不知火白夜
2024-01-01 23:46:41
16658文字
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橙の幻想

ジュール(ロッド)の幼少期の話です。暴力描写、虐待描写があります。

 8歳の夏の日。とある少年は母親にとある男を紹介された。
 体が大きくて、髪色は自分とも弟とも母親とも異なる茶色。小さい目を細くしてヘラヘラと笑う男。彼は、自らを『トビ』と名乗った。
 この人物は、どうやら新しい『お父さん』であるらしく、ニコニコと微笑んだ母親は新たな夫のいい所を並べ、幼い息子2人の警戒心を解こうと試みる。紹介されている男の方も、少々恥じらい謙遜する様子を見せてはいるが、満更でもないようだ。
 男は、幼い少年とその弟の前にしゃがみこみ、それぞれに目を向けて口を開く。

「初めまして。君達がジュールくんとリュカくんだなぁ」
……はい」
「今日から、僕は、君たちのお父さんになるんだ。よろしゅう」
……はい」

 無口な弟の傍らで、ジュールと呼ばれた背の高い少年は、オレンジ色の鮮やかな髪を揺らして静かに頷く。目の前で知らない男が『お父さん』だと口にするのが何とも気持ち悪くて、その顔を叩きたくなったが、それを堪えて、シャツの裾をぎゅぅと掴んだ。そして、その男の言うことにただ返事をする。

……すぐには無理やと思うけど、君達のお父さんになれるよう頑張るから、仲良うしてくれると嬉しいな」

 目を細める男の前で素直に返事をしながら、ジュールはこんなことを思っていた。
――この人は、いつまで『お父さん』でいるのだろう。
――いや、この人は僕のお父さんやないんだから、もう、どうでもええ。
……と。


 ジュール・ロドリグ。彼は、これまで何度も『新しい父親』を紹介され、その度に苗字も変えてきた。
 最初、ジュールにとっての『父親』ことプロスペールといた時は良かった。父親はとても優しく穏やかな人で、高圧的な所はまるでなくそれでいてとても頼りになる人だった。しかし気性が荒く精神が不安定な母親と上手くいかなったのだろう、プロスペールと離婚し、母親は別の人と再婚した。ジュールの苗字は『デュポン』になり、知らない人が自分の父親を自称した。せめてこれで上手くいけば良かったのだが、その後また何年かしてから母親は離婚し、独り身だったプロスペールと再婚し、弟のリュカが生まれた。
 ジュールは、今度こそプロスペールと共にいたいと考え両親の仲を取り持ち弟の面倒も積極的に見た。だが何故か両親はまた離婚し、自分と弟は母親に引き取られ、別の男性を父親として紹介された。ジュールとリュカの苗字は『ルソー』になった。
 それでも、ジュールはこっそりプロスペールと手紙のやり取りはしていたし、時々会うこともできた。プロスペールはロッドとリュカを平等に可愛がってくれた。
 ジュールは、幼いながらに何故この人がずっとお父さんでいてくれないのか不思議で仕方なかった。こんなにも優しく頼もしい人になんの不満があるのか。息子の視点と妻の視点では異なると言えど、まだまだ子供のジュールにはなにも分からない。
 ある日、ジュールはプロスペールにそれを思い切って聞いてみた。『なんで、お父さんとお母さんは一緒に暮らせんの?』その問いに、プロスペールはどこか悲しそうな顔をしてこう答えた。

……お母さんはね、ちょっと、病気なんやんね。やで僕とずっと居るのも難しいというか……

 ジュールには、その答えはよく理解できなかった。病気とはいうが、母親が医者にかかっている所なんて見たことがないし――いや、これは貧しくて医者に行けないだけかもしれないが――病気なら、尚更誰か大人が傍に居なきゃいけないのではないだろうか。
 そう伝えると、そうなんやけどね、難しくてね、とハッキリしない返答がきた。
 結局ジュールには、よく分からないことではあったが、それはジュールに新たに『母親が病気なら、自分がそれを何とかしよう』『そしてまたお父さんと一緒に生活してもらえるようにしよう』と使命感を植え付けることになった。
 それから暫くしてまた両親が離婚し、母親はプロスペールと再婚した。父親本人はうんざりしていた様子でもあったが、やがて2人目の弟のイヴォンが生まれた。
 ジュールは、今度こそ父親と母親が仲良くやれるよう力を尽くそうと考えた。まだまだ幼い子供にできることなんて限られている。けれど、父親が困っているならその支えになるべくして動いたし、母親が精神の不安定さから喚いているならそれを宥めた。自分のやりたいことは気にせず、感情が読めないリュカを気にかけたし、まだまだ赤ん坊のイヴォンをあやした。親の為に弟たちの為に身を削るのは当然と思っていたし、近所の子供たちも弟妹の世話に追われている子は多かったから、気にしたことなかった。
 ジュールは、両親に感謝される度に気持ちが落ち着いた。自分は両親の役に立っている! こうして自分が頑張ることで母親は離婚を選ばず、プロスペールが父親でいてくれる! そう思うと、ジュールはある意味幸せだった。

