清春
2024-01-02 13:09:07
9920文字
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龍の静寂

学校の課題創作で書いたものだけど気に入ったから二章も書きたい

一章 竹藪の妖怪

「バカ弟子、今の動きはなんだ。罰として腕立て二百回」
 師匠の憎たらしいしゃがれた声によりオレは強制腕立て伏せを促された。そのしゃがれた声は昔と戦った際、喉を潰されてその後遺症が残っているとかなんとか。おかげで低い声は聴き取りづらく、そして声真似なんてできない特徴的な唯一無二のものだ。
 ―――街の外れにある森の中、今日も今日とて修行をするオレは師匠から一本も取れず不貞腐れている。否、一本も取れないのはまあいつものことだが、今回は「基礎がなってない」や「お前のそのぶれた重心はなんだ? 酔拳でもやっているつもりか? だとしてもこれはない」……など。しゃがれた声で喧しくまくし立てる。それが嫌になって、不貞腐れていた。
 師匠のぎゅうぎゅうに筋肉が詰まって引き締まった太い胴体、腕、脚を覆い隠すように着る、黒い長袍(チャンパオ)が風に靡くのを横目に、オレは投げやりに汗でへばりついた前髪を乱暴にかきあげる。汗の影響はここだけに留まらず、後頭部で雑にくくった尻尾のような髪が首の裏に引っ付いて気持ち悪い。だがこれは我慢して腕立て伏せの体勢をとった。
……あーうるさい! やればいいんだろ、やれば!」
「きちんと顎つけるんだぞ」
「わかってる!」
 苛立ちは鎮まらないまま腕立て伏せを始める。二百回くらいならすぐ終わるからさっさと終わらせた方がいい。
 まだ四十代半ばというのに老けて見えがちな師匠は、オレを親代わりに育ててくれた人でもある。流行病で呆気なく死んだ父親と母親の亡骸を前に泣いていたオレを引き取ってくれた恩人でもあるし、尊敬だってしている。
 ……でも。
「その調子ではいつまで経っても儂を負かすなんぞ、一生無理だな」
……くそっ」
 改善点の確認を兼ねて始めた組手ではダメ出ししかなく、そのせいで課せられた腕立て伏せをさくっと終え、攻防の型を鍛錬中。防御しきれず吹っ飛ばされていた。もはや地面に転がされた数えることをやめたオレは顔、袖なしに斜襟のついた服についた汚れを手のひらで叩き落とす。大して綺麗にもならないまま顎から滴り落ちる汗を雑に腕で拭った。
 発勁(はっけい)による力の発し方から差が歴然としている。師匠の分厚い筋肉ダルマな脚で行われる震脚は並大抵の人間じゃ先に足が壊れてしまいそうな威力で地を強く踏みしめ、骨盤に伝わるその反動を余すことなく上へ、つまり拳へと伝導。その発勁は凄まじく、師匠は岩をも砕くのだ。
 さすがにオレ相手に本気の発勁、震脚を浴びさせることはない。だが、その場から一歩も動くことなく、汗なんか一滴も流さず、オレに型の説明をしながら攻防をしてしまうところが本当に悔しくて仕方ない。こっちは息が上がっているし汗が全身から噴き出て、その滴が地面に落ちて、拭う度に腕を濡らしていく。
 転がされる度に悔しくてたまらないし、強くなりたい思いは変わらない。しかしこうも上手くいかないと面白くない。勝てない勝負はつまらないのだ。
 ……何より、今回は少し疲れた。
「やーめた。師匠、休憩」
「バカ野郎。次は別の型を……
「疲れたんだよ! 師匠は体力無尽蔵だからわかんないんだろうけど!」
「子どもと大人なら当然の差だ。騒げる元気があるなら立て」
「いーっだ! 師匠の馬鹿!」
「師匠に向かってなんだ、その口の聞き方は!」
「うるさい! 破門してやる!」
「それは儂から言うことであってお前の自己宣言するものでは」
 今までの不満が爆発するように声を荒げれば誤用を正そうとする師匠の言葉は聞き流し、背を向けて駆け出した。オレの名前を叫んでいるような気もするが、声が低すぎるあまりに聞き取れずにいた。聞き取れたとしても無視はするつもりだったから問題はない。
