木綿子
2020-11-27 23:42:00
4241文字
Public 死印(真八)
 

額縁に住まうもの

九条館の怪異ではないなにかの話。真下のことが大好き。

「真下、今から前後不覚になるから、俺を可愛がってくれ」
 そう宣言するなりものの五秒で意識を失った男は、そのままベッドに沈みピクリとも動かなくなった。
 八敷の説明不足は今に始まったことではないが、今回は特に酷い。剛速球の丸投げである。
……かわいがる?」
 意味が分からない。
 「手が空いたら九条館へ来てほしい」などと珍しく殊勝なメッセージが届いたと思ったらこれだ。
 午後六時。九条館の玄関ホールで「何の用だ」と問いただす暇もなく、無言で引きずり込まれた部屋は客室の一つだった。時折真下が宿として借りている部屋だ。何かここで問題があったのかと見廻してみても、特に変わったところはない。
 黙したままどこぞへ意識を飛ばし、整えられた寝台に長身の身体を投げ出している家主を見下ろして、真下は深く長く溜息を吐いた。ひとまず頭部の重みでひしゃげそうになっている眼鏡を抜き取って、サイドテーブルへ畳んで置いた。ついでに自分もコートとジャケットを脱ぎ、ネクタイを引き抜く。長丁場になりそうな予感がしたからだ。
 八敷一男という人間の奇行にはもう大分慣れた。今回のこの状態も十中八九怪異絡みだろう。そうでなかったら怖すぎる。
 ベッドの端に腰かけても、八敷はまだ目を覚まさない。眺めているのにも飽きてジャケットから煙草の箱を取ろうと腰を浮かせかけたところで、身動ぎする衣擦れの音が聞こえた。
「八敷、せめて最低限の説明をぶぉっ!」
 完全に不意打ちで腹部に一撃を食らい、舌を噛みそうになった。弾むようにベッドへ腰を落とし咳き込みながら見下ろせば、さっきまで静かに横たわっていた男か腹に顔を埋めている。
「貴様いったいなんの、真似……
 腹立ちまぎれのクレームは、顔を上げた男と目が合った瞬間に途中で消し飛んだ。
 八敷は、人の顔をしていなかった。
 骨格や造作が変わったわけではない。いつもと同じだ。表情があまり動かないところも。
 しかし、決定的に瞳が違った。
 真下はまじまじと腹にしがみつく九条家当主の瞳を覗き込んだ。
 切れ長で見た目だけは涼やかな目は、今は濡れてくろぐろと潤み、丸い瞳孔に困惑気味な真下の顔を映している。見つめている間に何度かゆっくりと瞬きを繰り返し、静かになったかと思えば再び襲い掛かられた。
「ぅおっ」
 腹と言わず胸と言わず、曲がりなりにも成人男性の筋力でガンガンに頭突きを食らわせられては堪らない。習い性で襟首を掴もうとして伸ばした手が、思いがけず八敷の側頭部を掠めると、今度は標的が手のひらに変わった。まるで「撫でろ」とでも言うように、半端に伸ばした腕に擦りついてくる。
 「俺を可愛がってくれ」という、意識を失う直前の言葉を思い出す。
……冗談だろ」
 だが現実である。冗談どころではないのである。悲しいことに、真下は己の目で見たものは信じる人種であった。
 仕方なく、できるだけ収まりのいい場所を探す。やけくそで「少し待て」と制すると、八敷はおとなしくベッドの端でうずくまった。どうやら一応言葉は通じるらしい。ただし、見知った人間がする人外の動きはどうにも不気味で、少々気色が悪いな、と真下は正直な感想を抱いた。
 少し考えた末、ベッドに上がり具合がいいように枕とクッションを調整し、ヘッドボードに背中を預ける形に落ち着いた。おとなしくしていた八敷を指先で「おいで」と呼ぶと、嬉しそうに目を細めてにじり寄り、頬を擦り付けてくる。
 ペットを飼ったことはないが、野良猫を撫でたことならある。その要領で、真下は八敷の頬を撫でて顎の下をくすぐった。少し伸び気味の髭が指先にさりさりと絡まり、一瞬本物の動物を撫でている気分になる。
 八敷が喉を鳴らす。一体人体のどこをどうやって鳴らしているのか皆目見当もつかないが、ともかくもうるうるうると小さな音が無防備な首元から漏れている。
……猫か?」
 ふと呟くと、そうだと言うように「くぅ」と鳴かれた。
「貴様本当に猫か? にゃーとは鳴かんのか」
……ん、なぅ」
 よくわからない応えは、だからこそ動物めいている。猫だか犬だか定かではないが、撫でてやって喜ぶ生き物であることは間違いなさそうだった。
……
 とりあえず、真下は余計な思考は放棄することに決めた。これを八敷一男と認識して撫で続けるのは危険に思えた。気付いてはいけない何かが精神の奥底に根付きそうで、妙な怖さがあった。
 これは猫の怪異であり、決して八敷ではない。
 そう己に言い聞かせながら解脱しそうな心持ちで撫でていた手はしかし、次の瞬間いっぺんに粟立った。
……っ!?」
 変な声が出そうになり、慌てて右手で口を押える。
 ぬるり、と手のひらを這う感触は、舌先だ。見れば、顎を撫でていた左手を、薄く開いた唇から舌を伸ばし、八敷がゆるゆると舐めている。相変わらず喉をうるうると鳴らしながら。
 反射的に殴りつけそうになる衝動を理性で押さえつけ、真下はひたすらに耐えた。それはもう動物愛護の精神で耐えに耐えた。それを知ってか知らずか八敷(猫のようななにか)はご丁寧に指の股まで丹念に舐めつくし、やっと満足したのか「くふん」と一つ吐息を落とすと、脇の下に鼻先を突っ込んだかと思ったらあっという間に入眠してしまった。
…………
 静かになった部屋の中で、真下は脳内に請求書のフォーマットを思い起こした。依頼料と拘束時間、加えて精神的苦痛による迷惑料を加算していくことを固く決意する。そうでもしなければとてもやっていられない。
 左手を本人のシャツで拭っても猫のようななにかは身動ぎもせず、三十分ほどそのまま眠り続けた。目覚めればもしかしたら怪異は去っているかもしれない、などという真下の希望的観測を粉砕し、その日の八敷は徹底して人外だった。
 用足しに行けばドアの前で待ち構えられ、煙草の箱を取り出せば力強く叩き落されおもちゃにされ、夕食にした冷凍エビピラフは半分奪われた。
 ここまで元に戻る兆しがないとなると、まさか風呂と排泄の介助までしなければならないのかと変な汗が出そうになったが、そこは本人の人間としての尊厳が勝ったのか、その辺りは自力で何とかしてくれたので助かった。やってやらねばならなかったのは、ドライヤーくらいだ。
 夜が更けても猫らしきなにかのままの八敷は、当たり前のように真下の布団に潜り込んできた。諦めの境地でそれを甘んじて受け入れ、そっと乾かしてやったばかりの髪を撫でてやる。指通りの良い頭髪はやけに柔らかい感触がして、不思議に思い目を凝らしてみても、見慣れた黒髪があるだけだった。確かめるように梳いているうちに明かりを落とした青い部屋の中で、人間でありながら人間でない八敷の瞳が緩やかに瞬きをし、また小さく「くぅ」と鳴いた。
 形のいい鼻先が、真下のこめかみに当たり、頭皮を這う。すんすんとにおいを嗅いで、うるうると喉を鳴らす。頬骨の辺りをやわく齧られた後にそっと唇を舐められても、最早真下は驚かなかった。
 口付け、と言うにはあまりに動物じみていた。ちらちらと表皮をしきりに舐めた後、軽く牙を立てられる。舐める、という行為以上になんの含みもない。一度手のひらを舐められて耐性ができていたせいか、慌てず騒がず、ただ首の後ろに若干の鳥肌は立ったもののしたいようにさせてやった。
 どうもこの怪異は満足するとすぐに眠ってしまうらしい。先ほどと同じように脇の下に鼻先を突っ込み真下を見上げ、ただ一声「な」と鳴いて瞬く間に意識を飛ばしてしまった。
………………
 無性に煙草が吸いたかったが、この状況では動くこともままならない。何しろ左脇の下に鼻先を突っ込んだ男は長い手足を真下の身体に絡ませながら起用に丸くなっているのだ。見下ろす頭は少しも動かず、呼吸に合わせて身体が蠕動しているだけだった。下手に起こして人外状態が継続したらと思うと、迂闊に手も出せない。
 もう何もかもを諦める他なさそうだ。
 修験者のような面持ちで、真下は仕方なく目を閉じる。眠りに落ちる寸前に、脳内請求書に新たな金額を追加するのは忘れなかった。

