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hai__ro
2023-12-31 23:37:56
3728文字
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若モラ
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細波
龍の詩情と人の詩について。
含まれるもの:若モラ
日が傾き始めた淡い空にすら溶けて消えるような音が、若陀龍王の耳に届いた。一滴の雨水が湖面を震わせるような響きだった。
一拍置いて、それは人の声であると気がついた。
冷たい空は青磁のような薄い青色を空に広げて、太陽が褪せた光を滲ませていた。背の低い草がさらさらと笑いながら、薄暗くなりだした空を投影して煤色へ変わっていく。叢を撫でる風と同じように流れていく声は、少し耳を澄ませば聞き慣れたものであり、案外近くに主がいるようだとわかった。
若陀龍王が少し歩くと、大樹の下、予想した通りそこにはモラクスが居た。彼は見つかったと言わんばかりに、ばつが悪そうに眉を下げた。
「ああ、お前か。人の少ないところを選んだつもりだったのだが
……
すまない、耳障りだっただろうか」
「否、ただ
……
貴様がうたっているように聞こえた」
「ふむ」
「それが、人のうたなのか?」
若陀龍王が訊くと、モラクスは均整のとれた顔に笑みを浮かべて答えた。
「ああ、人間の詩だ」
にんげんの、と発された音の羅列はほんの少し嬉しげな雰囲気を纏っていた。彼らの、全く異なる種族の営みをここまで慈しみ守護しようとする心の動きが、若陀龍王には不思議なものだった。されど近頃は、モラクスがこんな穏やかな微笑を浮かべるのなら、人間とはさほど悪いものではないかもと思うようになっていた。
「人間の詩、とはどういうものなのだ」
更に若陀龍王が問うと、モラクスは声を明るくして、
「格律はあるが、難しいものではない。せせらぎも、雲の形も、花の盛衰でも。留めたいと感じたものを
……
韻を踏みながらうたえば詩になる」
と、まさしく詩のようにはなやかに語った。
「吾らの詩と同じだ」
そう若陀龍王が言うと、モラクスの瞳の奥で、朋友との新しい共通点を見つけた喜びがまたたいた。
「ところで、」
若陀龍王は、モラクスがなぜ詩をうたっていたのか聞いた。モラクスはこう答えた。
「仙人たちの間で、詩歌の腕を競うことになったんだ」
「貴様はそういうことになると裁定に回ろうとするだろう」
「今回ばかりはそうはいかなかった」
モラクスが息を吐いて笑う。微妙な表情を陽の名残が薄い金色で彩った。それから冬の訪れに乾いた草の上へと座り込んだ。若陀龍王もそれに続いた。
「貴様は、どんな詩を作ったのだ」
若陀龍王が好奇心からそう訊くと、モラクスは少し困ったように顎をさすった。その表情に、若陀龍王は間違った話題に踏み込んでしまったのではないかと感じたが、しかしそれが自覚的な思考となるよりモラクスが口を開くほうが早かった。
「実は、まだ未完成なんだが、それでもお前さえよければ聞いてくれ」
「よいのか」
「ひとに聞かせないとわからないこともあるだろう」
そう言うと、緊張を飛ばすように咳払いをしてから、モラクスは先程の詩をうたいだした。押韻を踏みながら伸びる声は木枯らしのように澄んでいて、しかし未完成だと言っていたとおりに、織機に並んだ糸が震えるようなわずかな逡巡を伴っていた。
モラクスの声によって、もうひとつの山々の影がそこに浮かび上がる。景色は句を重ねるごとに鮮明になり、渓流の中で鱗をきらめかせる魚さえ見えた。だがモラクスが不意に言葉を止めた途端、全てはふっとかき消えた。モラクスは硬い表情で、「どうだっただろうか」と、聞いた。
「良い詩になるだろう」
「そうだろうか」
「人間の詩情に疎い吾にさえそう思わせたのだ。
……
それとも、貴様はこの吾が虚言を吐くと思うのか?」
「はは、そうだな」
冗談めかして声色を低くした若陀龍王の様子に少し目尻を柔らかくして、モラクスは、思いついたように更に問いかけた。
「お前は、龍の詩も人間と同じだと言ったが」
「うむ」
「どんな詩をうたうんだ?」
若陀龍王はしばし考えた。彼はこちらに応えて心を芸術の形で差し出したのだから、同じものを返すべきだ。だが、たとえ無二の友人であろうとも、俗世の底で脈打つ龍の詩情を預けてもよいものか、とささやくような迷いが失われた大権の空洞から投げ込まれた気がしたのだ。
しかし同時に、あのとき若陀龍王のかたちをひとつも損なうことなく丁寧に彫り出した指先が思い出されて、少なくともモラクスをはかる必要はないのだと沈黙が浮き上がる前に迷いを振り切った。
「古い詩だが」