――だが、それも結局は幻想でしかなかった。
 母親は以前にも増して精神を乱し、不規則な生活をするようにもなり、よく分からないことを言う機会が増えた。プロスペール以外の男性とよくいるようになったくせに、プロスペールを『他の女とおった』『浮気者』と詰った。両親は何度も話し合い――いや、喧嘩を繰り返し、やがて、また別々に暮らすようになった。
『失敗した』――ジュールは、当然のようにそう考えた。自分がもっと気を配っていれば、2人の仲を上手く取りもてていたのでは無いか……と己を責めた。実際は、ジュールにはどうしようも無い事だったのだが、そんなことは関係なかった。ただただ、自分が両親の仲を壊したのではという罪悪感を多分に含んだ黒い雲が、ジュールの心を覆っていた。
 だが、ジュールの心はまだ折れていなかった。両親の心を繋ぎ合わせられなかったならもう仕方ない。なら、せめて自分は、少しでも心が楽で居られる道を選ぼうと、弟ふたりと共に父親について行こうと考えた。母親といては、また違う男を父と呼ぶ羽目になる。女性が1人で生きていくのは厳しい世の中とはいえ、何度も何度も父親が変わるのは嫌悪感がある。だから、せめて、敬愛するプロスペールについて行き、彼の為に頑張りたいと純粋にそう思っていた。
 その気持ちはプロスペールには受け入れられたが、母親には衝撃を与え、何度も殴打を受けながら、酷い子だ、なんてことを言うのだ、お母さんを見捨てるのか、など相当泣かれたものだが、それでも、ジュールの意思は変わらなかった。
 だが――ジュールにとって、予想外のことが起きる。
 それは、両親が子供の引き取りについて話し合った結果、ジュールとリュカを母親が、イヴォンを父親が引き取るというものだった。
 子供たちの考えを無視して行われる兄弟の分断にジュールは動揺し、焦り、声を荒らげて反抗した。普段から無口で何を考えているか全く分からないリュカも、これには疑問を呈した。
 しかし、よく分からない理由を投げつけられ、頭や頬を殴られ、幼い兄弟の意見と疑問は押しつぶされたため、もう何も言えなくなった。

 ジュールが弟と母親と共に家を出ることになったその日。プロスペールは最後までジュールとリュカを心配していた。

「またいつでもおいで。君たちは僕の子供で、イヴォンのお兄ちゃんなんやで」
「うん」
「手紙もまた書くよ。写真も、撮影できたら送るからねぇ」
「うん、待ってる……

 最後の日、プロスペールは家を出ようとしていた2人を玄関で引き止めた。赤い髪の幼児イヴォンを抱きながら、彼は悲しげな顔でジュールとリュカを見つめ、その頭を撫でた。
 ジュールはその手つき、あたたかさ、優しさをずっと覚えている。この人だけを自分の父親だと認識している。そして、まだ幼い弟のイヴォンの姿もずっと覚えている。だからこそ――
 目の前にいる、トビとかいう名前の男を、父親とは、どうしても認識したくなかったのだ。


ジュールのフルネームが『ジュール・ロドリグ・ペルグラン』になってから数週間が経過した。
 新たな父親であるトビは、日に日に新たな息子たちへの苛立ちを募らせているということが傍目に見てよく分かっていた。
――随分、気が短い人なんやなあ……
 ジュールは、そんなことを思いながら日々ジャンの怒りを爆発させないよう慎重に行動していた。
 何故トビが怒りを募らせているのか。それは、息子たちであるジュールとリュカの態度にあるとジュール本人は考えた。
 ジュールは、できるだけ相手を怒らせないように用心しながら行動し、形容しがたい不快感を押し込みつつ出来るだけ早くトビを『お父さん』と呼んだ。
 トビは、『お父さん』と呼んだこと自体は喜んでくれたが、その他の用心深い行動――例えば、過剰に気をつかったり顔色をうかがったりするような――そういった行動を『子供らしくない』と嫌った。ジュールが気遣う度に出来るだけ優しく指摘していたのだが、最近はその指摘も乱暴になりつつあった。
 ジュール本人としては『そんなことを言われても、相手の逆鱗に触れたら嫌な思いをするのはこちらなんだから、気を使って何が悪いのか』という感覚だったのだが、その気遣いが嫌だったのだろう。仕方ないのでジュールなりに考え極力子供らしく振る舞うように心がけていた。それが何とも、彼本人には苦痛だったのだが。
 また、リュカの態度もトビの機嫌に悪影響を及ぼしていた。
 感情表現に乏しく冷めた顔つきで口数も少ない弟、リュカ。彼は、4歳ながら一般的な子供らしさから乖離した性質を宿していた。
 一日のうち一言二言話せば良い方で、何がしたくて何をしたくなくて、何が好きなのかも嫌いなのかも分からず、危なっかしいことにトビの葉巻に興味を示す始末。
 ちなみに、リュカがあまりにも話さないものだから、かつてのプロスペールは息子を唖者なのではないかと心配していたほどだった。
 母親とトビがリュカをどのように見ていたか、ジュールには分からない。ただ、ほとんど話さないリュカを母親が殴打し、『お父さん』と呼ばれないことに不満を持つトビに暴言を吐かれているその様は、何とも痛ましく思えて辛かったのだった。