 修行場にしていた森林から飛び出し、町に駆け込むようにして入れば、見張り番をしている衛兵は茶化すように「また喧嘩したのか」と声がけるが、耳を傾けることなく横を通り過ぎる。風を切って走ることは気持ちいいのに、ムカムカした気持ちのせいでそんなことはこれっぽっちもない。
 露店が連なる通りを抜けて、今度は店舗を構える通りに出る。店舗と言っても雨を凌げる、簡単に風で吹き飛ばないなど最低限の安全を保証した造りで、雑にテーブルや椅子が置かれた飯館と呼ばれる食堂や都から流通してきたものを販売している店が数える程度あるだけ。千人もいないこの町は狭いが、オレからすれば広い世界だ。と、腹の虫が鳴り、いよいよ目的地である飯館に向かう必要が出てきた。
 ……早く点心、食べに行こう

「はいよー点心」
「ありがとう」
 町の中で一番安価に食事ができる飯館に入り、かろうじて顔が覗ける背の高いカウンター越しにセイロを受け取ればお礼を告げて軽く室内を見渡す。庶民が利用する飯屋なだけあって、あちこちにシミができていて小汚く、時折汚い言葉も飛び交う、がやがやと喧しい空間だが三十人ほど収まる広さはある。それに、喧騒は多くの人がそれぞれ食事を楽しんでいる証だろうし、嫌いじゃない。
 と、考えつつ見渡したのも座るところを探すためだったが、肝心の座る場所が見当たらない。おかげで人ばかりに目がいく。数個のセイロを器用に運ぶ給仕の女性、昼間から安酒を煽る年嵩の男性陣、餃子を頬張る黒髪を高い位置で一つに結い上げている少年……と、見覚えがある姿に脳裏をかすった名前をつい口にする。
……ジン?」
「んあ?」
 間抜けな声をあげて馬の尻尾のような毛束を揺らし、こちらに体ごと向ける。紅玉のような、目を惹く無機質な色をした目とかち合った。隣の席がぽっかり空いていることにも気づき、そこに腰を下ろしてセイロを卓上に置けばジンが声をかけてくる。
「よおロン。お前も昼飯?」
「そう」
「またお前んとこの師匠と喧嘩したのか」
……
「無言は肯定の証だぜ」
 そう言って、つるりとツヤのある餃子を一口で口の中に消してしまう。熱い肉汁も全て逃さないと言わんばかりに喉へと通す様子を見てまた腹が鳴った。
……うるさいな。そっちの師匠は無口なのに、ほんとジンはおしゃべり」
「じゃあ黙って餃子食う」
 ムッとしたジンは黙って大量の餃子をぽいぽい口に放り込んでいく。まだ湯気が立っているというのに、熱くないのだろうか。
 一呼吸おいて、目の前のセイロと向き合い蓋を開けた。熱い湯気が襲いくる。湯気の襲撃をなんともせず中を覗けば真っ白の皮に覆われた饅頭が二つ入っているのが見える。一つ、手にとってがぶりと勢いよく噛み付けば、ほのかに甘い皮から餡に到達。じゅわりと肉の旨み、コリコリ食感の筍が皮に良く合う。まだ熱いのもあって口の隙間から熱気を逃しながら頬張るとヨダレが今にも垂れそうなジンが見ていた。皿にある餃子はまだ数個残っている。
……いる?」
「いる。オレの餃子と交換な」
 さっきのムッとした表情は消えて歯を見せて笑う親友を見ると、だんだんムカムカしていたものが収まっていくのを感じた。
 差し出された餃子二個と、こちらの饅頭一個を交換すれば餃子にすぐさまかぶりつく。肉だねにしっかり味がついていて口いっぱいに広がるにんにくの風味や肉の旨味をもちもちでつるつるの皮が上手いこと包み込んでいる。やっぱりここの餃子は絶品だ。こんな田舎で燻っていることがもったいないが、ここにいてくれるからこそオレたち庶民はこんなに美味い飯にありつけていると思うとなんとも言えない気持ちになる。
「うん、やっぱ饅頭も美味い。点心で不味いものなんかないし当然だけど」
 満足げなジンは餃子の入っていた皿もすっかり空にして茶を飲んでいた。小遣いを貰っていたからだろう。オレは手持ちがそんなにないから茶を頼む余裕がなかった。家に帰れば茶はあるが、師匠がいるかもしれない。一度帰るのは控えたいが……と考えていると、ジンに名前を呼ばれる。
