わからん
2022-06-25 22:37:39
6742文字
Public 五夏
 

【五夏】そして優しい雨が降る

昨晩なにかあったタイプの五夏

   ■左目

 目が覚めると、左目から涙が流れていた。
 両手をつき頭を上げる、と睫毛を伝い、シーツの上に丸い雫が落ちた。瞬きを繰り返すたびに透明な染みの数が増えていく。ふたつ、みっつと数え、左側の視界が変に歪んでいる。手の甲で擦ってようやく、自分が泣いているという結論に思い至った。
 はあ、なんで。疑問をそのまま声に出した。なにこれ。そう呟く間にも涙はどんどん溢れ出てくる。止めようとしたが、そもそも涙腺を堰き止める方法とは? 生理的な反応に対抗する手段は無く、諦めてそのまま支度を始めることにした。
 制服に袖を通す頃には涙が止まっていた。そういえば止まったな、と頰を触ると、濡れていた皮膚はすっかり乾いている。止まれと念じるほど止まらなかったのに、いざその時が来ると呆気ない。そういえば俺はいつから泣いていたのだろうか。起きた瞬間、ではなかったように思う。昨晩、傑が部屋に帰って眠りについた後。寝ている間。どこかのタイミング。そして俺が起きてから、朝の支度を終えるまで。まあ、止まったなら、いいや。変な朝だったな。とっとと部屋を出よう、傑が待っている。

   ■目蓋

「おっせー。おはよ」
 部屋を出たら悟が目の前に立ち塞がっていた。跳ねた心臓と、それに呼応して喉元から出かけた声を奥へと押し殺す。ひゅう、と空洞を空気の塊が高速で通り抜ける音。
「びっ……くりした」やっとの思いで絞り出した言葉を、悟は鼻で笑い飛ばした。
「オマエ驚いても目は細いままなんだな」背を向け、先に廊下を歩き出す。「行こ」
 私は鍵を掛け、悟の背中を追いかけた。彼と並び、サングラスの隙間から見える左目が薄い赤みを帯びていることに気付く。
「目、充血してる。大丈夫か」
「あー、これ」悟はサングラスを押し上げ、左目の目蓋を乱雑に撫でた。「なんか、今朝涙出て」
「泣いてたのか?」
「誰が泣くか。起きたらこっちの目だけ涙が出てきて、擦った」
 六眼の行使に問題は無い、と付け足された。なんだったんだろうなと聞かれても、本人に心当たりが無いなら無論私にわかるはずもない。言われれば、彼の目蓋が少し腫れぼったいように見える。左目だけ。
「大変だったね。けど私も似たようなものだったよ」
「え、なに。オマエこそ泣いたの」
「鼻血」まだ止まっていない気がする。鼻の奥から垂れてくるような錯覚を覚え、すん、と意図的に鼻から大きく息を吸った。「暑いせいかな。結構深くて、十分くらい止まらなかった」
「うげえ」
 それは何に対する感嘆詞なのだろう。共感なのだろうか。あるいは引かれているのか。悟のことだから、おそらく後者だろうとは思う。寝起きと同時に鼻血が出てきたせいで、着ていたシャツは殺人犯もかくやというひどい有様だった。湯で満たした桶に洗剤と共に突っ込んできたが、汚れが取れるか心配だ。加えて、今日は暑くなる予報だったから、また鼻血を出すかもしれないと懸念している。しかし、いくら不安に思ったところで、その時は潔く諦めるしかないだろう。
 悟と共に寮を後にする。早朝であるにも関わらず、蝉の大合唱が私たちを出迎える。