 そんなただでさえ精神的苦痛が傍らにある中、ジュールは多くの身体的負担を強いられていた。決して裕福とは言えない家計を支えるために、彼は幼くして労働に準じ、不安定な母親の面倒を見て、トビの荒れた態度と理不尽な暴力に晒されるといった過酷な状況に心身を疲弊させていた。外では農具を手に仕事をひたすら行い、家では本来は母親が引き受けている内職の洋裁を覚えて、服や小物を仕立て、その他の家事も多く担当していた。
 それでも、家事や仕事に集中できれば良かったが、情緒が安定しない母親相手ではそうはいかない。気づけば、労働に家事に弟と母親の世話に……数多くのことをジュールが多く担っていた。
 まだ幼い弟、リュカに文句を言うつもりはないが、母親とトビにはとにかく文句を言いたい気持ちが募っていた。言ってどうするのかと問われたら、答えられないのだが。
 そんなジュールにも、癒しの時間はあった。
 それが、部屋でプロスペールからの手紙を読んでいる時間だった。
 ジュールとリュカへそれぞれ宛てた手紙は、まだ子供の彼等に合わせたやさしい表現で書かれいた。内容は、日常のことやイヴォンのこと、近所に住んでいる人たちの事が主で、ジュールにとって癒しや心の支えとなり、学校へ行けない彼にとっては非常にいい教材にもなった。
 ただ、この手紙はジュールひとりきり、もしくはリュカといる時のみ読める代物だった。
 というのも、プロスペールからの手紙は母が見つければ泣き喚き破り捨てられ、トビが見つければ怒って暖炉にくべてしまうからだった。向こうからすれば、プロスペールからの手紙なんて不愉快なものであることはジュールにもなんとなく理解出来ることではあったが、勝手に捨てられてしまうのはなんとも悲しかった。
 また、ジュールは心身ともに負担を背負いすぎているからか体調を悪化させることがやたら多かった。常に頭と体が重く、高熱が出る時もあり、更に暴力のせいで怪我をすることもあったが、まともに医者にかかれる訳も休める訳もなく、辛い日々が続いた。
 それでも、家の外に出れば、勤め先に交友出来る相手がいる分、ジュールは自分を幸運な方だと思っていたし、似た境遇にいる子供達と辛さを分かち合う事が出来たのは、良かったことであろう。『親に殴られた』『蹴られた』『自分も』『嫌になるなぁ』――そう言い合えるだけで、きっとマシなのだ。


 トビが来てから半年ほど経過した1月頃のある日、ジュールはプロスペールに助けを求める手紙を書いていた。
『お父さんへ。お願いがあります。難しいことだと分かっていますが、ぼくとリュカを引き取ってくれませんか。もう一度、ぼくたちのお父さんになってくれませんか』
 今日も今日とてトビに理不尽に殴られたジュールは、リュカと共同で使っている部屋の片隅で、寒さに震えながら必死にそんなことを書いた。
 この頼みが、プロスペールにとって負担となることはよく分かっている。しかし、もう母親といるのもトビといるのも苦痛だったため、本当の父に縋りたかった。
 ジュールには、もう『母親と父親の仲をとり持たなくてはならない』というような使命感はなかった。思えば、その使命感はプロスペールがいるからあったものだ。病気である母親のことは気の毒だと思うが、それと、現状に耐えられるかはもう別だった。
 それからジュールは、朝方に隙を見て1人で手紙を出しに行き、次の日からはとにかくプロスペールからの返事を待った。1日2日で来るものではないことは理解しているが、それでも毎日毎日ポストを確認した。朝でも、昼でも、夜でも、タイミングがあれば必ず確認し、郵便物があれば喜び、その中にプロスペールからの手紙がないことに悲しんだ。
 それでもいつか届くだろうと労働に従事しながら待ち続け、数日、数週間、1ヶ月、1ヶ月半が経過した。マイナスを下回ることが通常の気温の日々の中、辛抱強く手紙を待ち続けたが、プロスペールからの返事は無かった。
 いつもならどれだけ遅くても1ヶ月程度には返事がきていた。何かがおかしい――子供部屋の机に向かい、薄暗い明かりの元で今までの手紙を読み返していたジュールは、漸くひとつの可能性を思いついた。それは、母親かトビのどちらか、もしくはその両方が、ロッドが出したはずの手紙、又はプロスペールから返ってきた手紙を捨てた可能性である。
 それに気づいた時、ジュールは背筋が凍るような思いがした。両親がプロスペールからの手紙を嫌悪していることなんてとっくに知っているはずなのに、それなのに、何故その可能性を考えず呑気に待ち続けたのか。自分の愚かさに腹が立ち反射的に椅子から勢いよく立ち上がったロッドは、最悪の可能性に震えた。そして己を罰するように自分の頬を全力で殴りつけた後、冷静さを取り戻そうと机に手を置いて深呼吸をする。
『そんな当然のことに気づかないくらい、自分の心はやつれていたのだろう』――そう思いもしたが、だからといってジュールは己のことを許せなかったのである。
 息を吸って、吐いてを繰り返し、何度目かの深呼吸で己を落ち着かせたジュールは、ベッドでリュカが眠っていることを確認してから、この可能性を潰さない訳にはいかないと、手燭てしょくを携えて部屋を出た。時刻はもう深夜と言って差し支えない頃合いだが、そんなことを気にしていられる状況ではなかった。

