木綿子
2020-11-20 23:52:57
2484文字
Public 死印(真八)
 

電話

九条館の怪異ではないなにかの話。

 昔、九条館には電話室があった。
 中央ホールの隅。小さく四角く切り取られた電話室には、壁掛けの古い電話機と角が取れた木製の椅子が置いてあった。
 電話機が現役だったのは祖父の代までだ。正宗の記憶にある電話機はもう回線がつながっておらず、ただの調度品のようなものだった。
 正宗はこの電話機が好きだった。
 まだ十にも満たない幼い頃。どこにもつながっていない筈の電話機は、時折りんりんりんと軽やかな音を鳴らした。電話室に駆け込んで受話器を取ると、貝殻を耳に当てた時に似た音と共に、きれいな声が聴こえてくる。
 少し低めで落ち着いた、けれど張りのある男性の声。
 何を言っているのか、聞き取れた試しはない。遠い外国の言葉のような響きの声は、いつも正宗の鼓膜を優しく叩いた。稀に歌が聴こえてくることもあった。
 正宗はその声を「にいに」と呼んでいた。
 悪戯をして叱られたとき、仲良しの野良猫が死んでしまったとき、級友と手ひどい喧嘩をしたとき。そういうときに、必ず「にいに」からの呼び鈴が鳴る。ぐずぐずと泣きながら受話器を耳に当て、「にいに」の声を聴きながらいつの間にか眠ってしまうこともしばしばあった。
 それは電話室と共に電話機が撤去される時まで続いた。電話機ごと電話室が解体されてしまった日の記憶はあまりない。思い出せるのは「にいにのお電話がなくなった」と祖父に泣きついたことくらいだ。
 それでももしかしたら、普通の電話にかかってくるかもしれない、とわずかな期待を寄せていた時期もあった。だが事務所に設置されていた黒電話に、「にいに」からの呼び鈴が鳴ることはついぞなかった。
 これもしょんぼりしながら祖父に零したところ「そりゃあ交換手がおらん。かかってくる道理がない」と苦笑されただけだった。
「で、八敷。決まったか」
……決まったように見えるか」
「見えないから言っている。とっとと決めろ」
 大量の電話機を目の前にして、逃避していた思考を現世に戻す。
 家電量販店の電話エリアは、人影も疎らである。平日の真昼間、男二人が長時間うろうろしていようとも問題ないくらいに。八敷など、もう売り場を三周はしている。
「俺が戻ってくるまでに三十分はあっただろうが。電話一つによくそこまで悩めるものだ」
「こういうものは大体同じに見えてしまうんだ。あ、でもこれは可愛くていいかもしれない」
「やめておけ」
 まるまると赤いファンシーな電話機は、どうやら真下のお気に召さなかったらしい。可愛いのに、という八敷の呟きは黙殺された。
「どうせなら実用的なものにしろ。ファクス付きの、子機があるタイプにしておいたほうがいい。貴様の家は広すぎる。どうせ金はあるんだろうが。そこの最新機種にでもしておいたらどうだ」
……そうだな、そうする」
 ありがたくも反論の余地がない助言に、八敷は素直に頷いた。
 電話機を新調するのは、必要に迫られてのことだ。
 九条館では電話線の変更に伴い、長らく現役稼働していた黒電話が晴れて引退の時期を迎えた。そして八敷は、後釜を用意していなかった。
 電話がつながらないから、と九条館へやってきた真下にその旨を告げたところ、怪異と出会ったような顔をされたのがつい先ほどのこと。有無を言わさず車に押し込められ、先に放り込まれたのは携帯電話の代理店だった。
 電話線が変わってから二週間余り、通信機器の用意を放置していたのが余程腹に据えかねたのか、行きの車中では終始無言であった。店に放り込まれた時も「契約が終わるまで出てくるな」とだけ念を押され、張り込みの刑事よろしく出入口の外で見張られていた。あれは営業妨害にはならなかったのだろうか。
「いよいよあの黒電話ともお別れか……
「どう考えても超過労働だったろう。貴様は時代を逆行しすぎだ」
 なんとなしに零れた独り言に、思いがげず隣から応えがあった。
 ハンドルを握る真下は真っ直ぐ前を向いたまま、こちらを一瞥もしない。けれど声音だけはいつもの冷笑も含んでおらず、どこか柔らかかった。
……にいにみたいだ」
「は……? なんだそれは」
「真下は時々、似ている」
 黒電話の後釜を用意する気にならなかった理由に、今この時になってやっと八敷は思い当たった。
 真下の声は、酷く「にいに」に似ることがある。とりわけ、表情を視認しないときに。
 重い受話器越しの通話が一番顕著だ。今までそう頻繁に電話連絡をしていたわけではないが、ふとした瞬間に言葉の節々や「八敷」と呼びかける音が、息継ぎのための呼吸音が、カップに入れた角砂糖のように甘くゆるく歪むことがある。それが正宗の「にいに」によく似ていた。電話機を撤去してしまったら、かつてと同じように、二度と呼び鈴が鳴らないような気がしていた。
 人の記憶は曖昧で、特に声の記憶は消去されるのが早いらしいが、八敷には不思議なほど自信があった。
 真下の声は「にいに」に似ている。
 時々。いや、稀に。
「八敷、いい加減主語と述語を明確に話すことを覚えたらどうだ。俺が何に似てるって?」
「今のは似ていない」
「なるほど、貴様が人の話をまるきり聞いていないことだけはわかった」
「聞いてはいる。ただ、説明が難しいんだ。明治以降の通信網と電話機の構造の話からになるんだが、話していいのか?」
「いらん。結論だけ言え」
「真下は時々にいにに似ている」
「わかった。わからんがわかった。もういい」
 呆れたような諦めたような声音に、八敷は少し笑った。
 新しい二つの通信機器に、交換手は必要ない。同じ世界のデジタル回線で容易につながる。
 呼び鈴が鳴るのをじっと待たなくても、己からかければいいだけだ。
「今日買ってきた電話を置いたら、真下の電話にかけてもいいか?」
「はぁ……? 新しい機材は試験するのが当たり前だろう。俺もかけるし、貴様もかけろ。いいな」

 ほんの少し、あの電話室に似た空気の車中で、尊大な口調は語尾にだけ「にいに」を見つけることができた。