父は容赦なく刃を向けた。
 曾祖父の首とともに送りつけられたのは、祖父の身柄と引き替えに領地の一部の『返還』とバルノァ候家の姫の輿入れを要求する書状だった。
 怒り狂う大叔父たちを説き伏せ、母は自ら婚礼の衣裳を身に纏って砦をあとにした。誇り高き古の女騎士さながらに。
 リヴェラの至宝を汚した死神の使い魔、屍喰らいの大鴉。バルノァ候家において父の悪評はいくらでも掘り起こせたが、母はただのいちども父を呪詛する言葉を口にしたりしなかった。
「アデルは剣もいくさも嫌いだった。雪が降る夜の暖かな炉端で、夏の木洩れ日の下で、気に入りの詩集を読むことが好きなひとだった。見たこともないリヴェラではなくて、生まれ育った雪深い土地を愛していたわ。貧しい領地の開墾に取り組んで、領民たちの暮らしが少しでもよくなるようにいつも努力していた」
「それなのに、どうして父さまはひいおじいさまを殺したの?」
 母は一拍置いて、重い石を吐き出すように言った。
「かれはロットーのアデルだったから」
 吸いこまれそうなほど青い瞳に息を呑む。
 繊細な指先が頬をなぞる。わたしの輪郭に滲むだれかの影を追うように。
「アデルは『ロットーのアデル』として生きることを選んだの。ひいおじい様やおじい様がバルノァの名と誇りを継いだように。わたくしが、アデルの妻になろうと決めたように」
 ――わたくしのかわいい妖精姫メーア・ル・シルフィード
 子守唄を口ずさむように慕わしく、魔法の呪文を詠うように妖しい声がわたしを呼んだ。
「おまえの苦しみは母の罪。おまえの哀しみは父の咎。いくらでも憎みなさい。恨みなさい。でも、どうか忘れないで。――おまえを生んだことを、わたくしたちは悔いていない」
 母は淡く笑んで、わたしの頭を撫でた。
「アデルが選んだ生き方は、かれの小さな鳩をその手で絞め殺すようなものだった。最後まで弱いまま、あのひとは自分を全うしたわ」
 胸の裡に暗く冷たい影が広がった。わたしは両手を握りしめた。
 ならば、わたしは。フレイ・ドゥ・ロットー以外の何者にもなれないわたしは、どこへ行けばいい。
……ぼくはどうすればいいの?」
 母はくしゃりと表情を崩した。
 白樺の若木に似た両腕が広がって、カミツレの香りがする胸に抱き寄せられる。
「いつか、おまえも聞くでしょう。落とし子を呼ぶ風の声を」
「風の声?」
 ええ、と母は頷いた。頬ずりをされてくすぐったく首を竦めると、母の腕に力がこもった。
「いまのおまえより幼いころから、わたくしには聞こえていたわ。わたくしはずっと逃げてきた。聞こえないふりをしていたの。でも、アデルがいなくなって――きっともう逃げられない」
「母さま?」
 無性におそろしくなってしがみつくと、母はかすかに笑った。
「でもねフィー。わたくしは、わたくしが望んだ自分を生きることができた。バルノァのエカーチュア、ロットーのアデルの妻。それこそがわたくし」
 こつりと額を触れ合わせ、母が顔を覗きこんでくる。綻ぶような笑い顔は少女めいてすら見えた。
「どうか憶えていてね。おまえがどこへ行っても、何者になっても。母様と父様は、おまえを愛しているわ」
 わたしが十一を過ぎると、母は臥せりがちになった。
 けして病弱なひとではなかった。だが療養の甲斐もなく、短い夏が過ぎ行くように儚くなってしまった。
 ――母の亡骸が消えた晩、わたしは『声』を聞いた。
 そして、わたしに流るる血の宿命を知った。
 祖母から母へ、そしてわたしへと受け継がれた落とし子の呪いを。
 祖母は風読かざよみであった。
 天空の女神ミアの吐息たる『風』に感応し、見えぬものを視て聞こえぬものを聴く、不思議の力を持つ巫者。太古の世から伝えられてきた祈りの司。
 中でも、女神の依代となって託宣を受ける風読みは巫女姫シビュラと称し、至尊の存在とされた。妖精族シルヴァンの浮遊都市が雲上にあった神話の時代よりも昔、女神の代弁者たる巫女姫はテルミアの女王であったとも謂われている。
 妖精族が滅び去り、ヒト族ノーヴスの台頭によって大陸各地で都市国家群が勃興すると、巫女姫は表舞台から姿を消した。
 名もなき蒼生にまじり、歴史の大河を漂いながら二度と浮かばぬ水底へ沈むゆくはずだった。神話の時代の象徴たる巫女姫は、その権能を天上へお返ししたのだから。
 血脈は幾筋にも枝分かれし、ヒトの世に広く薄く溶けこんでいった。世代を重ねるごとに発現する異能は弱くなり、巫女姫の血は少しずつ淘汰されていった。
 ――祖母は、先祖返りとして生まれた異端の巫女姫だった。
 彼女がどこから来たのか、母も知らないままであったらしい。
 渡りの治療師としてリヴェラに流れ着き、曾祖母の病を癒したことで当主だった曾祖父の信を得て侯家の食客となった。やがて祖父と結ばれ、紆余曲折ありつつ正室として迎え入れられたのだが――
 コレェ女神の娘という名前どおりの凄絶な異能は、祖母の身を内側から喰らい尽くした。
 母を産んだ直後、祖母は息を引き取ると風に吹き散らされた霧のようにふっと・・・消えてしまったそうだ。祖母の着ていた寝衣だけが泣きじゃくる赤子の傍らに残されていた。