 部屋から出て、薄暗い廊下を歩き階段を下る。静かな暗闇にギシギシと鳴る音が響く階段という組み合わせは、普段なら無駄に恐ろしく感じてしまうが、今日は、何も感じなかった。
 階段を下りきり、トビがいるであろうリビングに向かう。そちらからは、トビが1人でなにか叫んでいる声が聞こえてきてつい躊躇う気持ちが湧き上がったが、今更後にはひけない気持ちが勝ったため、徐にリビングへ続く扉を開いた。
 リビングは明かりが点いており、また、暖炉に火がくべてあったため部屋全体は暖かくなっていた。だが、空気感は異様で、ジュールは呆然とする。
 なぜなら、普段トビが座っているソファは何故かひっくり返っており、周りの観葉植物の鉢も倒され、床には、ビリビリに破いたのであろう新聞や雑誌の切れ端が散らばっていたからだ。他にもテーブルも倒され、その上に乗っていた花瓶や灰皿が床に転がっている。そのせいで活けてあった花はぐしゃぐしゃになり、水が広がっていた。また、灰皿にはなにも入っていなかったのが、吸殻等は見受けられなかった。
 そんな光景を見れば、今トビの機嫌が極端に悪いことくらい流石のジュールにも理解できた。それを裏付けるように、今現在のトビは苛立ちを顕にしながら倒れたソファに蹴りを入れているところであり、どう見ても今のうちに退散し、質問は後日にした方がいいだろう。できれば、部屋にいる時点でこの惨状に気づきたかったが、今たらればを言っても意味が無い。漸く我に返ったジュールは、悔しく思いながらも1歩後退りをした――その時だった。パキ、と足元から音が響いたのは。
 床の資材が悪くなっていたのか、所謂家鳴りのものかは分からないが、それによりぐりんとこちらに顔を向けたトビと目が合った。元々荒々しい目付きをしていた彼の目は更に鋭くなり、大きな足音を響かせながらこちらに向かってきて、何やら叫びながらジュールの首根っこを掴み、そのまま倒れたソファーへ目掛けて投げつけた。ジュールの体はぐわんと浮かび上がり、ソファーに叩きつけられた衝撃で視界と頭が揺れ、叩きつけられた体がズキズキと痛む。
 言葉を発する前に奮われた暴力に、理解が及ばず頭を抱えるジュールの上で、トビは訳の分からないことを口にしながらソファーを蹴り飛ばし、時々ジュールの体にも突き刺さるような蹴りを入れた。ジュールは、極力呻き声を出さぬように歯を食いしばって耐えつつ、トビが何故ここまで怒っているのか少しでも理解しようと耳を傾けた。すると、最初はただの叫び声にしか聞こえなかったものが、やがて人の言葉として耳に入るようになった。

「てめぇあの女がだぁこどこいったか知らんがぁああ!」
「っ、し、知らんよ、僕……ずっと部屋におった、もん」
「ほれやったぁあいつぁどこに行ってんやぁあああ!! あんたんせいがぁあああ!!!」

 真っ赤な顔で怒り狂うトビに何度も蹴られながら、ジュールは、母の行き先を何となく想定していた。彼女は、最近仲良くしているらしい男性の元に行っているのではないかと考えたが、しかし、それを告発などできないし、そもそも今は体中に暴行を受けるせいでそういった発言も、本来聞くつもりだった質問も出来なくなっていた。
――どないしょう、どないしよ、痛い、このままじゃ……
 ジュールは、痛みと恐怖に支配される中自然と涙がぼろぼろと零れるのを感じていた。泣き叫ぶことすらできないまま、自分はこのまま殺されるのではないかという恐れに身を震わせ、なんとか逃げ出そうと抵抗を試みる。しかし、それを察知したトビに頬を打たれそれも阻止される。理不尽に殴られ、襟首を掴まれ再度投げ飛ばされたジュールは、転倒しているテーブルの脚に背中をぶつけ、近くにあった花瓶や灰皿が己の体に接触した。混乱に喘ぐ中、ジュールはわざわざ聞きに来なければよかったと漠然と後悔していた。
 ジュールは怒り狂うトビを見つめた。彼の怒りはまだ収まっていない。ジュールに全てぶつけて己の妻を問い詰めるまで大人しくならないと断言しても良さそうな様子で、反射的にジュールは身震いをし、絨毯を握った。
 そんなジュールを見下しながら、舌打ちをしたトビは苛立った様子で口を開く。

……なんだお前、なんか文句あるのかぁ」
……ない、です」
「ならなんでほいな目で俺のこと見やがる。つーか、なんで俺のところに来たんやあ!? 普段やったら寝てる時間やろぉ?!」

