ある日、怪物と魔王がやってきた。どいつもこいつも人間に憧れたのか、人間の肉体の内も外も無差別に模倣した肉をその体にぶら下げていた。性質は狂暴で、見かけ次第倒す他なかった。見ているだけでグロテスクで吐き気がする様な見た目だった、と仲間が語ったのを覚えている。魔物か人間か、どっちつかずで暴れまわる存在は世界から見て都合が悪かったようで、神様が、たまたま街の教会の門を通りがかっただけのわたしを媒介に、仲間を九人も集め、ひょんなことからついて来た子馬一匹も入れて、これらを討伐することになった。時間が経つにつれ、あれらの数が増し破壊活動も活発になって次第に世間に知られていけば、この頃国家間の戦争には飽いた至極穏やかな人間社会にも明確な脅威に映ったようで、気が付けば国を巻き込んだ旅になっていた。
妙に壮大だった旅路は、個人間、仲間間、国家間の別なく過去に由来した葛藤やら因縁やらの紆余曲折に盛大に振り回されつつも、およそ一年で諸悪の根源を断ち、終わりを迎えた。結局怪物やら魔王やらのせいで死ぬ人間もいなかったから、わたしにとっては愉快な旅の一つになった。
無事神様からの依頼を果たしたわたし達は幾ばくかの休暇を、子馬はしれっと人の姿と今後の就職先の二つを強請り、全て叶えてもらった。その休暇も終われば、皆それぞれの日常に戻った。仲間の大体半分がこの旅を始めた頃より、重荷を下ろしたように晴れやかな顔をして戻っていった。もう半分の面子は全く変わりがないようだった。
いずれにせよ、それなりに上手くやろうとしているのは皆変わりがなかった。この旅に関しては、大団円と言っても良かったのだろう。
全部覚えていたいな、と我ながら柄にもない感傷を抱きながら、快晴の下、心持ちは変わりなく、旅人としてまだ見ぬ新天地を目指し旅立った。
それから一年が経った。
海を超えた先の国の宿で、今日見たこと、この国の歴史や文化などを日記帳に記していた。トピックだけは学者然として重苦しいが、何も堅苦しい事は書いていない。ここでは珍しい風見鶏が廃墟の上で物寂しく回っていただとか、今日食べた鯛の刺身はさっぱりしていて美味しかっただとか。差し障りのない事ばかり書いていた。見た事、聞いた事、経験した事を覚えていられるわたしに記録の必要性はなかったが、それでも何となく続けていた。意味のなさそうな習慣であっても何かの拍子で始めて、惰性で続けて習慣になってしまったから、毎日やっておかなければ座りが悪かった。
今日は何から書こうか、明日にはこの国を出る予定だから今度はどこに行こうかと思案していれば、こつこつとノックの音がした。全くの不意打ちにビクリと肩が跳ねる。後ろを振り返ってドアを見れば、更に強い音で再び、こんこんと鳴った。
ドアから聞こえてくるのではない。窓だ。ドアと正反対にある窓から聞こえてきた。
急な雨が窓を叩いた訳ではないのだろうと、観念して正面を向けば、黒い毛の塊が飛び込んできた。平静に眺めていれば、黒い髪の毛と、その束に埋もれた馬の耳が見えてくる。逆さ吊りのそれを辿って、重力に逆らう方向に視線を動かす。
白い額を越えたら、これはまた真っ黒な瞳とばっちり視線がかち合った。
ロイがいた。偶然旅についてきた馬で、今や人の子供の姿と職をもらった娘だ。彼女の手を完全に隠すほど長い袖をゆらゆら揺らしながら、口がぱくぱくと動かしている。窓越しだというのにぼんやりと声が聞こえた。
「しおん。あけてください」
彼女の望み通り窓を開けてやる。夜風はなく、外と室内の温度の差はないように感じた。
「ここ二階なんだけど」
ロイに開口一番ぼやけば、舌足らずに彼女は「せいきるーとでいくのは、むりだったので」とくすりくすりと笑った。反面、耳は後ろに深く倒れている。それで事の次第を漠然と把握する。流石に元の馬のスペックは据え置きだとはいえ、今は幼い少女の姿だ。ロビーで手続きをしようにも子供だからと門前払いを食うだろうし、実際完了した出来事なのだろう。そうだとしても、窓から入る強硬策に躊躇いがないのは子馬故か。
