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青果
2023-02-27 21:54:04
7042文字
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鵬翼に乗れ
秘密(トップ・シークレット)の薪さんと鈴木と青木。街の光。
遠くに高架の重なりが見えている。
都会の夜は青い。空というのは太陽が出ている間は薄い綿を敷いたような色なのに、夜になると群青になる。その群青が地面に落ちて、都会の夜は闇よりも青い。
道は車のヘッドライトで照らされて、川のように流れていく。青い夜に流れる白い川だ。そのさざなみに、高架の影が重なって色を複雑にしている。薪は何層にもなる錦玉のような光を充分に眺めた。
首都高速は街よりも一段高いところにある。だから、外を眺めると遠くまで見渡せた。老朽化による首都高速の補修作業は薪が幼少のころから進んでいる。このあたりは開通からもっとも時間が経っていることもあって、優先的に進められていたようだ。芝浦ジャンクションと大井ジャンクションの高架の重なりは、文明の罪の体現かのようなさびれた気配を、数十年前から表面上は失っている。薪が日常的にここを通るようになってからは、ここはすでにこういうところだった。だが、剥げた塗装がなくとも、錆び付いた鋲が見えていなくとも、平野を切り開いて線をつけた刃の乱暴さは感じ取れた。薪は、この首都高速がひかれる前の東京を歴史資料でしか知らない。それでも、当時の日本社会の前線がどんなものであったか想像できる。その社会を経た現在がどんなものであるにせよ、当時の彼らにとってここに敷かれる首都高速は憂いそのものだったに違いない。
現在の東京にある憂いは現在のものだが、過去の憂いも同様に存在し、どんなに美しく整えても存在した事実は消え去らない。
だが薪が見下ろす限りの景色は、現在にも過去にも憂いがないかのようだった。対向車線を行く自動車のヘッドライトが、薪の視界に稜線を描く。高いビジネスビルはどのフロアも煌々と電気が灯っていてまぶしいくらいだ。
高層マンションとビジネスビルとで違うのは、窓の大きさと光の色だった。ビジネスビルは一様に白くはっきりとした明かりだ。高層マンションの窓から漏れる光は、窓によって色が違う。家庭によって好む光はばらばらだからだ。蛍光灯の白の中に、眠りをさまたげない琥珀色の光も混じっている。家庭の数だけ生活が違う。光の数だけ、窓の向こうに生活がある。
ビジネス街の中にちらほらとあった住宅が少なくなっていき、車は東京湾に近づく。
目まぐるしく視界を流れるビルの看板に、色とりどりのLEDがちかちかと光っている。遊園地のような色をしていて目を引く。それらを見つめながら、薪は自分の頭の中にある地図と照らし合わせた。知っている景色と変わりないようだ、と思った。
首都高速を走る車向けの広告サイネージで、物流倉庫の宣伝が流れていた。若い男性があれこれとサービスを紹介しているが音声は流れないので、すべて字幕だった。画面に映り続ける男性が画面を見ているこちら側に笑いかけてきたとき、薪は画面から視線を外した。ついさっき、叱りつけた部下と年頃が同じだった。
「後からそんなに気にするんなら、あんな言い方しなきゃいいのに」
運転席からやわらかな笑い混じりに聞こえてくる声に、薪は答えなかった。
視線を外した先には東京湾があって、黒いインクの海に光を反射した白い波が編み目を作っている。東京では水平線が見えない。
薪が答えなくても、運転席の男は気にせずに話を続けた。窓ガラスに映る男の頬を、薪は視界の端でだけとらえた。
「もう仕事任せてもらえないかもって不安がってたし、薪はこれくらいの遅れで機会丸ごと摘むようなことしないよって言っておいたよ」
薪は黙りつづける。何を言っても、この男相手では決まりが悪くなるのは自分のほうだ。それからしばらく、沈黙が続いた。薪はひっきりなしの対向車線を見つめた。薪が窓ガラスの反射で運転席を見ることができるのと同じように、向こうはバックミラーで薪を見ることができる。
「薪」
「なに」
向こうの声色が言い含めるような気配だったので、耐えきれなくなって応えた。バックミラー越しに目が合う。