 相変わらず怒鳴りながらの言い方であるが、やっとそこに疑問を抱いたのだろう。一瞬、理由を打ち明けるかどうか迷ったが、何を言っても結局は殴られるのだ。それならば正直に言って殴られた方がマシだと考えたジュールは、体を起こして床に座り、恐る恐る打ち明けた。

……あ、あの、お父さ……プロスペールさんに送った手紙が、返ってこんから、その、なんか、知らんかなって……思って……
「はぁ!?」
「っ……ご、ごめんなさ――

 大きな声にびくりと肩を震わせたジュールが、反射的に謝罪を口にしたその時だった。トビが、ジュールにとってとんでもないことを口にする。

「あぁ、あー……プロスペールとかいうやつからの手紙か、それだったらもうとっくに捨てたで」
……えっ」

 予想はしていたが、当たってほしくなかったことが的中してしまった。いつの間に捨てられたのだろうと困惑し青ざめるジュールの様子も意に介さず、トビは言葉を続ける。

「もう離婚したってのにいつまで経ってもうちの息子にちょっかい出してきやがってあの男。中身見たら一緒に暮らそうだの迎えに行くだの書いたってほんっと腹立たしいことこの上あらへん。めんどうやからてめぇに見つからんように隠してから暖炉にくべてやったわ」
……なんで、ほんなことを」
「なんでって、言わんでも分かるやろ。うちの息子を誘拐するつもりのやつなんて突き放して当然やろうが」
「ゆう、かい……?」

 トビの乱暴な言葉を聞きながら、ジュールはわなわなわと体を震わせ、ぎゅうと握り拳に力を込めた。トビの言い分はジュールには納得し難い話であった。ちょっかいを出してくるなんて言われても、ジュールにとってはプロスペールが『父親』なのだし、そもそも自分から連絡をしているのだ。『プロスペールに連絡をするな』と言われるならともかく、プロスペールを悪く言われるのは非常に不愉快だ。しかも、誘拐だなんて、そんな、人聞きの悪い。プロスペールは悪人ではない。悪人は寧ろ、人を一方的に罵り子供を殴る、目の前の相手だ。
 そう思うと、途端にジュールの中に形容しがたい憎悪の感情が巻き起こった。いや、これは突然ではないだろう。今までもずっと彼に対する怒りの感情がぐつぐつと火にかけられていたが、己の理性でずっと押さえつけていたものだ。それが今、吹きこぼれそうなほど限界値まで湧き上がっている。
 ジュールは考える。何故己が父親と思えない人を『お父さん』なんて呼ばなくてはいけないのか。何故母親は離婚と結婚を繰り返すのか。何故、自分とリュカはプロスペールについていけなかったのか。何故、自分がプロスペールと交流を持とうとするのを阻むのか。そういった不満を爆発させたジュールは、目を釣り上げ鬼の様な形相でトビを睨んだかと思うと、自分を奮い立たせるために大きな声を上げて相手に突っ込んだ。

「ぅああああアアあああアアアッ!!!」
「あ?」

 ジュールはそのままトビに体当たりをするようにぶつかり、相手に拳を奮う。しかし、所詮は子供の力だ。最初はトビを動揺させ僅かながらダメージを与えていたが、やがてそれは彼を苛立たせるだけになる。

「おい」
「うぁあああ! このやろぉ!」
「チッ……なにがこの野郎やクソガキ!」

 その声と共に、眉間に深くシワを刻み口を大きく開けたトビは、太い足でジュールの体を勢いよく蹴り飛ばした。続けて床に転がったジュールに のしかかり首に手を添える。

「てめぇ調子乗んのもえぇ加減にせぇあああアアア!!!!」
「ひっ…………!」

 先程のジュールの勢いはあっという間に打ち消され、ぎゅう、と己の首が締め上げられ息が苦しくなる。目の前に顔を赤くして怒鳴り声を上げるトビがいて、段々と声が遠くなっていくうな気がした。恐怖に怯えながらなんとか抵抗を試みるが、息苦しい中ではトビの手を振りほどこうにも満足に自分の体が動かせない。
――どないしよう、どないしよ、このままじゃ、また、このままじゃ、ほんまに、ほんまに……っ、……――……
 頭の中で泣き喚き焦る中、ジュールはひとつの閃きを得て、必死に手を動かした。それを実行する事に対する躊躇いはなかった。このまま大人しくしていれば死んでしまう。プロスペールに会えなくなる。それに抗うためにジュールは手を動かした。己の意識があるうちに、何としても、この男に一矢酬いる為に。
 そして、苦闘の末ジュールは見つけた。現状を打破する術を。それをしっかりと手で掴んだジュールは、どうなっても知ったことかと言わんばかりの心持ちで勢いよく振り下ろした。
 その直後、ガッと鈍い音が響く。ジュールが勢いよく振り下ろしたそれは、テーブルから床に転げ落ち、運良く割れずにいた花瓶だった。それは、トビの頭に接触した衝撃で割れ、中に少々残っていた水をぶちまけた。