このまま話すのも忍びないので部屋に入れてやる。すると、逆さ吊りだった彼女はくるっと一回転して華麗に部屋の中に飛び込んできた。
着地の出来に満足げなロイの顔を見て、ふと、自分が所有する部屋でもないのに客人を勝手に入れるのも良くはないかと思ったが、もう入れてしまった以上は仕方がないのでアメニティのお茶を入れてやる事にした。玄関前の棚に置いてあるマグカップを取りに行く。そしてカップの脇にあった緑茶のティーバッグを開封して、これもまた側にあったポットの丁度沸かしてあったお湯をとぷとぷカップに注ぐ。
「それで何の用? 神様の所の仕事、閑散期とかないと思うんだけど」
「そのとおり、ないはずなんですよ。いがいといそがしいんです、とくにあのひとは。ぶかがぜんぜんもどってこないとか、ふじょーりがうんたらかんたらって、ほんにんがかけずりまわっています」
「直属の上司に対してちょっと他人事じゃない?」
「こどもだからしかたないですね。どっちみち、せんもんがいでけんげんぶそくだから、なかまはずれですし」
茶を作っている間にロイはちょこんとベッドに座っていた。出来上がったお茶を差し出せば、袖越しに取っ手をちゃんと掴んで、湯気が立つそれをすぐにこくこく飲みながら彼女は口を開けた。ふう、と深いため息に似た息が出ていく。
「まあ、苦労している様で」
「くろうというか、きがかりというか。もうすこし、たよってもいいのに」
「それこそ子供だからどこまで頼るべきか持て余してるんでしょ」
「べつに、わたしにかぎったことではなくって。なんというか、もっと、こう」
珍しく言い淀んだロイは、ふと現れた沈黙を誤魔化すように、お茶をもう一啜りして、倒れた耳をそのままに舌を出した。
「あっつ、ほてるのしゃわーみたい」ぎゅっと眉を顔の中央に寄せている。
「ホテルのシャワー程じゃないよ。で、用件は」
自分の分のお茶もついでに作って、書物机に戻った。ロイを迎え入れるために開け放ったままだった窓を閉める。ついでにちらりと覗いた外には星々が輝いていた。
それから一口お茶を啜って、確かに熱過ぎるなと唇を舐める。
「わあ、たんとうちょくにゅう。かみさまからのたのみごとですよ」
ロイはもったいぶる事なく、気安い調子であっさりと言い放つ。
あの一年間の旅を頼まれた、というよりは専ら強制的に送り出されたあの時のことを思い出して、思わず顔を顰める。あの時も、こんな軽口を叩くように重大な仕事を押し付けられた。
「え〜、普通に受けたくないな」
「まあまあ、そういわずに」
「……分かってるよ。拒否権はないし。またわたしの所に来たってことは、怪物の残党でも出たの?」
ロイに窘められて、退治に慣れているのは自分だろうという認識で渋々口にした推論を、ロイは首を振ってあっさり否定した。
「あのたびのそんざい、なくなっちゃいました」
あっけらかんな答えにますます眉間に力が入る。ため息が二つ、重なった。
この世界では人間や国、さらに言えば何かしらの概念も含めて、とにかくこの世界に存在するものがふっと消えることがよくある。テレビの中の有名人も平和な国も、栞を挟んだ本も、昨日までの隣人も関係なく、無作為に不意に居なくなる。
それも常に存在ごとだった。存在ごと消滅して、時間を遡って存在しないことになる。存在が消えれば人間は消えたものに関して何も認識できなくなる。しかも認識できなくなった事にすら気が付かないようにして消えていく。詰まる所、初めから居なかった事になるのだ。多分、認識が都合良く補正されているのだろう。それが世界の構造か人間の適応かは知らない。はぐれ者には知る由もない。