「帰ってきたら、あいつの報告書読んでやってよ」
「
……
僕は目を通さずに突っ返したことなんてない」
「薪がいない間は、俺が様子見ておくから」
「あんまり手を出すな。おまえが手を出したところ、僕が気づかないと思うなよ」
「分かってる」
運転席からの返答が、ほほえみの顔で発されたことが分かる。声だけで分かったから、薪はわざわざ顔を確認しなかった。
黒い東京湾に形というものを思い出させるように、薪の視界にまた光が飛び込んできた。地図の形の通りに東京という街はできているのだと明らかになる。海沿いのショッピングセンターと娯楽施設、ときおり高層マンションが生えているのがこのエリアだった。
娯楽施設は一部、明かりが消えている。その反対に高層マンションは明かりが灯りはじめている時間だった。その光のひとつひとつの点を、薪は見た。これは離れすぎているから点のように見えるだけなのだと、薪は知っている。
「向こう着いたら深夜じゃない?」
「うん。でも、ホテルは手配済みらしいから」
「なら、まあ気が楽か」
薪は眉を跳ね上げてバックミラーを見た。運転手は薪のその様子を察して笑うが、ミラーをちらと見ただけで前を見つめ続けた。
「そんなわけあるか。おまえ、明日のプログラム見てないのか?」
「見たよ。薪が80分話すんでしょ、俺、留守番なの残念だな。現地に知り合いがいたら録画送ってもらったんだけど」
「そんなこと絶対に許さないからな」
「緊張してるの?」
車は有明ジャンクションにさしかかって、幾重にも重なる複雑な道がわずかに影を作った。その影がかかるとき、薪は「うん」とも「ううん」ともつかないような返事を、車の走行音に紛れて言った。
自分はふとしたときに軽んじられる。若輩で、これといった後ろ盾が薄いからだ。自分が軽んじられると、話す内容にも重みがないかのように受け取られることがあるのを、薪はよく理解していた。自分に下される評価については現況がどうであれ、パフォーマンスとして揺るぎのない優を出せる自負はあった。でも、もう薪の評価は薪だけを指し示さない。薪は、自分の翼の下にかばいきれない雛を出したくない。それは耐えられない。気負いがちになることを緊張と呼ぶのなら、これは確かに緊張だろうと思った。
薪の前のシートから声がかけられた。
「大丈夫だよ」
「何を根拠に
……
」
「薪の確信は話し方に出るから」
ていよく励まされようとしているのを察して、薪は口をつぐんだ。運転手のほうもそれを察するので黙る。彼は、薪のプライドを守るのが上手い。
車内の空気が薪をやわらかに撫でていった。
車は台場を抜け、もう一度東京湾に出た。このあたりは倉庫が増える。コンテナが規則正しく並び、物流の栄えを感じさせた。対向車線にトラックが定期的に通り、薪の視界を狭くする。
もう一度、岸に戻ると首都高速は運河と並走する。車が移動するのと同じように、モノレールがこの運河の反対側を並走している。
高速道路に一定の間隔で設置されている明かりが車内に差し込んで、影を短くしたり長くしたりした。薪の頬を光がなぞっていくのと同じように、運転席の男の顔も照らす。
まっすぐに進む高速道路を車が進んでいく。二人を乗せている車は、東京の街を抜けようとしていた。
運転手をしている男は片手をハンドルから離し、傍らに転がしたペットボトルを持ち上げる。片手で蓋を開け、中身を飲んだ。背が高い体格に添って、この男の手は大きい。指のあいだにペットボトルの蓋を挟んでも、危なげなくペットボトルを傾けることができた。その手で今度は蓋を閉める。
バックミラーで、目が合った。
「なに?」
「何でもない」
大井ジャンクションを過ぎると、車はまもなく目的地に着く。空港は開けたところにあるものだが、こうして車で移動すると羽田空港は近くだった。渋滞に巻き込まれさえしなければ、三十分もかからない。だからタクシーでいいと言ったのに、この男がどうせ自分もこれから帰りだからと私用車に乗せた。彼は送るよ、という言い方をした。これは運転手の、鈴木の意思でしていることだ。彼が申し出てきた。たかだか数日、出張に出るだけの友人を見送ろうとしている。