「って、めぇえ……! なに、しやがる……!」
「っ、カハッ、ハァッゴホ、ケホッ……! っ、あ、あぁあ……!」

 子供の力とはいえ、威力は相応にあったのだろう。花瓶で殴られた箇所からは血が流れ、トビはふらつきながら数歩後退しジュールを睨む。一方で、漸く解放されたジュールは、ゴホゴホと咳をしながら次の得物を手にし、それを相手に投げつけた。ジュールが投げた花瓶の大きな破片は、トビの顎辺りに直撃し体の大きな彼の足元をふらつかせ転倒させた。
 ズシン、ゴトッ、と鈍く大きな音が響いた後、トビは何やら呻き声を上げながら床に横たわった。一応意識はあるようだが、起き上がることが出来ないようで、これは、ジュールにとってはまたとない好機であった。彼は、震えながら床に転がる重い灰皿を手に掴むと、震える足でゆっくりと数歩前に進んだ。

「あぁ、あ、アァ、あ……

 悲鳴とも呻き声とも言えない掠れた声を零しながらトビの横で足を止めたジュールは、虚ろながらも厳しい眼差しの彼と目が合った。その時、反射的に肩を跳ねさせてへたり込んだジュールは、呼吸と体勢を整えると、手にしていた灰皿を両手で勢いよく振り下ろした。ゴッと嫌な音と短い悲鳴が聞こえたが、それでもジュールは灰皿を振り下ろすことをやめなかった。自分が今何をしているかは考えたくなかった。考えていることは、とにかくこの男が起き上がって来ないように、もう辛い思いをしなくないという懇願だった。恐怖を打ち消すためか声を上げながら、今までの恨みを込めながら、これ以上この男によって苦しい思いをすることがないように願いながら……いや、そんなことを考えていたかは定かでは無いが、とにかく、幼いジュールは、己の気が済むまで無心で男を殴り続けていた。


 数分後。我に返ったジュールは、激しく息を切らしながら徐に灰皿を木質の床にそっと置いた。動き続けていたからか、暖炉により部屋が温められていたか汗だくであり、衣服が体にじっとりとへばりつき異様に気持ちが悪かった。
 そしてその下、床に座り込むジュールの目線の先では、頭から血を流し、目を見開き絶命しているトビの姿があった。短い茶髪は乱れ、服は所々を飛び散った赤色に染められ、どう見ても生存しているようには見えなかった。
 そのさまを見て、ジュールは、ゆっくりと自分の犯した過ちを理解し、唐突にえずき、嘔吐したた。

「う゛っ、ぉえ、え゛っ、ぉえええええ……!」

 床に手をついてびちゃびちゃと吐き出してから、頭を抱えて蹲る。か細い悲鳴を上げて、ごめんなさいと何度も何度も口にして、いつの間にか祈るように手を重ねていた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、シエル様、シエル様、ごめんなさい、ぼくは、ぼくは、なんてことを……!」

 ガタガタと震えながら、ジュールは胸の内で己を責めた。確かに自分は今トビに殺されそうになっていた。しかし、ここまで殴る必要はあったのか? もう少し適切なやり方があったのではないか? いや、それでも、命の危機が迫っていたのだから話は変わるのでは……頭の中でぐるぐると考えていると、自然と涙が溢れ出す。そして無意識に己の宗教の神に赦しを乞うていた。普段そこまで熱心に祈っていないのに、教会も真面目に通っていないのに、都合が良すぎるとは思った。それでも、神に許しを乞うことしか出来ず、ただただ震え涙を流した。
 その時、ジュールの意識を覚醒させるとある声が耳に届く。

…………なにしとるん」
……えっ、あ、リュカ……!?」

 幼い声にハッとなったジュールが目を向けた先には、寝巻きに身を包み少々寝ぼけた様子で立つ弟、リュカがいた。彼はゆっくりとした口調で言葉を紡ぐと、ジュールや、倒れ込むトビ、そして荒れに荒れた部屋と赤色が付着した床などを見てから、ぽつりと呟いた。

…………ジュールが、ころしたん?」
「え、あ、ぅん……
……そうなんや、ころしたんやな、ついに」
…………うん……

 ジュールは、リュカの言葉にぎこちなく返答をしながら、彼の異様な態度に強烈な違和感を覚えていた。
 弟はまだ5歳である。それなのに、この惨状を前にして固まったり泣いたりといった行為を一切しないことに驚いたが、それに加え『人の死』を理解し、分かった上でその結果を軽視しているようなその言動に、いたく驚いた。
 彼が、ショッキングな光景に驚いたり硬直したり泣いたりするなら分かる。トビがどうなっているかよく分からなくて困惑したり、寝ていると判断し起こそうとするなら、それもまぁ分かる。なのに、今目の前の弟は、トビとジュールの間に何があったのか全て理解した上で、平然と振舞っているようで、やたら恐ろしかった。
 リュカは、床に飛び散った吐瀉物と、転がる灰皿を眺めてから、冷めた顔つきで平然と口を開く。

……このあと、どうするん?」
……え?」
……やから、このあと。おまわりさんのところいくの? それとも、ここにおるん?」
「お、おまわりさんのところにいくで、もちろん」
……ふーん、そうなんや」

