ゆい
2023-12-31 13:59:22
4847文字
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唇に密事

【宗みか】みかちゃん誕生日

「そろそろ夕食が出来るよ、準備を‥。影片?」

数秒待っても聞こえない返事に皿を選ぶ手が止まった。何時もならこちらの言葉に被せるようにして喜色に塗れた声が飛んでくるのに、今日はいくら待っても吐息一つ聞こえてこない。澄ました耳にはシチューが柔らかく煮詰まる音と暖房機器の低い稼動音ばかりが届き、本当に欲しいものは湯気の向こうに隠れている。少しでも気を抜けば早足になりそうな心を自覚しながら、努めて丁寧に食器棚の扉を閉めた。エプロンの結び目へ伸ばした指の冷えは洗い物のせいだと言い聞かせ、音を立ててつまみを捻れば予想よりずっと乱暴に火が消える。もう一度名前を呼ぶことすらもどかしく、足と心が縺れないように気を付けてキッチンを出た。夕日に染まるリビングには変事や凶事の痕は勿論無く、数十分前に離れた時と何も変わらず暖かい。そんな幸福な温度の真ん中で、影片がテーブルに突っ伏して眠っていた。ソファーがあるにも関わらず無頓着に座り込んで寝るなんて、見ているだけで身体が痛くなりそうだ。器用なのか不器用なのか時々本当に分からない、皮肉でも本音でもある感想を抱きながら僕も同じようにラグマットの上に座り込む。組んだ腕に埋もれた横顔は息を呑む程に精巧で、規則正しく上下する背中を見なければいっそ絵画のように神々しい。人の気も知らないで呑気なものだと拍子抜けするのと同時に、いつの間にか強く息を止めていたことに気付く。どうせこんなことだろうと八割方分かってはいたのに、結局みっともなく狼狽えてしまった自分が今になって恥ずかしい。昔なら返事などろくに聞いてもいなかったし、聞いたところで何の感情も沸かなかったことだろう。呆れる程に薄情で意固地で独り善がりだった僕にとって、いつかの君は本当にその程度の存在だった。等間隔で聞こえる健やかな寝息を同じ目線で聞きながら、少しずつ輪廓が薄くなっていく過去を懸命に思う。取るに足りないと切り捨てかけたあの日の君が、今では唯一確かな僕の全てと化けるだなんてきっとどの運命も予期していなかった。結果は君の独り勝ち、今更になって僕はあの頃に聞き逃した答えが気になって仕方ないよ。
適温となって漂ってきたメインディッシュの匂いに包まれながらどう起こすべきか迷っていると、ふとテーブルに置かれた空色の缶が目に留まる。僅かに蓋の開いたそれは、確か一ヶ月前くらいに僕が市場で見つけてお土産として影片に買い与えたものだ。猫と雪の影が彫られたブリキの華やかさに惹かれたのだが、影片は確か外より内に詰められたキャラメルに歓声を上げていた。子供のようにあんまりはしゃぐものだから一日一粒の約束をし損ねたことまでついでに思い出し、眼下の満足気な寝顔の理由にようやく至る。

「影片。今すぐ起きなさい」
「‥んん、何や地震‥あれ、お師さん‥?」

思わず強めに揺らした肩につられて闇色の髪がはらはらと散る。母音にもなれない声の切れ端が段々と戯言へ変わり、やがて緩やかに僕を紡ぐ。漣のように睫毛と目蓋へ走った震えが静かに朝と夜を呼び起こす様は、やはり何度見ても目が眩む程に美しい。それはもう思考の余地無く美しい、けれど。その造形のみで僕を誑かそうなんて百年早い、僕は君の目を見張る程にどうしようもない内面だって十分思い知った上で見初めているのだ。
繰り返す瞬きの度に瞳は艶めきを増し、夢見心地だった眼差しが僕を真っ直ぐ捉えるのを待って無防備な頬を両手で挟む。顔を潰される程に包まれて流石に眠気も吹き飛んだのかみるみるうちに瞳が覚醒していくが、僕が口を開く方が少しだけ早い。

「ごはん前に間食だなんて良い度胸だ。君の為を思って繰り返した忠告は、全くもって無駄だったようだね」
「えっ、ちょっなんやの、お師さん怒ってるん?話に全然ついていかれへんのやけど」
「今更とぼけても遅い。君も人間ならば僕の行動の理由を推察してみたまえ」