自分の様な人間でない者だけがなくなった存在を知っている。覚えている。
そこまでは分かっていたし、今更珍しくもない。
至極詰まらない事実を態々定義まで頭で反芻したのには、一つ引っかかることがあったからだった。
「歴史とか、既に終わった事実が失くなること、今までなかったでしょ?」
「そう。こまっちゃいますよね」
「困るどころじゃないでしょ」
へらりと笑って頷くロイに眉間を押さえる。せっかく茶を作ったというのに、飲む気分にはならない話題だった。
「……あの旅がないことになったなら、皆の今の生活はどうなったの? それもなくなった?」
恐る恐る浮かんだ問いを口にする。過去と現在は一つなぎの筈だ。旅自体が消えたのであれば、旅に由来して芽生えた結果まで消えてしまうのではないかと懸念していた。それにその結果が消えれば連帯的に消えるものがあれば、その連帯的に消えるものが他の何かを構成していたらどうなるのだろうか。翻って延々と逆戻りする事態も想像に難くない。
ロイの耳がぴこりと立ち、わたしの鼻先をじっと見つめる。何かを量っているようだった。
「そこまではなくなってないみたいですよ。たびのえいきょうと、ほんだいじゃないところはのこってます」
「本題じゃない所?」
一番の懸念点が払拭されて安堵する間もない。あの旅の本題と本題ではない所とは何だろうか。首を傾げるわたしの疑問を察したようで、何を言わずともロイが補足を始めた。
「ようするに、とうばつにかんけいがないぶぶん、にちじょうぶぶんはぶじみたいです。やどやのおじさんは、みなさんのことおぼえてましたし。なんでとまっていたかはわすれているみたいですけど。ぎりぎりなかんじですね」
「何というか、杜撰な消し方」
「いまさらじゃないですか。そんざいがたんぽされないじてんで、このせかい、おわってますよ」
結構な毒を吐きながら、ずぞぞ、と彼女はお茶を飲み干した。それから退屈しのぎにか、床につかない足をプラプラさせて、顔をちょっとそらした。
「それはそうだけど」
戸惑いが残る。何かが消えるとき、消すものの本論か与論かを細々気にして分けるような分別が世界にあっただろうか。
悩むわたしをよそにロイはコップを袖越しに撫でている。
「そういうことで、おうかがいをたてにきました。きゅうけつきなら、きおく、あるでしょう」
それからわたしをすっと見上げた。真っ黒な目がわたしの顔を捉える。わたしの怪訝な表情が真っ黒な瞳に映っている。
お伺いと言ってはいるが、取引相手は神様らしくやっている者なのだから一方的な話だ。はなから拒否権はない。それに勝手に世界から記憶を取り上げられた仲間達の事を考えれば、積極的に断る理由もなかった。
「……先方は、わたしに何しろって?」
瞼が一度、二度降りて、ロイは口を開いた。
「かいてください。たびのにちじょうのこと。ほんだいにはふれないで、のこったぶぶんだけで、そんざいをあったことにするために」
「そんな枝葉末節で失われた存在を取り戻せるとは思えないけど」
「えだはがあれば、とうぜんみきもあるでしょう。こうぞうのすいろんです。こんかいもおなじです。あったことにするんです。うしわれたけれど、かつてあったんだろうって。それができれば、おんのじってやつですよ」
「書物でしか言及がない焼失した文化財みたいにすると。とんでもない屁理屈だね」
「そのへりくつをじつげんできれば、それでいいじゃないですか。かんぜんになくなって、なにもかもちゅうぶらりんで、さいあくはじめにもどるよりは、はるかにましですよ」
とんだ無茶振りをされた、と思った。引き受ける手前言うべきではないのだろうが。
「……やっぱロイが書くんじゃ駄目?」と苦し紛れに呟くと、彼女はぶんぶんと首を横に振る。
「うまなのでむりです。にんげんのぶんしょう、かくの。あとふつうにしごとがあるので。へんしゅうしゃにしかなれません」