 淡々としつつもゆったりとした話し方の彼の言葉が、普段より流暢に聞こえる。普段の彼は『うん』と『ちゃう』と自分の名前しか言わない程度には寡黙で拙い話し方だったというのに、どこで、こんな語彙と滑らかな話し方を覚えてきたのか。
 バクバクとうるさい心臓の音を聞きながら、ジュールは、口や喉の渇きを感じつつ、ぎこちなくリュカに言葉をかけた。

……そういや、リュカ、起きとったん?」
…………とちゅうで、おきた。なんか、よぞいうるさいから。……それで、みにきたら……ジュールが、トビのことをなぐっとったで、あーあっておもって、みてた」
「そ、う、なんや……

 あの光景を見られていたことをジュールは驚嘆したが、それよりもあの光景を見ていたのに逃げなかったリュカに疑問を覚えた。だが、きっと怖くて逃げ出せなかっただけなのだろうと、そう思っておくことにした。リュカの様子からは、とても、そんなふうに見えないが……流石に、全く動揺していないとは思えないからだ。
 色々なことを考えて座り込むジュールと、見物するように部屋を歩くリュカ。2人の間にはとにかく沈黙が流れるが、それを破ったのは他でもないジュールだった。彼が、ハッとして当初考えていたことを口にしたからだ。

「そうや、おまわりさん、おまわりさんのところ、行かな……ごめんなさい、しやんと……

 内心、行きたくないという気持ちはあった。しかし、自分は悪いことをしたのだから、ちゃんと伝えに行って謝らないといけない。この家に電話機はないのだから、外に行って近くの交番に行かないといけない。少し離れた場所にいるリュカが、どこか不思議そうな顔をしたが、それは気にせずに、重い体を立ち上げたその時だった。
 玄関から、母の声が聞こえた。酒に酔って上機嫌な様子の声と、軽い調子の足音が重なっていた。
 それを耳にした瞬間体が強ばり、血の気が引く思いがした。どうしよう、どうしよう、見られてしまう、どうしよう……そう混乱するもなにも行動を起こせないジュールを尻目に、リュカは無言で台所に向かった。しかし、ジュールにはそんなもの見えていないし、見えたところでそんなことを気にしている余裕はない。
 ただトビから少し離れたところで立ち尽くすしかできなかったジュールは、絹を裂くような母親の声でやっと現実に戻ってきた。
 目線の先では、口を押さえガタガタと体を震わせた母親が、トビの傍らに膝をついていた。

「トビ! トビ!? なんなのこれ! え、死んでるの、死んでるの!? ちょっと……!」

 動揺する母親は彼の体を揺すり、叩き、何とか起こそうと試みるが、どうにもならないであろうことを朧気ながら理解したのだろう。甲高い絶叫をあげて絶命しているトビを呆然と見つめた後、突然ギッと力強くジュールを睨みつけた。

「あんたがやったん!?」
「えっ、え、それは……
「あんたがやったんやろ!? なによなんなんトビにこんなんして! あんた頭おかしいんちゃうん!?」
「そ、それは……

 母親は、ジュールへの心配や質問等を一切せぬまま、ジュールを犯人と決めつけて掴みかかる。肩を掴んで体を揺さぶり、まるで尋問のようにジュールを追い詰めた。
 確かに、ジュールがやったことに間違いはない。何者かに殴られて絶命している夫と、その傍らにいる息子を見たものだからつい犯人だと思ったのだろう。しかし、その息子は明らかに顔や体を殴られ怪我をしているし、部屋も荒れている。せめて何があったのか、聞いてもいいんじゃないのか? ――こういったことを、ジュールが瞬時に考えられたかは不明だが、おおよそ、こういったことを思い、母に対する動揺や失望を抱いた。しかし、それを口にできる訳もなくジュールはただか細い呻き声を上げる。
 母親は、ジュールのそのハッキリせぬ態度にさらに苛立ち、彼の胸倉を掴み上げ、揺さぶり、激しく問い詰める。やがて首を絞めるような動きに冷たい恐怖感を抱きながら、床より僅かに浮いた足をふらふらさせて、また息がつまりそうになりながらなんとか必死に頭を働かせた。
 目の前には怒り狂う母の顔、首元も苦しく、部屋の中の嫌な匂いもあってか頭もなにも上手く働かない。また吐き戻しそうになってきたが、その間にも、母の怒りは溜まり、怒号が耳を貫く。

「はよなんとか言いさぁ! 分かっとんのジュール! あんたがやったんやろ!? ねぇ! この親殺しがぁああぁ――……ぁ、ああ……?」

 その時だった。母親の怒りの形相が、何か違和感に気づくような驚いたような面持ちに変わった。そこから、違和感の元の確認に振り返った彼女は、更に目を丸くした後、どっと青ざめ、一気に叫び声を上げた。同時に、ジュールを締め上げようとしていた手から力が抜けた。辛うじて解放されてロッドは、バランスを崩して尻もちをつき噎せる。腰や尻を擦りつつジュールが見たものは、想像だにしていなかった光景だった。

――……っ、ぐ、ぎゃああああああ! ぁああぁあああ!!」

 母親が叫んだ理由、それは、体に包丁が深々と刺さったことと――その包丁を持つ人物がリュカだったことだ。
 突然、リュカから明確な攻撃を受けた母親は、青い顔を晒して汗を流し、床に蹲る。