薪は指先で、車のシートを撫でつけた。薪の体重のぶんだけ沈んだシートは、自分が立てば元に戻る。
「何時の便だっけ?」
「二十一時十分」
「時間ちょうどいいな、よかった」
うん、と薪は答えた。
道の案内に従って車は進み、空港が近づく。高速道路を降りると、今まで眼下に眺めていた街が自分の視線の高さまで迫ってきた。速さもなくなり、ゆるやかな夜がしんしんと更けはじめている。もう住宅街は背後に流れていった。ここから先は空港がひとつの町だ。
隣に、空港行きのバスが並んだ。薪は目を伏せて、また車のシートを撫でつける。
この車を降りたところで、目的地そのものではない。改めて飛行機に乗る必要があった。鈴木と共に走っているのに、ここで別れるのに、ここが目的地ではない。車を降りたら、薪だけで飛行機に乗る。空へ上がり、雲を切り裂く。ひとりで乗る。
空港の駐車場は広い。
できるだけ建物近くへ寄せて、鈴木は車を停めた。絶え間なく響いていた車の走行音がふっと消える。自動車自体の遮音もあって、音が消えた。薪は横の座席に置いていた荷物を引き寄せて、シートベルトを外した。
「ここでいい」
「え、俺、空港の店、なんか見に行くつもりだったんだけどな」
「こんな時間じゃ、食事以外は閉まってる。それより帰って寝たほうがいい」
「じゃあ、そうしようかな」
シートベルトを外そうとしていた鈴木の手が、ゆっくりとハンドルに戻った。薪はそれを確認して、ドアに手を掛ける。ロックは停車したときに外れていた。
「薪」
はっとした。
なぜか、何十年かぶりに呼ばれたような気がした。ついさっきも、彼は薪と呼んだのに、そう思った。
「行ってらっしゃい」
「ああ
……
行ってくる」
薪はドアを開いた。夜の風が吹き込み、前髪を散らした。同じ風を運転席の鈴木も浴びていた。
まぎわにシートを指先で撫でて、薪は車から降りた。
「薪さん」
呼ばれて目がさめた。眠っていたという意識はなかったが、いまの感覚は確かに「目ざめた」だったので、うとうとしていたのだろう。
顔を上げると、車は赤信号で止まっていた。すぐそこに首都高速へのインター入り口がある。空港から一キロすら走っていない。
薪が飛行機を降りてゲートから出ていったら、出迎えに来たのが青木だった。顔を合わせてすぐ、なんでおまえなんだと一悶着を起こした。彼は警察庁に用があって東京まで出てきたところで、用事が済んで手が空いていたので岡部に遣わされたのだと、慌てた口調で説明した。もっとも、薪はその説明を聞く前から、岡部からの連絡で迎えが青木だと知っていた。
どうやら、薪は車内に乗り込んですぐにまどろんだようだった。
「お疲れのところすみません。お食事がまだだとうかがっていましたので
……
どこか寄りましょうか」
「いや、いい」
「お昼も召し上がる時間なかったんじゃないですか、何か口に入れましょう。あの、インター出てすぐのところの中華屋、和食になっていたんですよ。もう行かれましたか?」
「いや」
いい、と続けようとしたところで、薪は口を閉じた。いまは十九時過ぎで、青木がこの迎えのために第九を出てきた時間を一時間ほど前と仮定すると十八時には出発していないと間に合わない。念のためにと、もう三十分早く出てきていてもおかしくなかった。そして、たとえ早めに空港に着いたところで、この部下は自分だけ食事を済ませておくようなたちではない。
信号が青信号になり、車はゆっくりと発進した。
薪はバックミラー越しに青木の顔を見た。
「旨いのか?」
「はい?」
「その店」
「岡部さんは旨いって言ってましたよ。牡蠣フライ」
薪が黙ったので、「いえ!」と青木が自分の発言を掻き消そうとするかのような大きい声で話した。
「べつに揚げ物の店ってわけじゃないですから! 和食処って看板が」
「大きい声を出すな。車は狭いんだ」
「すみません」
車が首都高速に入る。ゆるやかなカーブを上がり、高架をのぼっていく。その重力の傾きを薪は全身で感じた。背骨が傾き、髪が流れる。
大きく円を描いて、車は高速道路に合流した。トラック混じりの道に投げ出される。薪は対向車線の隙間から、空を見た。群青の空を、飛行機が星を抱えてのぼっていくのが見える。
「そこでいい」
薪の発言の意図を図りかねたのか、青木が「え?」と聞き返す。
「夕食だよ」