「ああ」
「長くなるぞ」
「構わない」
モラクスの言葉を合図に、爪を置いた岩が若陀龍王の元素を微量に帯び、共鳴を始める。瞳を持たない岩龍の詩は鉱物の組成をして格律とし、共鳴の波長と周期の組み合わせをして単語とし、複数の単語を法に従い連ねて詩形を成す。
光の時代の遺物、非可聴音の静寂の詩があたりに広がる。日の名残が山岳の影像とともに薄れる。月は銀色の軌道に乗って太陽の後を追う。琉璃百合の蕾が一斉に綻び、露のような月光をその花弁で受け止めた。
「
……
これで一節だ」
悠久を生きる龍の詩は地上の朝夕にはあまりに長い詩であり、本来は龍でないいきものには聞こえない言葉、小さな波のようなものにしか捉えられないものだとしても、彼には共有したかった。
「強く、眩く、重い。とても、うつくしい詩だ」
神は、石の声を聞くからだ。
そこには誤訳がなく、また誤読もない。綴る者の修辞は細心の注意のもと拾い上げられ、歌う者の解釈は一つとして溢れることなく受け取られる。どこまでも正しい、そして誠実だ。
いにしえのうた、遠く遠く遠い時代、もはや意味以外の全てを失ったうただ。若陀龍王の音なき声が再び火を灯し、新たな臓腑を得たうた。
うつくしい詩。
輝ける龍族の詩だ。壮麗たる君主の詩だ。間違いなくそうだ。しかし、若陀龍王の心にはなにかが泥のように積もり、どれに対してか、ちがう、と言いたくなった。その衝動は言葉にしようとするとひどく矮小で、短慮で、見るに堪えない嫉妬の形にしかならないと思えた。友人のためにしたことで友人が喜びを見せたというのに、とんでもなく欲深い者になった気分で、静寂が夜を飾った。
モラクスは、無理にそれを破ることはなく、若陀龍王の大樹のような身体に軽くもたれ掛かる。それは星々と共に思索の海へと潜る時間でもあり、けして当然ではない平穏を享受する時間でもあり、異なる生き物の温度を分かち合う時間でもあるからだ。
うたた寝する子のように岩の胴へ身を預ける、小さな友人の鼓動を感じながら、若陀龍王は考えた。若い男の姿をした彼のせせらぎのように流れる長髪、琥珀色の瞳、草原の上に投げ出された白い爪先、月光に冷えてしまった肌がモラクスと触れたところから仄かに温もりを感じること。その中から、空に溶けた音を、彼が人間を想うときのあの明るい微笑が残光のように思考の中へ差して、ある考えが、脳の裏できらめいた。
「吾にも、人間の詩を教えてくれ」
モラクスが以外そうに瞠目する。同族に宛てて記録し、伝え、留める手段を既に持っているゆえに、わざわざ人の規格を使う理由はないと、考えていたのだろうか。若陀龍王もそう思っていた。
「貴様は人の神なのだから
……
貴様にまつわる詩も人の言葉で記すべきだと思っただけだ」
「俺のことをか?」
「貴様と、貴様の国のことだ」
モラクスが心を砕いたものならば、彼に付き従う人間の産物や、ひいては人間そのものにも、うつくしさを見つけられる気がした。そして、それをあらわすのなら、あの音が最もふさわしいと感じたのだ。
心の一片をさらけ出した身にはひどく長く感じられるたった数秒程度の静寂の後、モラクスが切り出した。
「俺は歌塵や帰終ほど造詣は深くないが
……
基礎的な格律であれば、教えてやろう」
「
……
感謝する」
澄み切った天から月が二人の間を照らしていた。モラクスは、やや黙った後、再びなにかを伝えようと踏み出すように口を開いた。
「若陀」
「うむ」
「
……
お前がどういう思いを込めてあの詩をうたったかは、俺には伝わった」
モラクスは微笑した。
「お前は良い詩人になる。俺が保証しよう」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が沸き立つような情動が若陀龍王の心に湧き上がった。それを若陀龍王は追いかけたくなり、だがそれはひとことふたことでは留めきれない気がして、千の修辞が瞬く間に巡って夜は終わった。
◇
幾度もの夜が西に沈み、花が綻んで、まだ若陀龍王は詩を考えている。光のように果てのない詩を人の語彙で編んでいる。
だが、その心臓は龍のものだ。人のための文字では、人のための韻律では、想いは更に捻れ削れて変形していく。
鉱石を砕いて作った色鮮やかな顔料からもとの石の形を取り出せないように、全ての想いは伝わらないだろう。そして自分すら砕かれる前の石がどんな形だったか忘れてしまうのかもしれない。若陀龍王にはそれがひどく寂しいことに感じられたが、今だけはそれがよかった。
彼の愛したものによってできた、ほんの少しの秘密の錯覚が。読みきれなかった部分を埋めた、形ない理想が。いつかわれらが時間の荒野を流離う時の星になる。
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