わからん
2022-07-08 17:57:17
4384文字
Public 五夏
 

【五夏】ステイ

五に添い寝してもらう夏の五夏 以前投稿した「そして優しい雨が降る」(https://privatter.net/p/9001222)を踏まえた五夏のため、先にそちらを読んだほうが分かりやすいと思います

 私はきみの左の目蓋に触れた。
 赤く腫れて痛々しかった。冷やそうと言ったが、見た目ほどの熱を持ってはいないことに、触れて気が付いた。きわめて平均的な体温——他人の、それも滅多に触れない部位で、そうした表現が適切かは、果たしてわかりかねた。私は空いた左手で自らの目蓋に指先を押し当てる。私と大して変わらない温かさである気がした。しかし、目を閉じる直前に見た白目はくっきりと充血していたし、泣きすぎて痛いと悟は言っていた。
 滑らかな感触と微かな弾力があった。
 月明かりを頼りに目を凝らすと血管すら透けて見えた。
 薄くて白いこの皮膚の下に、青い輝きを放つ、特異なきみの瞳が隠れている。
「冷たくなるよ」
 ん、と悟が喉を鳴らした。腕にかけていた濡れタオルで両目を覆うと、悟は両端を押さえながら上向いていた頭を正面に戻す。
「氷に変えようか」
「いい。充分」
 どんどん下を向き、膝の上に両肘をつくと俯いた。何気ない仕草だったが拒絶されているように感じた。話しかけるな近付くなと、硬くて透明な殻の中に、閉じ籠もっているような。その受け取り方は私の主観に過ぎず、悟にとっては本当に意味の無い行為だったのかもしれない。実際の所はどちらでもいい、拒まれていると考えたのが重要だった。裏返すと、私がそう捉えるに値する後ろめたさを抱えている証であり、相手を拒絶したいのは彼ではなく私のほう、ということだ。何が殻の中だ。一瞬でも悟のせいにしようとした、自らの浅はかさを嫌悪する。私は悟が腰掛けるベッドから離れると、リビングのドアにもたれ、夜風に揺れるカーテンを見つめた。
 暑さの厳しい夏とはいえ、夜になれば多少は涼しかった。しかし湿気はどうにもならない。全身をぬるく包み、まとわりつくような不快感。汗を流すまでには至らないが、表皮を冷やす何かを、体が欲している。だがそこから動く気にはなれず、そもそも足音を立てることが憚られ、私はその欲求を無視することに努めた。
 体感で数分が経過した頃、悟がタオルを目から外した。暗がりの中で開かれた青い目。数歩分離れた距離で、不自然な膨らみや充血は判別できない。
「もういいの」
「うん」
 そうと答えて私は動かなかった。悟の顔を見つめていた。彼の瞳が怪訝そうに細められる。
……なに」
「帰る?」
 今度は悟が私を見つめたまま沈黙した。手の中でタオルをくしゃくしゃに丸め、膝の間で浮かせていた。表情と一切の機微を削ぎ落とした顔からは何も読み取れない。それは私も同じであるはずだった。不毛な探り合いを互いに仕掛け、繰り返し、次第に行き場の無い失望が胸中を過ぎる。私たちは薄闇の中で本音を隠し合っていた。闇の中に上手に紛れさせることができると思い込んでいた。しかし、それは全くの逆だった——隠そうと足掻けば足掻くほど、綻びが生じていた。
「帰るけど」ぞんざいな口調で悟が言い、腰を上げた。「これ、貸してくれてありがと」
 放物線を描いて飛んできたタオルを片手で受け取る。視界の端に悟の足が映った。
「どけよ」