   ■鼻血

 傑が鼻血を出した。
 放課後、補助監督の車で移動している最中だ。取り留めのない会話で盛り上がっている時に突然、鼻周りを左手で覆うと、くぐもった声で鼻血と言った。ごめん、鼻血出た。補助監督がダッシュボードの収納スペースからティッシュ箱を探し出して傑に手渡した。傑が触れた箱の角に血が付いた。指の間や手の甲、果ては手首にまで鮮血が伝い落ちていて、相当深いところが切れたと思われる。鼻に詰めたティッシュも瞬く間に赤く染まり、傑は眉間に皺を寄せながら淡々と処理していた。
「オマエ大丈夫かよ」
「ただの鼻血だから」
「ひでえ鼻声」
 傑が薄っすらと笑った。照れ笑いだったのかもしれない。取り繕うような笑い方だった。人前で鼻血を出すのが恥ずかしい気持ちは俺にもわかる、必要以上に心配されると余計に羞恥心が高まることも。だから俺はそれ以上傑に声をかけなかったし、窓の方に顔を向けていた。
 補助監督が遠慮がちに大丈夫かと傑に声をかけた。「大丈夫です」俺は窓の外から車内に視線を戻した。「ちょうど止まったので。すみませんでした」
「殺人犯……」俺がそう呟いたのも無理はないだろう。制服が黒いのがせめてもの救いだった。鼻から下、手とか腕とかに、凝固した血液が貼り付いて一人だけ凄惨な現場に立ち会ったかのような見た目をしていた。俺の発言を拾った傑が腕で鼻と口を覆う。
「なにか拭くものありますか」
 俺が座っている席のドリンクホルダーにウェットティッシュが挟まっていた。傑はそれで血液を拭ったが、顔は当たりをつけて拭いているだけなので頰や口元の汚れが取れていない。バックミラーやサイドミラーを使えよと思ったが、俺は傑のほうに身を乗り出した。
「一枚ちょうだい」返事を聞くよりも早く傑の手から奪う。意図を察した傑が俺に顔を向けた。最初は優しく拭うつもりだったのだが、固まってしまった血液は厄介だった。強めに力を入れて擦ったが傑は何も言わない。大人しくされるがままだ。俺は血を拭いながら、視線を上げて傑の様子を伺った。いわゆる明後日の方向、俺から視線を外して俺の後ろ、窓の外を眺めている。首と顎の境目にも赤が見えた気がして、顎を掴んで上向かせた。傑の体が強張り、喉仏が上下する。顎を離すと傑が俺を見ていた。ポーカーフェイスと言うのだろうか、傑は真顔でいると、何を考えているかが本当にわからない。俺は口の端にティッシュを当てると、血を拭き取るふりをして親指の腹で傑の下唇をなぞった。少し乾燥しているけど柔らかい。僅かに開かれた隙間から白い歯と真っ赤な舌が見える。傑の呼気が俺の皮膚をくすぐった。
「終わったのか」
 ん、と答えて指を離した。傑は俺と目を合わせない。ありがとうと呟き正面に向き直る。俺も傑に倣ってシートに座り直した。沈黙が下りた。

   ■失言

 傑、と悟の叫び声が聞こえた。
 それが合図だった。建物の壁を破りながら標的の呪霊が吹き飛んでくる。同時に私の背後から出現した呪霊が唸りを上げ、長大な体をうねらせながら標的に突進した。突風と轟音。敵を捕らえ、牙を突き立てると一思いに噛み砕く。至近距離にいた私は、周囲に飛び散った血——果たして呪霊が肉と骨と血で構成されているかは疑問だが、人体と比較すれば血液に該当する黒い液体——をもろに被ってしまう。今日はついていない日だ。自室で洗剤に浸けたままのシャツの存在を思い出す。面倒だ。洗い物が増えた。私が使役した呪霊は久しぶりの食事に満足げな唸り声を上げると、領域へと戻っていった。
「派手にやったな」悟が私の隣に下りて言う。「血塗れじゃん」
「まったくだ。本当は呪霊も取り込む手筈だったんだけど。散々だな」
 腕で額を拭うと、黒色がべったりと貼り付いた。こめかみを伝うのは呪霊の体液なのか私の汗なのか。兎角、不快の一言に尽きた。私と違い、身綺麗な悟は携帯を出すと、補助監督と連絡を取り始めた。
 えー、と悟が不満げな声を上げる。なにか問題が発生したようだ。「帰り遅くなるじゃん。それならなんとかして自分たちで帰る。来なくていいよ。うん、代わりの迎えはいらない」じゃ、と告げて携帯を閉じる。
「補助監督が熱中症で倒れて、地元の人に救急車呼ばれたんだと」
「えっ、それは大変だな。大事ないといいけど」車内で鼻血を出した私を見て慌てふためいていた補助監督の姿が思い浮かぶ。
「今は病院で点滴打ってもらってるってさ。そういうわけで、どうやって帰ろうか傑クン」
 悟はにやにやと笑いながらそう言ったが、選択肢は一つしか残されていない。私の今の格好で公共の交通機関や、タクシーを使うわけにはいかなかった。周囲はすっかり日が落ちていたし、一般人に目撃される心配もないだろう。私は指を鳴らすと空を飛べる呪霊を呼び出した。
「は?」
「えっ。違うの」
「いや、呪力の無駄だし」悟が右手を差し出す。「ほら」
「断る」私は無視して呪霊の背に飛び乗った。「君と手を繋いで空を飛ぶとか無理」
 口にしてから言い過ぎたと思い当たった。
——はあ?」
 サングラスを外した悟の声が一段と低くなる。
「無理って、それどういう意味」
……言い過ぎた。君が思っているようなことじゃない」
「わけわっかんねえ」悟は声を荒げると地面を蹴って私から遠ざかった。「一人で帰る」
 悟、と私は声を張り上げた。彼の姿がどんどん小さくなり、宣言通り一人で夜空を突っ切っていく。私は悟の背中を追いかけた。