「ほれ、茶」
……ありがと」
 茶器に追加のお茶を注いで差し出される。こういうことをさらりとするからジンは憎めない親友だ、と改めて思う。ありがたく茶を喉に流し潤す。
「で、さっきの続き。また喧嘩したんだろ。あれか、師匠が相変わらず手加減しないし厳しい、とか?」
「そうだよ」
 茶をもらった手前、適当に返事をすることもできない。オレは観念して素直に認めた。
 師匠は強い。だからこそ勝てないのは当然だが、人に教えることや手加減が下手だ。教えを請うたのはオレ自身だし文句を言うのは間違いかもしれないが、ムカつくものはムカつく。
「まあロンとこの師匠、結構肉体言語派だもんな。拳で語るみたいな」
 ジンは納得した口調で椅子の背もたれに体重をかける。今にも壊れそうな古い椅子のせいで軋んでいた。茶器に注がれた茶をぐいと煽って中身を空にし、ジンの元に返しながら口を開く。
「おかげで肝心の言語が受け取れなくてなんにもわかんないけど。そっちの師匠は無口だよな」
「はは、無表情も追加な。怖いのなんの。オレのこと嫌いなんかな」
 そう言って俯きがちになり、一つにまとめられた髪の毛が重力に逆らうことなく垂れる。きっと、うっすらとシワの刻まれた目鼻立ちの整った仙人のような風貌の師匠を思い出しているのだろう。何回か会ったことはあるが、何を考えていて何を思っているのか、あの人こそ読めない。
「何考えているのかわかんねーし、オレにわかるのはめちゃくちゃつえーってこと。あとロンのとこの師匠の好敵手」
「オレの師匠に対するのも大体そんな感じ」
 何を考えているのかとか、そういうのは違う人間である以上理解するのは厳しい。口にしてくれなければ伝わらないことは山ほどあるのに、師匠たちはそれが苦手だ。生きるための日銭を稼いで余裕ができればどんちゃん騒ぐ大人ばかりのこの町では珍しい武人である師匠たちはどこか不器用だ。オレだってあまり気持ちを言語化することが得意ではないが、これはきっと師匠に似た。その内肉体言語まで似てしまうな、と冗談半分に考えていると午後からがどんどん憂鬱になった。今会いたくない、帰ったらきっとめちゃくちゃに怒られる。ゲンコツを食らうに決まっている。
「なあ、ジン。午後からさぼらないか」
 ゲンコツを回避したい半分、憂鬱さ半分で縋るように問いかける。うーんと顎に手をかけて悩んだ様子の―――だが、すぐに不敵な笑みを浮かべたことにより、悩んだフリをしていたのだと気づく。相変わらずジンにはこういう勿体ぶるところがある。ジンは口元に弧を描いたまま、親指を立ててある方向へと向けた。
「じゃ、竹でも食みに行こうぜ」

 竹林。ここには妖が出没すると最近報せが出ているため退治するまでの間立ち入りを禁じられているところだ。なんでも妖怪退治専門の道士の到着が遅れているらしい。この竹林も修行場にしていたオレたちからすればいい迷惑で、退治すれば修行場を取り戻せて、師匠を見返すこともできて、邑の人たちからも感謝される。いい事尽くしだ。師匠たちはよく妖怪を倒しているし、道士に頼らずとも出来ることはわかっている。
「空気がざわついてるな」
「わかるの?」
「いんや、カン」
……ジンって適当だよな」
「野生的と褒めてくれ」
「それ褒め言葉か?」
 これから妖退治に挑むというのに緩い調子で会話を交わす。立ち入り禁止なだけあって人の気配はなく、少し不気味な雰囲気のある竹林内に、ジンの何も考えていなさそうな軽口が妙にありがたく感じた。実際、今日の天気が曇り気味で薄暗い竹林はどこか気味が悪いし、ジンの調子に合わせているとこちらも誤魔化せる。決して、びびっているわけではないのだ。
 それからはひたすら歩いた。どこにいるかわからない、竹林内にいることしか情報がないそいつを無謀に探している。ジンは既に飽きているのか土を蹴りあげるように適当な足取りで歩を進める。
「なーロン、どこにもいなくね」
「もうちょっと奥かもしれない」