 立ち塞がっていたのは私のほうだった。彼の言う通りに動こうとして、それすらも億劫なことを自覚してしまった。足が鉛のように重い。背後のドアに寄りかかっていなければきっと崩れ落ちていた。体を支えていた一本の柱が、突然背中から引き抜かれたみたいに。それは正しく私の背骨かもしれない。真っ直ぐ立つことができなかった。悟を部屋に招き入れてから、私は何か大切なものを失って、それを埋め合わせる気力すらどこかへ追いやってしまった。
 一人になりたくなかった。
 私はまだ、きみを帰したくなかった。
「帰らなくていい」それがなぜなのか、理由を考えるより早く、私は口を開いていた。「こっちで寝なよ」
 返事は無かった。顔を上げれば、悟は私を見下ろしたまま唇を引き結んでいた。白く透き通っている悟の肌が、暗闇でもわかるほど、普段より一層白めいて見えた。

 暑かったから、窓は開けたままにしておくことにした。
 はじめに私が横になった。可能な限り壁際に身を寄せ、名前を呼ぶと悟がベッドの上に乗り上げてくる。片膝と両手をつき、動きが止まった。視線を感じる。無視して虚空を見つめている間にベッドが揺れ、寝転がった悟が私を正面から見つめた。
「枕、使っていいよ」
「要らない」
「頭が痛くなるだろ」
 必要ない、と悟は機械的な声色で繰り返した。長い睫毛で縁取られた目蓋を伏せ、膝を折り曲げて体を丸める。窮屈そうな体勢で、二人分の体重で軋むベッドの上では、実際そうだった。
「気を使わなくていい」
 彼は答えなかった。
「悟」
 膝に触れようとした、その手が途中で阻まれて息を呑む。私を映す悟の瞳は限界まで見開かれ、果ての見えない瞳孔の向こう側で群青色の深淵が広がっていた。瞬きもせずに私の挙動一つ一つを見逃さまいとしている。警戒心に満ちた動物のようだった。私は詰めていた息を吐くと、行き場をなくした手を頭の横に置く。
「嫌だったら帰りな」
 悟にひどいことをしている。
 最低だという自覚はあった。私は悟を試している。私に対する気持ちが本物なのか。本当に私が好きなのか。私に告げたあの言葉を、真っ直ぐな視線を、純粋無垢なきみを。疑うことで、試すことで、きみを一方的に傷付けることで、私は何を得ようとしているのか、確かめたいのか。きみは私をまだ私を好きでいてくれるのか。嫌いにならないのか。
 私は悟に嫌われたいのだろうか?
 悟は沈黙を決め込み、やがて目を閉じた。出て行く気配は無かった。私も彼に倣って目蓋を下ろす。半分開けた窓の外で、葉擦れの音が聞こえた。
「いやじゃなかった」微睡みに落ちかけた意識の隅で、悟の囁き声が鼓膜を震わせた。「いやじゃねえけど、いまのオマエに触られるのは、やだ。さっきまでぶっ倒れそうな顔色だったし、いまもひでえ顔してる。その状態で気を使われてもふざけんなって思うだろ普通。だから、オマエが心配で部屋に帰らねえことにしたの」
 ひどいって、どんな。
「知るか。自分で鏡見ろよ、めんどくせえ」
 乱暴な言葉とは裏腹に、悟の口調は静かで、穏やかだった。
「あのな傑。さっきのは例外だけど。俺は、オマエにされていやなことは、一個もねえよ」
「きみが私を好きだからか」
 無言が返ってきた。寝返りを打ったのか身動いだのか、衣擦れと微かな吐息が聞こえ、悟が近くにいることに、私はひどく安心した。
 夢を見た。海の中を泳いでいる。何に追われるわけでもなく、目的もなく、一心不乱に冷たい水をかき分けて泳ぎ続け、私はいつしか魚になっている。構わない。姿が何かに変化しようと、することに変わりはないのだ。暗くて寒い孤独の海を、真っ直ぐ進むことしか。
 何のために泳いでいるのだろう。
 どこへ行くために鰭と鱗を得て、ありもしない目的地を探し続けているのだろう。
 自問自答。放り投げられた問いは波に呑まれ、揉みくちゃに弄ばれて泡と散る。
