木綿子
2020-12-27 17:17:04
4616文字
Public 死印(真八)
 

八畳一間のハピネス

真八(のつもり)
真下の狭いお部屋にはしゃぐ八敷の話

「狭い」
 玄関をくぐってすぐ、靴を脱ぐ前に、真下よりも縦に長い男は嬉しそうにそう言った。

 冬。師走の忙しなさの中、携帯電話が鳴ったのは丁度依頼人への調査書類を仕上げた時分だった。発信者は八敷一男。珍しい。こちらから掛けることはそこそこあっても、向こうからかかってくることは余りない。余程困ったことがある時くらいだ。
 また何か厄介事に巻き込まれでもしたのかと電話に出てみれば、これもまた珍しく実に平和な内容だった。
「飲みに行かないか」
 そう言う八敷の声の後ろは騒がしい。地下鉄の駅にいるらしく、電車の入線を知らせる音がした。聞けば、神保町にいるのだと言う。
「古書街か。何か見つかったのか?」
「いや、今日も大した収穫はなかった。ただ、これから帰るところで丁度夕刻に駅に着くから、真下が暇ならどうかと思って」
「暇、と断言できるほど暇でもないが、別に構わん」
「よかった。ひとまず改札にいてくれると助かる。じゃあまた後で」
 「待て、時間の指定をしろ」という文句は相手に届かずに終わった。仕方なく既に地下鉄ホームにいることから時間を逆算して駅へ向かえば、果たして五分と待たずに八敷が改札を出てくるところを捕まえられた。
 八敷は銀鼠色の冬用コートを着ていた。それが何故か、月末にクリスマスを控えてきらきらしく演出された街に酷く似合っていて、奇妙な溶け込み具合に真下は少し可笑しくなった。
「で? どこで飲む」
「居酒屋がいい。先々月に連れて行ってくれた店があるだろう。そこがいい」
「あの鳥鍋屋か。まあ悪くない」
「やっぱり冬は鍋が食べたい」
「貴様は夏場も鍋を食っていただろうが」
「そうだったか?」
「ド真夏のもつ鍋に付き合ってやったのは俺なんだが?」
……そうだった」
 やや物忘れをする中年男との飲み会は、それなりに楽しい。静かに会話を交わし、ほどほどに飲み食いするだけなのに、居心地はすこぶる良い。互いにそう饒舌な性質ではないから無言でただ酒を飲む時間も多いが、それが全く苦にならない。それでついつい酒量が増えるのが常だ。
 心地よい時間を少しでも引き延ばすために。
「神保町は楽しかったか?」
「別に遊びに行った訳じゃないんだが……ああでもいい珈琲店を見つけたよ」
「貴様の味覚に合う店がこの世に存在するとは驚きだ」
「練乳を山ほど入れる珈琲があるんだ」
「なるほど、理解した」
 他愛のない静かな会話をしながら、真下は八敷の空になったグラスを見るともなしに見ていた。少し前まで冷酒で満たされていた薄いガラスの縁には、同じ場所に口をつけるせいで八敷の唇の形が白く残っている。その上を、骨ばった長い指がグラスハープを奏でるように時折行き来していた。
 中身がなくなった食器類の上に、また穏やかな沈黙がふわりと降ってくる。
 飲み会もお開きの頃合いだ。もう店に入ってから三時間は経過している。周囲のテーブルもいくつかは客が入れ替わった。いつも通り「もう帰るか」と一言口に出せば、それで終わるはずなのに、なんとなく口にし難く、そしてまた八敷も何も言わない。見れば、真下が指先に挟んだ煙草のほの白い煙が店の天井近くに漂う靄と融合していくのを、透明なレンズの内側からぼんやりと眺めているようだった。
「八敷、飲みなおすか。うちで」
 何を考えてのことでもなかった。ただなんとなく、この空気を終わらせるのが惜しく、血中アルコール濃度の力が奇妙に働いたのか、言葉が意図せずいつの間にか唇から零れ落ちていた。