 失われたはずの巫女姫の異能は、徒人の身には毒にしかならない。祖母も母も、持って生まれた力に蝕まれて死んだのだ。
 そして、いずれはわたしも。
 全うすべき使命も持たず生まれた巫女姫など、世に混沌をもたらす異分子になりかねない。だからこそ『風』は呼ぶのだ――おまえの居場所は地上のどこにもないのだと。
 母の生は、糞ッ垂れな運命への抗いそのものだったのだ。己の在処はリヴェラであると。
 夜が明ける前にリヴェラを発つと決めた。
 母がバルノァのエカーチェアとして死んだように。この世界のどこかに、わたしがたどり着くべき場所があるはずだった。何者になったわたしの、死に場所が。
 灯が絶えたように暗い砦を脱け出すと、夜更けの城門で祖父が待ちかまえていた。
「行くのだな」
 驚きのあまり立ち尽くすわたしを、祖父はあいかわらず硬質なまなざしで見据えた。
 その美貌は青白く、死にゆく愛娘の枕辺で声を押し殺して慟哭する姿が幻だったかのように凍りついていた。
「どうしてここに……
「エコゥ……エカーチュアの最後の願いだ。おまえがリヴェラを去ろうとしたら、止めずに行かせてやってくれと」
 ゆらりと祖父が近づいてきた。腰に佩いていた長剣を外し、おもむろに差し出した。
「持っていきなさい」
 装飾らしい装飾など見当たらない、いかにも実戦向きの大ぶりな剣だった。鞘に巻かれた鞣し革は薄くなり、年代物らしい艶を纏っている。
 リヴェラでも腕利きの鍛冶師が鎚を振るい、初陣からともに戦場を駆けてきた祖父の愛剣。
「いまのおまえならば十二分に使いこなせるだろう。路銀代わりの餞別だ」
 ごくりと喉が鳴った。おそるおそる受け取った長剣は、ずっしりと重かった。
「ユーシスには、おまえを勘当したと言っておく」
「え……
 大叔父の名に困惑していると、祖父はわずかに目を細めた。
「あれは、乳飲み子のうちに息子を亡くしておる。以前からおまえを養子として引き取ると言って聞かないのだ」
「大叔父さまが――
「だが、そうなればいずれ気づくだろう。おまえが男でないことに」
 わたしは口を引き結んだ。
 フレイという男性名を与えられておきながら、わたしは男ではなかった。しかし、女でもなかった。
 両性具有――わたしの体は、男女双方の性質を有していた。
 生まれつき男性器と女性器を持ち、骨格は少年だが乳房が膨らみはじめ、母の死の直前に精通と初潮を迎えていた。
 この事実を知っているのは、わたし自身以外には母と祖父だけだった。
「やはり、エカーチュアは正しかったのだな」
 ぽつりと祖父は呟いた。
「おまえが生まれたとき、あの子はおまえを娘として育てたいと言った。おまえもいつか風に呼ばれるはずだからと。私がつけた名前を、けして口にしなかった」
「どうしておじいさまは、お許しにならなかったのですか」
 両手で長剣を抱きしめて問いかけると、祖父はゆっくり瞬いた。
 青い瞳がかすかな光を宿し、はじめてわたしを映した気がした。
「ぼくが女だったら……おじいさまは、ぼくを認めてくださいましたか?」
 縋るような気持ちで尋ねると、祖父はぴくりと眉を動かした。
 険しい視線に射抜かれ、言葉を失う。泣きそうになって下を向くと、祖父は苦々しく吐き捨てた。
「おまえに、私の思いなどわかるまい。妻にと乞うた女も、ようやく取り戻した娘も、生まれたばかりの孫すら奪われると知らされた男の無力さなど」
 祖父の声は鉛のごとく肚の底に沈んだ。
 フレイと呼ばれ、わたしは宣告を待つ死刑囚の気持ちで顔を上げた。
 夜明けの空のように燃える瞳が、わたしを見つめていた。
「フレイ・エウナシタス。リヴェラを出たら、そう名乗るがいい」
「それは――
「コレェの、おまえの祖母の家名だ。エカーチュア亡きいま、おまえにしか継げぬ」
 何を思い、祖父は最愛の妻の形見をわたしに託したのか。
 幾年月経てなお、推し量ることは難しい。だがこのとき、わたしは確かに満たされていた。
 フレイ・エウナシタス。その響きはがらんどうの胸腔を揺さぶり、小鳩のような心臓を打ち震わせた。
「ありがとうございます」
 万感をこめて礼を述べると、祖父は口元をたわめた。微笑とも言えぬあえかな表情だった。
「私はただ、籠に捕らえていた夏告げ鳥を野に放っただけだ。……あとは、おまえの好きなところへ飛んでいけ」
 それ以上の言葉などない決別だった。
 わたしは深く一礼し、長剣をしっかりと背に括りつけた。
 城門には待機しているはずの番兵の姿が見当たらなかった。だれにも見咎められずにここまで来られたのは祖父のおかげなのだと、泣きたくなるような心地で思い知った。
 祖父の横を通り過ぎようとしたとき、泥濘にはまりこんだかのごとく足が重くなった。何度も何度も振り向きそうになりながら、奥歯を噛みしめて進んだ。
 城門を抜けると、満天の星空に頭から吸いこまれそうになった。
 眩暈がするほどの、降り注ぐような星ぼしの光。涙が凍るほどに美しいリヴェラの夜だ。
 この空を憶えていようと思った。
 どこへ流れて、どこで斃れても。いつかわたしが還る場所として、魂の墓標として。
 けして忘れず生きていこう。

 そして、わたしは故郷を失った。