 やがて私は果てに行き着いた。目に見えない壁に衝突し、全身がばらばらに砕け散る。水中に鱗の欠片が飛び散り、幽かな陽光を受けてきらきらと輝いていた。魚の身体はこんなにも脆いのかと考えていると、上空から飛び込んできた鳥に嘴で啄まれ、とどめとばかりに頭を食いちぎられた。
 鳥に食われた魚の私、いいや私の片鱗と呼ぶべきなのか、鱗の私は長い間海の中を漂い続けた。途中で細かく砕け、微細な破片と成り果てた末に、いつしか広大な海の一雫に成り代わっていた。久しぶりに太陽を見上げた私は、あまりの眩しさに目が眩み、やがてその暑さに耐え切れず、気体となって空を飛んだ。魚の私に噛み付いた鳥たちを優に見下ろすことができた。私は雨となって地上に降り注いだが、すると鳥を見上げる立場へ逆戻りする。それを耐え難い屈辱とした私は、周囲の雨水を集めると、鳥の姿を形作って木の枝から飛び立った。
 流浪の旅が始まった。いつ干からびてしまうのか、蝋の翼で空を飛んだイカロスのように、太陽の恐怖と戦いながら青の中を飛び続けた。魚であった時と同じように、目的地は無かった。手に入れた翼を失いたくはなかったし、消えたくなかった。どこまでも飛べると思い込んでいた、世界の果てまでも、飛べる気がしていた。
 何度目かの夜を越えて、私は人間の私を見つけた。悟の隣を歩いている。人間の私は鳥の私を見つけると、右手を掲げて留まるように促してきた。胸に落ちるものがあった。私が目指していた場所はここだった。悟の隣だ。どんな姿になろうと、どんな世界で、どんな結末が待ち受けていようと、結局私はきみの隣に居たいのだった。指に降り立った鳥の私は、渾身の力で頰に体当たりした。水の体は呆気なく弾け、私の右頬を濡らした。
 現実でも冷たい感触を覚えて目が覚める。悟の左手が私の頬を撫でていた。部屋の中は夜明け前の青い光で満ち始めていた。ある種神秘的な光景とは裏腹に、目の前の仏頂面があまりにも不釣り合いで、私は思わず吐息を零した。
「オマエさあ、ほんっとうに、なんなの」悟が私の目元を拭いながら呆れ混じりに呟いた。「泣いたり笑ったり。情緒不安定か。俺の優しさを返せ」
 右手を伸ばした途端、悟は慌てたように身を捩る。腕を伸ばし続けていると、とうとう折れて私が触れることを許した。無限に阻まれることは無かった。
「なあ、俺別に泣いてないけど」
「きみと一緒がいいよ」
「あ?」
「一緒がいい」
「だから何が」
「悟と私が」幾分かかさついていたが柔らかい。左の目尻を撫でながら呟いた。「私も、きみにされて嫌なことは、なにひとつなかった」
 似たもの同士だねと、寝起きの掠れた声で囁いた。きみは昨日の夜に私を傷付けて、今日は私がきみの心に傷を残した。血が溢れ出て止まらなかった、でも、嫌ではなかった。きみから与えられる痛みすら受け入れた。それがきみの言う、すきだからとか、そういうことが理由なのかは、わからない。わからないけど、鋭い切っ先が心臓の奥深くに食い込んで、しばらくの間は痛み続けるだろうから、似たもの同士、傷でも舐め合おうか。汚いとか痛いとか、きみは気にしないだろ。
 悟は黙り込んだ。目尻から耳、首筋、髪の毛と順に触れても何も言い出さない。私の発言をうまく処理できずに固まっていた。今なら拒まれないと踏んだ私は、悟の名前を呼びながら彼の頭を腕の中に抱き寄せる。そこまでしてようやく、停止していた思考を悟が取り戻した。腕を回して抱き返してきた。背骨をなぞり、私の形を確かめると、腹の上に鼻先を押し付ける。私たちは身を寄せ合ったまま、朝日が昇るのを待っていた。