 八敷はやや面食らった顔をし、しかし悩む間もなく「行く」と答えた。ほぼ即答である。逆に真下の方が無駄に狼狽えそうな勢いだ。この時になって初めて、飲みなおすだけなら九条館でもよかったのではと思い至ったが、もう遅い。
 八敷は完全に、初めてお泊り会をする小学生の様相を呈していた。今更前言撤回するのも忍びなく、真下は妙にはしゃぐ中年を連れて帰る羽目になった。
 途中、コンビニで買い物する間も、突然「真下、パジャマパーティなら寝巻が必要だろうか」などと至極真面目な顔で言い出し、早くも自宅に招いたことを後悔させてくれた。恐らくパジャマパーティ云々の情報源は渡辺萌か柏木愛辺りだろう。もしかしたら、そうは見えなくともかなり酔っているのかもしれないが、真下の方は一気に酔いが醒めてしまった。
 そうして連れ帰ってきた玄関先で、開口一番「狭い」である。
 真下の自宅は、ごく普通の狭小住宅だ。三階建のアパートで、入ってすぐ左側が台所、向かい合わせにユニットバスと小さな収納、真っ直ぐ五歩も進めば八畳の居室。それだけの空間だ。取り立てて珍しくもない。
 しかし八敷には違ったようだ。礼儀正しく「お邪魔します」と言いながら上がり込み、二歩ほど進んだところでハッとして脱ぎ捨てた靴を揃えに三和土へ戻り、シンクの前辺りまで進んで両手を伸ばして広さを測り、その奇行を見守るばかりの真下を振り返った。
「真下」
「なんだ」
「狭いな」
……そうだな」
 それ以外なんと応えればいいのか。
 ドアを開けてもいいかと問われ、許可した瞬間にはもうユニットバスを検分されていた。「おお」という感嘆符そのものの声は、一体どういう意味なのだろうか。
「真下」
「だからなんだ」
「狭い」
「同じセリフをもう三度聞いているんだが?」
 とりあえず買ってきた酒と食料品を冷蔵庫に格納したものの、今夜はこいつにもう飲ませない方がいいだろう、と真下は確信した。
 これは酔っ払いだ。相当な酔っ払いだ。
 きっと箸が転がっても笑う年頃というやつなのだろう。中年だが。
 八畳の居室は畳敷きで、無理やり板を噛ませて置いたベッドと十五インチのテレビ、小型の古い炬燵しか置いていない。八敷は炬燵へ真っ直ぐ突進したため、寸でのところで捕まえてコートを脱がせた。上等そうな手触りの銀鼠色をいつも自分がそうしているように鴨居へ引っかけて振り返れば、八敷は長身の身体を折り畳むようにしてちんまりとした炬燵に足を入れていた。
「真下」
「なんだ」
「とても狭い」
 何遍同じことを言えば気が済む、と言いかけて、言葉を呑み込む。余りにも、八敷の顔が輝いていたからだ。良くも悪くも感情表現の乏しいこの男が、ここまで喜びを露にするのは極めて珍しい。
「この家はすごいな。なんでもすぐ手が届くし、長い廊下を歩かなくていい。最高だ」
……まぁ、貴様の家は規格外だからな」
「炬燵もあるし」
「九条館にも置けるだろう。自分の部屋にでも設置しておけ」
「その場合、炬燵を出てすぐ手が届くところに風呂もトイレも厨房もないんだが……
「なら厨房前の廊下に設置すれば万事解決だ」
「もういい。炬燵に入りたいときはここに来ることにする。場所は覚えた」
 やはり酔っているのだろう、常には見せない拗ねた口調で宣言してくる。ぐだぐだと炬燵の天板に載った八敷の頭の下で、眼鏡が小さな金属音を立てた。ひしゃげる前に救出してやると、レンズという遮蔽物を失った切れ長の黒い瞳が、眠そうにゆっくりと瞬きをした。完全に炬燵の魔力にやられているようだ。
「八敷。これは忠告だが、今のうちに寝る準備だけはしておいた方がいい。明日の朝後悔したくなければな」
「嫌だここから出たくない」
……言わんこっちゃない」