「っ、なにすんのリュカ……こんなんして、タダで済むと思って……ぁああ……!」

 リュカは、母親の悲鳴を聞き流しながら、まるでおもちゃの包丁でままごとをしているかのような雰囲気で包丁を振り上げる。手袋をはめた手で、いつものような淡々とした顔つきで、顔を顰めもせずにいるものだから、その光景は異様でしかなかった。
 ジュールの目の前で、リュカはとにかく母親の体に刃物を突き立てる。止めなくては――そうも思ったが、体が動かなかった。何の躊躇いもなく刃物を振るうリュカが恐ろしかったというのもある。だが、それだけではなく、ここで身を呈して母親を助けなくてはいけない理由が見つからなかったのだ。
 ジュールは、母親が何度も離婚と再婚を繰り返すせいで苦労を強いられた。プロスペールにずっと父親でいてほしかったのにそれが母親のせいでできなくなった。新しい父親もろくな男がいなかった。トビも、『デュポン』のときの男も、『ルソー』のときの男もそうだった。それに今、ジュールは母親に殺されそうになっていたが、リュカのおかげで助かったのだ。そう思えてしまった以上、もう、どうでもよくなってしまった。

 ふと気づくと、母親の悲鳴は聞こえなくなっており、疲れた様子のリュカが乱雑に包丁を床に投げ捨てたところだった。
 床に転がった包丁は、血だらけで白目を剥く母親だった肉塊の横に転がる。体を滅多刺しにされた彼女は、もうすっかり動かなくなっていた。さっき迄あんなにうるさく喚いていたのに、もう、部屋は静まり返っていた。
 リュカは、ふぅと長く息を吐いてから、冷たい眼差しをジュールに向ける。その色は、普段と変わらぬトパーズを思わせるものなのに、凍えるような冷たさが宿っていた。彼は、続けて薄く口を開いてぽつぽつと言葉をこぼす。

…………よていが、くるった。けど、まだ、なんとかなる。……やから、うごかな」
「え、予定? 動く?」
……とりあえず、ジュール、立てる?」
……え、あ……
……たてへん?  ならええで、そのままで。でも、これから、やることがあるから、ようきいて」
…………うん」

 ジュールは、よく分からないままに、リュカのゆったりとした言葉に耳を傾けた。トラブルに直面して弟にこんなふうに言われるなんて変だと考えつつも、とりあえず静かにすることにした。
 ジュールの沈黙を理解したリュカは、徐に『やること』について話し始める。

……とりあえず、いまからぼくはそとにいって、ゲランおじさんをよんでくるで、すこしまってて」
…………えっ?」
……そのひとに、ぜんぶまかしたら……だんないから大丈夫だから。そのひとのいうこと、よぅきいたら、なんとかなる」
「あ、え、ゲランおじさんって、だれ?」
……このあと、ここのおかたづけを、してくれるひと」
…………おまわりさん、のとこ、は?」
……いかんし、よばんよ?」
「なんで!? ちゃんと、よばな、ちゃんと、ごめんなさいって、いわな」

 リュカが言うことは、ジュールには信じ難い事だった。知らない人の名前を出されただけでなく、まさか警察を呼ぶこともしないとは。こんなこと許されるはずがない。それに、片付けるだなんて、母親とトビをどうするのか。ジュールはリュカの言うことを何も理解できずなんとかして抵抗し、警察を呼びに行こうと立ち上がったが、リュカは服の裾を掴みジュールを引き止める。

「なんやねん」
……おとなっていうのは、こどもがひとをころしたっていっても、しんじてくれんよ」
「はぁ?」

 妙に純真な丸い瞳でジュールを見上げるリュカに奇妙な違和感を抱きながら、彼は、静かに紡がれる弟の言葉に耳を傾けた。

……おとなはね、こどもは、すなおで、ええこで、うそをつかものっておもってんねん。しかも、そんな、だれかをわるういうような、えげつないうそはいわんって、おもうんやって。へんやんな」
…………っ、あ、あぁ……
……しかも、な、ぼくは5さい、ジュールは9さい。ぼくたちが、おとうさんとおかあさんをころしたっていったって、しんじてくれんよ。おとなに、いわされてるって、おもうで」
……そんな、こと、あらへんやろ……
……まぁ、そんなこと、あらへんかもしれんね。やけど、ね、ええんよ、むりして、いわんでも」

 リュカの言っていることは理解できた。確かに、自分たちのような子供が自首したところで警察に信じてもらえるわけがないとは思う。9歳と5歳の子供が親を殺すなんて、物理的に心情的に不可能と思われるからだろう。しかし、現に、自分たちはやってしまったのだ。ならば、信じてもらえるか否かは置いておいて、一旦言うべきではないのか? その信念の元、ジュールはリュカの説得を試みた。だが、結局リュカの気持ちが変わることはなく、彼は、『ゲランおじさん』とやらを呼びに行ってしまった。

 床に血が広がり、血の匂いが充満し、母親とトビが白目を向いて横たわる部屋の中。ジュールは、弟に強く言うことも、弟を無視して行動することもできない自分を情けなく思いながら、ただ、静かに涙を流していた。