「あ、おい。待てよ」
 先へ先へと進む。ジンが小走りで追いかけていることはわかっているから後ろを見ずに猛進していく。無策に突撃していくことは褒められたことでは無いが、それでも何か手柄が欲しかった。
 あのムカつく師匠に一発、決めてやりたい。どうだ、オレでもできるんだって。バカにするのも大概にしろ! とか―――
 瞬間、竹が爆ぜる音。立ち止まり、緩み気味だった警戒態勢を強める。爆ぜる、ってことは火を使える妖怪なのだろうか。
……今の」
「シッ。黙っとけ、ロン」
 珍しく真剣な眼差しで真面目なことを言うジンに驚いたが、さすがにこの異様な空気感の中ではいつもの調子でいられないのだろう。
 近くの竹藪に身を隠し、息を潜める中、じわりと汗が額に滲む。これくらいの汗を拭うことすらせず待つこと数秒、そいつはいた。
 じっとこちらを見つめているのか、辛うじて目だけ黙認できる、おぞましい何か。
……ロン」
 静謐に、密やかにジンはすぐ横にいるオレにだけ届くように口を開いた。その声は少し震えている。
「絶対気づかれてる」
「そんなの、見ればわか……
 オレが強気に言い返そうとした言葉が途切れる。圧倒的な陰の気を纏った不気味な妖怪がすぐそこにいる。ゆらり、たゆたう様は形が朧げで、まるで紫煙のような印象を持つ赤い炎。実態がないように見えて確かにそこに〝いる〟おぞましい何かがあった。見たことも聞いたこともない炎の妖怪だ。
 気圧されるとはこのことなのだろう。オレはみっともなく奥歯をかち鳴らさないよう気を張ることで精一杯だった。だからこそ、ジンが冷や汗を流し、こめかみから輪郭へ伝い、顎の先から落ちたと同時に息を飲んだことに気づけなかった。
……オレが囮になる。ロンは師匠たちのとこに行ってくれ」
 覚悟を決めた神妙なジンの声がやけにはっきりと耳に残った。同時に、このままじゃダメだと頭の中で警鐘が鳴る。声を潜めることも忘れたオレは声を張り上げる。
「バ……バカだろ! お前も逃げるぞ!」
「どちらかが確実に師匠のとこに行けた方がいいに決まってるだろ」
「だめだ! 絶対ジンを見捨てることなんかしない」
「元はと言えばオレが言い出したことだろ。自分の尻拭いができないほどガキじゃない」
「意固地になっている時点でガキだ! オレが誘ったんだから勝手なこと言うな!」
「意固地はどっちだよ! このままじゃ二人ともあいつに食われて終わりだろ!」
 怒り散らすオレに呼応するようにジンも隠密も何もない声音で怒鳴る。言い合ったところで何も変わらないことはわかっている。頭の片隅には怖い、逃げたい、そんな感情でごった返しているのだ。こうやって言い合っている方が気楽になる。
 これだけ騒いでも妖怪はこちらをじっくり見定めるように見つめてくるだけで、何もしてこない。余裕の現れだろうか、と考えたところで師匠の顔が不意に浮かぶ。
 ……師匠なんかに頼らずとも、自分でどうにかできると、思っていた。それは実際に妖怪を見てなかったからの驕りで、怖いもの知らずの愚かな自信でしかなく、歯を食いしばってジンを見捨てない意志を貫くことしかできないオレじゃ、ダメだった。
 そうこうしていると、妖怪がゆっくりと動き出す。動けば近くの竹が爆ぜる。あの体はどれだけの高温なのだろうか。そう考えるだけで身震いする。一歩、いや半歩にも満たない後退りをした時、瞬きをした次の瞬間目の前に妖怪がいて、思わず困惑の声が漏れた。
「え」
 ジンが血相を変えてオレのことを突き飛ばし、地面に転ばせることで回避することができた。しかし当のジンは相手の攻撃を、腕を使って防御するものの上手く衝撃を逃しきれなかったため呻き声と共に地面に倒れる。動かなくなったジンを見て、顔面が蒼白したことが鏡を見なくてもわかった。
「ジン!」