 ぐずる中年に「家主の指示には従え」と炬燵から叩き出し、諸々の必要物資と共にユニットバスへ放り込んだ。今日の八敷はいつにも増して手がかかる。しかも通常とは違う方向で。今までも飲みに行く回数はそこそこあったが、ここまで世話を焼かねばならない状態になったことがあっただろうか、と考えて、真下はふとネクタイを解きかけた手を止めた。
……
 九条館。
 公園のような庭と、古い邸宅。訪うものはいるものの、毎日来客があるわけでもない。ひっそりと静かで、怪異と死の記憶を内包した、一人で住むにはあまりにも広すぎる空間。
 止めていた手を引く。きゅ、と絹が滑る音が、見慣れた狭い部屋に散って、消える。きっとこんな音も、あの虚ろな屋敷であったならもっと響くのだろう。調度はあってもこの部屋の何倍も広く、天井も高い室内では、微かな音でも遮るものがなにもない。そしてまた、己以外に音を立てる要素もない。生き物の気配がまるでしない。生きていたものは人も動物も既に冥府へ渡ってしまっている。残ったのは、物言わぬ怪異のみ。
 狭い室内で奇妙なはしゃぎ方をする男の心情が、真下にも少しだけ分かった気がした。
 とは言え、「ユニットバスはいい。家の風呂トイレもユニットバスに改装したい……」などと真剣に語る八敷を目の前にすると、どうにも微妙な気持ちになるのは否めない。その上、邸宅の改装案を口にする当主をそのまま放置し風呂へ向かった真下が戻る頃には、もうすっかり炬燵と一体化した人間が出来上がっていた。
「おい、そこで寝るな。貴様はベッドへ行け」
……どうして」
「炬燵で一晩寝た経験は?」
「ない……
「だろうな。未経験者には推奨できない。とっとと出ろ」
 真下の炬燵には温度調節などという上等な機能は付いていない。それでなくとも、八敷のような縦長の男が小さな炬燵テーブルの下に収まるのは至難の業だ。電源を入れたままひっくり返されたりするのは遠慮したい。
 少し硬い二の腕を掴んで引っ張ると、八敷は半分眠ったような顔で真下を見上げ、「んん」とぐずる子供のような声を上げた。
……真下と一緒なら寝る。ベッドで」
「はぁ? シングルで男二人はどう考えても狭いだろうが」
「狭いのがいい……
 どうやら今日の八敷はとことん狭さに拘るらしい。何をバカなことを、と言いかけ、真下は言葉を呑んだ。
 どこにも、何にも手の届かない虚のような邸宅の風景が、一瞬脳裏を掠めた。
 きり、と歯を噛む。どうにも断りきれない己の甘さに文字通り歯噛みしながら、真下は「わかった」と答えた。
「落ちても苦情は受け付けんぞ」
 言いつつ、押し入れから引っ張り出した予備の毛布を八敷に押し付ける。八敷はおとなしくそれを受け取り、真下の指示通り電気を消して同じ寝台に乗り上がってきた。
……狭いな」
 もう何度目かわからない感想を言う。眠たげに、しかし酷く嬉しそうに、薄闇の中で八敷が目を細めた。
「当たり前だ。だから言っただろうが」
……うん。狭いのは、いいな。手が届く……
 くわんと一つ欠伸をして、先程からずっと今にも眠りそうだった男は、本格的に意識を飛ばしたらしい。寝返りを打てば落ちそうな狭さだ。すぐ近くでゆったりと間延びしていく呼吸音を聴きながら、真下も深く長く息を吐いた。
 それから、そっと毛布に包まれた縦長な身体を、抱き寄せる。もう熟睡したのか、八敷は身じろぎもしない。ただおとなしく真下の腕の中に収まった。
 手が届く。今はまだ。
 普段はあまり意識しないようにしている不安が、少しだけ和らいだ。物理的に触れられるというのは、驚くほどの安心感がある。足繁くあの邸宅に通うよりも余程いい。

「そうだな。狭いのも、悪くはないかもしれんな」
 真下の独り言は誰に聞かれることもなく、温かな身体と毛布の隙間に吸い込まれた。