僕の掌の中で泡のように浮かんで消える言い訳を聞き流しながら、あたふたと落ち着かない表情を見据えてやる。寝起きでも歪んでも生来の美貌には傷や汚れは一つ無い。やや青白い肌も僕の熱を吸ってゆっくりと花開き、この世の春とでも言わんばかりに咲き誇る。疑問符で埋め尽くされた瞳でも嘘みたいに煌めくのだから、本当に乱し甲斐の無い顔だ。だから、腹いせのように僕の意のまま目まぐるしく変わる喜怒哀楽を愛でている。さて今日の色は僕をどう驚かすのだろう。
やっと状況を把握し始めたらしい影片に怒りは少し薄らいで代わりに質の悪い悪戯心が湧いてくる。暫くうろうろと視線を様々に飛ばした後、僕の観察に気付いたらしい影片が何故か急に息を止める。少し見開かれた瞳に映る僕はわざとらしい程の顰めっ面で、楽しんでいるのがバレないようこっそり頬を引き締めた。僕の小細工を知ってか知らずか眼差しは何か言いたげに外され、そのまま再び夜に帰る。あわあわと萎れてばかりだった唇も同じくまるで意を決したように一文字に結ばれて、予想外の反応に今度はこちらが息を詰める番だった。叱られて拗ねた時の顔とは、少し違う。目も口もしっかり閉じて続く小言に備えるにしては待ち方が思い詰めている気もする。触れた頬が先程よりも熱を帯びて悩ましく眉間に寄った皺が僕の何かを咎めている。間抜けと言えば確かにその通りだがどこか疚しいこの顔を僕は何度も見た筈だ。いつどこで君が、そのシチュエーションに思い至った瞬間、目の前でぱちりと星が瞬く。

「えっと、ちゅーは‥せぇへんの?」
「‥いま?」
「わっ違った!?お師さんめっちゃ見てくるからそういうことかなって早とちりしたわ!!うわっ恥ずかしい!!」

息継ぎ無しで最後まで吐き出された真相に身体中の力が一気に抜ける。怒り続ける気力すら砂のように崩れて、もう意味の無くなった手も真っ赤な頬から離れて膝の上で拳になった。あまりの下らなさに項垂れる僕を尻目に、影片は自由になった頬を今度は自分で抑えて照れている。言葉にはならない呻き声が右往左往に喧しいが、今は注意するのも億劫だ。

「‥言いたいことは沢山あるけど。とりあえず僕への認識を即刻改めなさい」
「だってお師さんちゅーするん好きやん‥。目合ったし顔近いし黙っとるしの三拍子揃ったら、それはもう目閉じるやろ」
「僕は時と場合を弁えず口づけしたりしない」

まだ赤い頬を生意気に膨らませて文句を垂れる影片をぴしゃりと言い封じて、すっかり疲れた身体に鞭打ち立ち上がる。縋るように咎めるように僕を追って上向く眼差しはわざと無視して乱れた至る所を手早く直した。こんな茶番で時間を弄する暇は無い、せっかくの御馳走が主役の着席を今か今かと待っているのに。

「早く立って食卓に着きたまえ。つまみ食いでお腹いっぱいとは言わせないよ」
「おれ、つまみ食いなんてしてへんよ」
「キャラメルを前にうたた寝するような粗忽者の釈明は聞かない」
「もしかしてこの缶のこと?キャラメルはもう入ってないんよ。もしかしてお師さんも食べたかった?」

見当外れも甚だしい返しに色んな意味で手が止まり、早々に影片の方へ目を遣ってしまう。ぱちりと噛み合った視線は数秒前までのの蟠りを全て忘れて擽ったそうに僕へ綻ぶ。全く絶えずくるくると忙しない愛だ、翻弄されっぱなしで目を離せない僕の身にもなってくれ。
黙り込んだ僕へ答え合わせと言わんばかりに、踊るように伸びた指が件の蓋を軽やかに開け放つ。ハードカバーの小説くらいの大きさの缶の中には確かに甘い四角は一つも無く、代わりに大小様々な色がぎっしりと詰まっていた。クリスマスツリーにケーキ、猫や花束を模したカードに走り書きで汚れたメモ紙。封の切られた便箋や端の擦れた付箋まである。文箱なのかごみ箱なのか悩む有り様ではあるけれど、見せびらかしてくる影片があんまり嬉しそうだから問い掛けは自分の胸にぐっと留めておく。