 今までにこんな緊迫した声を出すことはなかったから、声がひっくり返りそうなほど恐怖に染まりきっている。頭を動かさないように呼びかけ、口元に手を近づける。息はしていた。ひとまず安心からどっと汗が噴き出るが、そうもしていられずすぐさま戦闘体制に入るべく、気絶したジンを守るような体勢を取った瞬間、炎の妖怪が人間であれば腕を大きく振り上げているような形で目と鼻の先にいる。
「くっ……!」
 頭にまで響く重い一撃が入り、三メートル強ほど飛ばされるが着地する。咄嗟に腕で防御したが、その腕から鈍い音が聞こえた。間違いなく折れただろう。火傷と赤く内出血を起こし腫れた腕は正直死ぬほど痛いが、心臓は動いているし首も繋がっている。ジンがちゃんと生きているとわかったから、気絶せず立っていられるオレしかいないんだ、と。ほとんど空元気の状態でオレは立っていた。
 そこからは相手に遊ばれているのか、こっちから攻めようものなら散開し、こちらが防御しようものなら鉄の塊をぶつけられているかと思うほどの攻撃をしてくる。どうしろって言うんだ。少し離れたところで倒れているジンに向かい声を張り上げる。
「ジンっ……ジン!」
…………
 微かに意識が戻った。ただ頭を強く打ったなら、まだ動くことは厳しい。どのみちオレは片腕しか使えないから担ぐこともできない、なら下手に動かすよりじっとしていた方が……。悩んでいれば殺気を感じ、すんでのところしゃがんで交わせば衝撃波で近くの竹全てが真っ二つに折れた。真空波でも飛ばしたのか、定かではない。直撃したらどうなっていたんだなどとあったかもしれない未来を考えて身震いした。だが相手はそんなことお構いなしに猛攻を続ける。ギリギリ交わし続けていたが、ついに地面に叩きつけられる。
「がはっ」
 内蔵が破裂したか思うほどの衝撃に血反吐が出る。今ので肋骨をもっていかれたのかわからないが、隙間風のような呼吸になり死を間近に感じてきた。
 息がしづらい。全身打撲だとか肋骨が折れたとか、それ抜きにしても息が詰まっている。
 怖い、と恐怖が這い寄ってくる。己の死の恐怖よりも、オレのせいでジンが死んでしまうかもしれないということが何よりも恐ろしかった。
……師匠……」 
 そんな中絞り出したのは会いたくない相手。助けになんか来て欲しくないはずだというのに、頭から血を流すジンを見て目尻に涙が溜まる。オレはこんなにも弱くて、それなのにいけると思ってしまった自分が恥ずかしくてたまらなくなる。なぜ道士でもない武人である師匠が妖怪に勝てたのか。そんなの、強いからに決まっている。当たり前のことに今更気づいて、未熟な自分が憎くなった。
 ケタケタ笑うかのように妖怪が揺らめき、オレにゆったりと近づいている。その様子が無性に腹が立って、気が付けば浅い息を吐き出しながら立ち上がっていた。神経を逆なでているのかオレの周辺に人間を形作っていく。今なら殴れるぞ、とでも言いたそうに。
 ならやってやるよ、舐めるな。その意思で睨みつける。
地面への激しい衝撃――――震脚の後、地面を滑走して相手との距離を詰める活歩という歩行術、そして勢いを殺さずまだ動く右手を敵に打ち下ろす。手ごたえが確かにあったし相手も完全に油断していたようで決まってくれた。右手は火傷して叫びたくなるほど痛いが、耳障りな音を発しながら攻撃をしかけようとするのを見てオレに攻撃が集中していることに一安心し、体の力が抜ける。
「今の動きは良かった」
 オレは力尽きてその場に倒れ込むと同時に声が聞こえて爆音が轟く。竹が派手な音を立てて折れていき、何事かと思ったがすぐに理解した。見覚えのある黒い長袍(チャンパオ)が翻る筋骨隆々の男の姿が視界の端に映り、オレは驚くほど息がしやすくなる。
 そこからは、圧倒されるものだった。掌打からの拳の打ち下ろしを受けで妖は煙状に散らばろうとするものの、懐から札を取り出した師匠がそれを阻止し、すぐさま足を踏み出すと同時に手を突く。あっという間に終わってしまった。絶叫の残響を耳にしながら地面を這いつくばって移動しようとするものの力が入らない。
「今は休め。説教は後だ」
 助かったと安堵した直後、オレは気絶した。