 ベッドのスプリングの振動で、意識が浮上した。カーテンが滑る音がし、明るい光が瞼の裏を薄ぼんやりと明るくする。息を吐いて手足を伸ばし目を開けると、窓の近くに八敷が立っていた。
 身を起こし、観察をする。
 今の八敷は人の顔をしていた。真下の視線を受け止める両眼も人のそれである。ゆっくり瞬きもしないし、妙に潤んでもいない。いつもの何を考えているのかわからない、色だけは同一の黒々とした瞳だった。
「おはよう」
「おはよう、じゃない。貴様、昨晩のアレは一体なんだ?」
「ミィちゃんだ」
……は?」
 ついつい、と八敷の長い指が、真下の頭の上の方を指し示す。ベッドのヘッドボードの上方に、小さな額縁が飾ってあった。
 アンティーク調のくすんだ金色の額縁の中には、猫の絵が嵌っている。真っ白な長毛種、金緑色の目が生き生きと描かれ、小さいながらもいやに生命力旺盛な絵画だ。
 一瞬、猫の瞳が楽しそうに細められたような気がした。恐らく気のせいではないだろう。ここはそういうことが起こり得る場所なのだ。
「本名はミレーシュアだが、略してミィちゃんだ。見ての通り美人さんだ」
……それで?」
「最近真下が泊まりに来ないから、どうやら寂しかったらしい。真下を呼ぶだけでいいと思っていたんだが、どうやら彼女はどうしてもお前に構ってもらいたかったようだ」
…………だから?」
「同調したらああなった」
「バカか貴様は」
「まぁ、ある意味事故だ。猫に噛まれたと思って忘れてくれていい」
「それが人の顔を舐め回した当人のセリフか」
「舐め回したのはミィちゃんだ。真下が猫の扱いに長けていて良かったよ。撫でられるのは存外悪くなかった」
「なるほど、最中の記憶はあるわけだな。つまり、俺の苦労も全部わかっている、と理解していいと」
 地を這うような真下の声音に、はた、と八敷の気配が変わる。ここへ来て初めて、不穏な空気を察したらしい。どうにもこの男は怪異以外には察しが悪くていけない。良くも悪くも、である。

「明日、今回の依頼分の請求書を持ってきてやる。桁がいくつになるかわからんぞ。楽しみにしておけ」