「お師さんがくれたカード達が溜まってきてなぁ。ちょうど可愛い箱貰ったからこれに仕舞うことにしたんよ」
「カード類だけで無く、紙屑も混ざっているようだけど」
「屑や無いもん。全部おれの宝物」

歌うように嘯いて影片は一番上のカードを手に取る。二つ折りで開くとサンタクロースが飛び出す仕掛けのそれは、僕が昨日プレゼントと共に渡したものだ。買ったままでは味気無いから少し手を加えはしたけれど、それでも形式通りの挨拶と親愛を余白に書き添えただけ。影片のことだから捨てはしないだろうと思っていたが、僕の切れ端がここまで丁重に扱われているとは思わなかった。新鮮な驚きに少し興味を唆られて、影片の横に屈んで握られたカードと缶の中に控える数多の言葉を見比べる。手元に落ちた影に影片はまた満たされたように目を細め、蝶が羽ばたきを思わせる緩慢さで一度瞬きを零す。

「これはお師さんがおれの為に用意してくれた、世界で唯一おれだけのもんやから。誰にも渡さへん、おれしか読まれへんお師さんの愛や」

一音もぶれずに言い切った声が消えるより早く、影片はカードを顔まで持ち上げて唇を寄せた。形だけの口づけは僕の贈った言葉へ雪のように落ち、伏せた睫毛には先程は無かった色香が灯る。目を見張る間も無く始まって終わった光景に遅れて声を失えば、ゆっくりと目覚めた色違いの星が寸分の狂いも無くこちらを捉え直して笑う。

「これ捨てたらお師さんの裁縫道具、全部焼くから」
「‥同じ失敗を二度はしないよ」

タイミングがずれて少し掠れてしまった答えにも影片は満足顔で頷いてみせる。おおきに、なんて余韻まで浮かれきった返事に腹が立たないと言えば嘘になるが、前科を詰められればぐうの音も出ない。せめて余計なことを言わないように固まっていなければ、カードを胸に抱くやけにすっきりとした表情にすら噛み付いてしまいそうだ。君が僕の欠片まで大切にしてくれることは嬉しい。だけど、それはいつかの僕から溢れた愛で、いくら噛み締めてもこれ以上君を愛することはない。第一、たとえ相手が僕だとしても移り気なんて許されない。

「気が済んだのなら、そろそろおいで」
「あっ、ちょっと待ってこれ仕舞っちゃうわ」
「‥そうだね。出来るだけ早く片付けると良い。さもないと、」
「んあっ‥?」

返答の不穏さを嗅ぎ取ったのか過ぎた横顔に戸惑いが走るが、後悔するにはもう遅い。手遅れな頬を引き寄せてがら空きの唇を少し乱暴にでも塞いでやった。甘くも苦くも無くただ温かいだけの赤は舌の先でも艶めいて、うっかり深みに嵌りそうになるが何とか耐えた。この後の予定も色々と詰まっているし、名残惜しくとも今は触れるだけで我慢しなければ。先程とは打って変わった色めきを帯びて固まる影片を眼下に愛でながら、自分に何度も言い聞かせる。

「過去の自分に嫉妬する僕なんて、流石の君も見たくないだろう?」

現在進行形の愛を日々これでもかと与えているのに、今更振り返る過去なんて要らない筈だ。胸の内でそう付け加えて未だ惚ける輪郭を丁寧に撫でる。どこもかしこも僕の愛で出来ているから美しいと、迷い無く自惚れる程度には今の僕は君が好きで仕方無いらしい。自然と上がる口角と心拍数を自覚しながら、今度はこちらが踊るように身を翻してやる。少し冷えた鍋を温め直したら今日の晩餐に似合う食器を並べよう。愛は形に残るものばかりではない。相手を思って満たした時間や費やす心は義務では無く権利なのだと、他ならぬ君が教えてくれたから。先にキッチンへ向かう僕に言葉にならない音が無数にぶつかってくるが、わざわざ見慣れた怒り顔の為に振り向くのも詰まらない。文句も不平も君から溢れた愛しい欠片、どうせなら二人向かい合って美味しい料理と共に残さず飲み干そうじゃないか。ばたばたと立ち上がる気配を背中で聞きながら、来たる食卓に小さく口笛を吹いた。