 目を覚ました時には少しぼろい見慣れた天井が見えて、ここが自宅だと気づく。動けば軋む寝台に布団が敷かれてその上に寝ており、隣の師匠の寝台であるはずところにはジンがいた。髪の毛は下ろされていて頭に包帯が巻かれていて治療を受けられていることに安心した矢先、そのすぐ近くの椅子に腰掛けている、仙人のような風貌で端麗な顔立ちの初老の男を見て顔が強張る。ジンの師匠だとすぐ理解するが、読書することもなく目をつむり座っている姿は石像みたいで少し恐ろしかった。
 そして、オレの近くには大きな体を窮屈そうに腕組みした体勢のまま椅子に座って居眠りをする師匠がいる。掛け布団を体から引っぺがして起き上がるとジンの師匠がゆっくり目を開く。まるでそういう仕掛けの人形みたいだ。
……ロン、起きたか」
「なに!?」
 なぜか師匠が飛び起きてオレの方を凝視する。掛け布団をぎゅっと握ってぱちぱちと目を瞬かせていれば師匠は嘆息した。
「言いたいことは色々あるが……もう二度と危ないことはするな! いいな!」
 鼓膜が破られるかと思うほどの怒号。キーンと反響する耳を抑え込む。うるさすぎるが、今回はオレが悪いのだから何も言い返せない。いや、言う事はある。
……ごめんなさい。オレのせいでジンも巻き込んだ」
「ジンと同じことを言って……本当に仲が良いな」
 師匠の口調は呆れながらも表情は笑みが浮かんでいた。
「同じこと?」
「ああ。ロンが気絶して運ばれている時にジンの意識が戻って、オレのせいでロンを巻き込んだからあまりロンを怒らないでくれ。ってな」
……オレのせいだよ」
「そんなこと言っていたらキリないだろ、だから二人に分割して怒ることにした。あと、悪いのは襲ってきた妖怪だ。そこははき違えるな」
 だからちゃんと回復したら本格的に説教だ。と師匠が言ってオレの頭に手を置いた。珍しくちゃんと手加減ができていて全く痛くないし、圧力もない。大きな手に頭がまるっと包まれそうで少し驚くし、むずがゆい。
「ジン、起きているなら狸寝入りはやめなさい」
 冷静なジンの師匠の声が通る。どうやらジンは既に起きていたらしい。目をつむったままのジンを見ても寝ているようにしか見えなかったが師匠にはお見通しのようだ。ぱちりと目を開くジンは不貞腐れた様子で返事をする。
……はーい」
「ジン、お前も回復したら説教だ。大体お前は……
「おい、お前の話は長いんだからやめろ。耳が痛くなる」
……
 師匠に注意されたジンの師匠は黙りこくる。無口で感情の起伏がない人だと思っていたが、案外そうでもないようだ。
 師匠が寝ころんだままのジンに声をかけるために近寄る。
「ジン、こいつはいつも無口で何を考えているかわからんだろうがお前の話になると途端に口が良く回る。お前にも聞かせてやりたいくらいなんだが、如何せん照れ屋だからな」
 どこか意地悪そうに語る師匠を睨みつけるジンの師匠は溜め息をしてからジンの頬を軽く撫でていた。撫でられてくすぐったそうに、でも嬉しそうにしている。不安そうにしていた親友の姿を見ていたからこそオレまで安心した。
……で、お前たちは大怪我をした。全治三か月だ」
 師匠がどっしりと構えて切り出す。オレもジンも思わずどんなことを言われるのか、と少し強張る。
「でもな、この怪我で収まったことに驚いている。あちこち探してもいなくてまさかと思い入った竹林に、倒れているジンと今にも事切れそうなロンを見て、もうだめだと思った。だが今も生きている。……ちゃんと防御が身についている証だ。お前たちはちゃんと強くなっている。そのことは胸を張れ」
 さっきから気持ちが悪いほどやさしい言葉を投げてくる師匠にそろそろ若干のサブイボが立つ。確かに怪我人だが、ここまで優しくされる必要性はない。そんなことを思っていたが、師匠二人が声を合わせて、不気味なほどにっこり笑って。
「次はないと思え。わかったな」
 そんなことを言われれば、オレとジンは委縮したまま短く返事をするしかなかった。