   ■夜空

 俺の数メートル後ろを傑がついてきている。背中に視線が突き刺さる。見られているのがわかっているから俺は背後を振り向けない。俺が振り返らないから、傑は無遠慮に俺の背中を見つめている。
 本当は、飛び上がってすぐに頭は冷えていた。俺が一方的にキレて、傑の言い分を聞く前に逃げ出してしまったのだ。傑の発言で俺は傷付いたから、言葉の選び方を間違えた傑は悪い。だが、傑と同じくらい、いや対話を拒絶した俺のほうが、傑よりもずっと悪い。傑は俺の背中を無言で見つめているけど、俺に声をかけるタイミングを探っているのだと思う。俺もそうだから。俺が傑を跳ね除けてしまったのだから、俺のほうから声をかけるべきだった。傑は俺との話し合いを望んでいる。かなり億劫、なにを言われるか怖い、少しだけビビっているが、俺はこっそり背後の様子を伺う。案の定、傑と目が合った。傑はすぐに目を逸らしたが、少しして俺に視線を戻した。俺は減速して傑の隣に並ぶ。傑を乗せた呪霊と顔の位置を合わせるようにして高度を下げ、傑を見上げた。
「どうして無理なの」
 必然的に傑は俺を見下ろした。一房だけ額に垂れた黒い前髪が風に靡いている。顔の至る所が呪霊の血で汚れていたが、傑は数時間前も鼻血を出していたわけで、顔面の汚れはもはや気にしていないようだった。
「無理っていうのは、本当に、言い過ぎた」傑は緊張すると瞬きが多くなる。肩が強張っていた。「悟に触れられるのが嫌ではないよ。単に、こうして帰りたい気分だったんだ」
「どうして?」
「気分だよ」傑は呪霊の背中を叩いた。「君だって、私と一緒に飛ぶとなると負担がかかるだろ」
「全然負担じゃねえし。それを言うなら、俺も傑と一緒に飛びたい気分だったんだけど」
「ごめん」
……俺も。ついかっとなった」
 うん、と傑は頷いて正面を見た。仲直りしたね、じゃあこの話は終わり——そういうことらしかった。俺は腑に落ちなかったが、傑はこの話をここで切り上げたいようだ。気まずかった。無言で飛び続け、その間俺は傑の横顔を眺めていた。傑は俺の視線に気付いていたはずだが、無視を決め込んだ。
 やっぱり嫌だったんじゃないだろうか。気分とか、そういう適当な言葉で有耶無耶にされたけど。夜風に晒された目が乾燥して瞬きを挟む、その瞬間に左頰を伝った雫の感触にぎょっとする。別に悲しいわけじゃない、少し反省をしていただけで。俯き目を閉じるが、やはり俺の意に反してどんどん溢れてくる。どうして左目だけなんだろう。よりにもよって傑の右側についてしまったし。俺は傑の頭上を鯨かイルカのようにぐるりと通過して、反対側に回る。眼下、足元に広がる夜景に、涙の粒が落ちて吸い込まれていく。誰かの頭や頰の上に落ちたなら、天気雨だと思われているんだろうか。そいつはきっと首を捻るはずだ、それにしてもしょっぱい味がするなあ。案外、鳥の小便だと思われたりしてな。それはそれで面白いと思う。見られないのが残念だ、きたねえと叫ばれる俺の涙。