「あ、はい! じゃあそこ寄りますね。着いたら起こしますから、お休みになっていてください」
「ああ」
それは決して了承の意味で返したわけではなかったが、青木は満足そうに前を向いた。
車は天に近い道を走り、青い夜を舐めるように進んでいく。首都高速は今も定期的に整備され、東京という街の呼吸はこの血管に支えられている。
台場には特徴的な建物がいくつも建っていて、薪がわずかなあいだまどろんで、再び目を開けても現在地を正確に把握できる。首都高速に向けた液晶サイネージには、人事管理アプリケーションの広告が流れていた。
東京湾の上にかかる橋を渡り、芝浦ジャンクションを過ぎると街に住宅が増える。高層マンションが背を伸ばす足元で瓦屋根が地面を埋めていた。いまは、その窓の向こうで夕食をとっている時間だろう。
家族と食卓を囲んでいる誰かがいる。もしくは、ひとりでうずくまっている誰かがいる。または、電気のない場所で膝を抱える誰かがいる。息を殺して現状に耐える誰かがいる。この道からでは、ひとつひとつの暮らしが光の点にしか見えないが、これは点ではない。
自宅の庭のように馴染み深い町並みが、背後に流れていく。高速道路の白い光のふちには、夜の青がじわじわとにじんでいる。車が走るときに起きる小さな振動が、薪のことも揺らしていた。
高速道路を降りると、すぐの信号が赤だったので停止した。高架ではなくなって、街と薪の視線の高さが揃う。
「薪さん?」
「起きてる」
「すぐそこですから」
薪は頷くだけで青木に答えた。彼がミラーで見ていることは分かっていた。
犬を連れた若い男が、横断歩道を渡っている。犬はぴかぴか光る首輪をつけていて、車からでもよく見えた。その犬が散歩が楽しくてたまらないというように飛び跳ねながら歩くので、連れている男は足をよれよれさせて、笑っている。その向かいからは、夫婦らしい男女が歩いてきていた。ここは彼らにとって知らない町であるようで、二人で手元のスマートフォンを覗き込んでいる。歩きながらでは危ないが、地図を見ているのだろう。手元を見ては周囲と照らし合わせてきょろきょろする。横断歩道を渡りきると、二人はコンビニに入っていった。ガラス張りの店内の様子は、車内からでも見える。二人はレジへ向かい、店員と話をしている。まもなく店員を伴って三人で出てきて、店員が道を指さしあれこれと二人に伝えていた。薪はそれを見て目を細める。
青信号になり、車が進んだ。青木の運転する車は、なめらかに発進する。
「あ、ここです」
青木が右手を指さして、薪はその指先を目で追った。和食処、と看板が出ている。さっぱりとして、新しい店だった。
薪は自分の空腹を感じた。
駐車場に停車すると、薪はシートベルトを外し、自分から車を降りた。青木は車のロックをかけて、後から追ってくる。
店の窓は障子のようになっていて、明かりがやわらかく見える。薪はその光を瞳におさめて、引き戸を開けた。店内のにぎわいが、わっと波のように打ち寄せた。
「いらっしゃいませ!」
店員が近づいてきて、薪に笑いかけた。薪に続いて入ってきた青木が「二人です」と言って、店員に二本指を示した。
店の喧噪を、薪は全身で感じた。鰹だしの香りが湯気とともにただよっている。カウンター席とテーブル席とがあって、カウンターの横にはてりてりとした里芋の煮っ転がしがうつわに盛られていた。カウンター席に座るスーツ姿の男は、魚の煮付けを箸で崩しながら料理人と話して笑っている。彼の緩んだネクタイが、気安さを示しているように見えた。
奥の座敷に案内されて、青木と向かい合わせに座った。
「いい店だな」
と薪が言うと、青木が笑って「ご一緒できてよかったです」と答えた。薪はそれにわずか目尻をゆるめるだけで応じて、壁に貼られたメニューを眺める。
それを読みながら、ここも誰かの家なのだな、と感じた。新しい店だが、もう客の生活に根付いている。会話があり、食事があり、あたたかみがあった。人と人との関わりはここにもある。
薪の翼はかつての部下の翼と重なりあっている。かつての雛は翼を得た。
それを感じた自分を、薪は誇れると思った。
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