   ■月光

 鯨が海中から水面上へ飛び上がることを、ブリーチまたはブリーチングと呼ぶらしい。それを行う理由は諸説あって、具体的な動機は判明していない。なぜ今それを思い出したかというと、私の頭上を通過した悟が、体操選手のように体を捻りながら反対側へ回るのを見て、なんとなく似ていると思ったからだ。悟の体は重力に従い落下するが、すぐに浮き上がり、足元の夜景を眺めながら私の左隣を飛んでいる。
 寮に着くまで必要最低限以上の会話は交わさなかった。お疲れさま、おやすみ。形式的な挨拶だけを言い合って別れる。報告書は明日提出することにした。部屋に着いて今朝汚したシャツと制服を洗い、シャワーを浴びると時刻はとっくに日付を跨いでいる。妙に目が冴えて眠れない。諦めて外を散策しようと部屋を出たら悟と鉢合わせた。私のドアの前で立ち尽くす姿に既視感を覚える。今日の朝と異なっているといえば部屋着であったこと、サングラスを外した左目から涙が出ているという点だった。
「え、悟。どうしたの君、大丈夫か」
「これは勝手に出てるだけだから平気。少し時間もらっていい?」悟の声は淡々としている。「俺さ、やっぱ駄目だったよな」
「なにが」
「昨日の」嫌だったんだろ、と彼は俯いた。「明らかに俺のこと避けてるし」
 そりゃあ避けてたよ、と私が言う前に悟が捲し立てた。
「だから、忘れよ。忘れてほしい。俺も忘れる。昨日さ、つらいからって頼んだけど、傑と一緒に居られないほうが、つらい」
「悟」
「昨日の俺ヘンだったし。傑も俺に合わせてくれてたんだろ。もう二度とああいうことは頼まないから。忘れて」
「悟。さとる。私の話を聞け」両手を掴んで引くと、悟はあっさりと私に従った。「君は勘違いをしている。嫌じゃなかった。でも、昨日の今日だと恥ずかしいだろ。近くに来られたり、触れられたりすると、昨日のことを思い出すから」
 導かれるままベッドに腰かけた悟の瞳は疑念に満ち、数時間前の私の行為によって傷付いている。
「嫌じゃなかった」
 私は悟を見下ろしながら同じ言葉を繰り返した。
「とりあえず目を冷やそう。充血が悪化してる」
「すき」
 冷蔵庫に向かいかけた私は足を止めた。
「傑が好き」悟が穏やかな口調で言う。「目蓋、冷やす前に、触ってほしい」
 ずっと泣いてばかりで痛い。溶け落ちてしまいそうだから。傑が触れてくれれば、ましになる気がする。
 振り返った先で悟は目蓋を閉じている。左目の隙間から透明な雫が零れ落ち、彼の白い輪郭をなぞって、膝の上に落ちた。
 ——どうしてって、うん。傑、すぐる。おれ、すぐるのことがすき。
 昨晩の、蓋をしていた出来事が、濁流のように私の意識を押し流す。
 いつものように話していたはずだった。深夜までゲームをして、馬鹿みたいに騒いで笑い合って、ただ一つ、隣で一緒に寝てほしいと言われた。たったそれだけだった。彼の一言で、私たちの関係に亀裂が入った。
 ——なあ、なんで。俺は傑が好きだって、言っただけじゃん。どうしてそんな顔すんの。オマエ、怖いよ。
 ——君は勘違いをしている。友愛と性愛を履き違えているんだ。私のような、親しい人を作るのが初めてで、混同しているんだね。
 ——知らねえよ。別にどっちでもよくね。好きだって、それだけで、いいだろ。
 私のことを好ましく思っていたのは知っていたが、まさかそんな、そういう感情を向けられているとは。頰に伸びてくる手を私は拒もうとした。拒めなかった。あまりに優しく、温かなそれを、拒絶するに値する理由など、私の心には存在しなかった。
 ——友達とか恋人とかさ、結局は同じじゃん。それを伝える手段や、求め方が違うだけで、土台は変わらない。こうしていても、オマエ全然嫌がらないし。説得力無いよ、その正論。
 ——どうして、こんなことが、したいんだ。
 ——傑のことがすきだから。
 顎を掴まれ、近付いてくる瞳を、愕然としたまま受け入れた。私はその時の左目の輝きを覚えている。月明かりに照らされていた彼の左半身、ぞっとするほど生白く、その中央で輝く青色が、声無き声で、私に対する思いを叫ぶのを。
 ——あのさ、なんで拒まなかったの。
 そんなの、私が聞きたかった。
 どうしよう悟。
 君にされて嫌なことなんて、何一つ、無いんだ。
「ねえ。傑」
 現実の悟が私の名前を呼ぶ。
 部屋の中に月光が差し込む。青白く浮かび上がった悟の姿は彫刻か人形のようで、彼の今し方の発言は幻聴だったのだろうか。しかし、悟はいつの間にか目を開け、こちらを見つめて微動だにせず、私は動けない。二人分の静かな呼吸が、夜の空気に溶けていく。