吸血鬼にだって書けない、と反射的に言いそうになって止めた。喉の奥に言い淀んだ言葉が閊えた気がした。
「編集者にはなるつもりなんだ」
代替の台詞を吐けば、えへん、と何故か満足げな顔を見せるロイを横目に、ぼりぼりと頭を掻く。
要件は旅の全容を完全に覚えている事、この一点だった。となると、思い浮かぶ顔がちらほらある。仲間の中には人間ではない者も当然のような顔をして混ざっていた。全員が全員、性質として完璧な善人とは言えなかったが。
「わたし以外に、三人は覚えてる面子いると思うんだけど」と口にした。これが無駄なあがきであることには目を瞑る。わたしひとりにこれが降りかかるのは何となく癪だった。
予想通りロイは首を振る。
「あのひとたちは、そろいもそろって、しんらいできないかたりてなのでだめです。こうぎのじんがいらしいじんがいなの、しってるでしょ」呆れた様な口調だった。
「適切な人事評価で腹立つな」
すこぶる長いため息が出て仕方がない。妙に編集者らしく分析して却下するので返す言葉がない。
人間の文章を書くことを渋りに渋るわたしへ「それに」とロイは言葉を継ぐ。
「いまのこっているぶぶんも、いつなくなるのか。わかったものじゃない。めをつむるわけじゃ、ないですよね?」
人質を取るような台詞だ。痛い所を突かれた。
閊えた喉から声はスムーズに出てこなかった。
「……そんなつもりはないよ。それに拒否権は元々ないんだから、ただの悪あがきだよ。無駄な事だとは分かってた」
「むだだとはおもいませんけど。でも、ま、きょひけんないのはじじつですね」
「君の上司のそういう所が嫌い」
積年の恨み言を溢せば、きっとロイからすれば良く懐いているひとへの悪態であったろうに、彼女はあははと笑い声を上げた。
「じゃ、こころよくうけてくれる、ということでいいですか」
「大概不愉快だけどいいよ。あったものがなくなるの、癪に障るのは本当だから」
なにより、あの旅の中で確かにあった人間の仲間達の苦悩が失われるのが一番嫌だった。皆、人間らしく悩んで、衝突して、乗り越えて。旅の終わりにそこそこ前向きに生きようとしていたのに。
生の経験を世界に取り上げられて、当の本人達は人間だから何も気がつけない。目に余る不条理だった。それが板に付いた世界とはいえ、所詮わたしがあの旅の残部を書いたところで存在を固定できないとはいえ、看過できない。
やっと依頼を受理したわたしを見て、ロイは「やったー」と万歳をした。満面の笑みで。こうして見ると本当に子どものようにしか見えない。先程の可愛くはないやり取りをしていた相手だとは思えない。
釣られて綻びそうになるほくほくとした笑顔で、彼女は衝撃的な言葉を放った。
「あした、もどりましょうね。あのたびがはじまったところに」
「……なんで?」
「かきものにはしゅざいがだいじ、ですから。だれがなにをおぼえているか。はあくしておかないと」
ぱちり、とウィンクをされる。一方、わたしは口の端がひくひくしてきた。丁度、ここを出る準備をしていたところだが、それにしたって急に言われても困る。
「ちょうどあした、でるよていですよね? じゃあいいじゃないですか、さとがえりみたいなものです」
えへらえへらとロイは笑ってこちらによって来る。反面、引き摺ってでもわたしの予定を変えさせる気であるのが笑顔の裏からひしひしと伝わってきた。こうなった彼女は頑固で、意思を梃子でも曲げないので最早なんの言葉も出なかった。
「本当に丁度良い時期に来たよ。狙いを良くつけてるもんだね」
「あはは、あしたはきしゃのりますよ」
するりと出た疑義もさらりと躱して、ロイはオレンジ色の切符を差し出した。身長が低いからわたしの腹に突き付けるようだった。
受け取らない選択肢は与えられていなかったので、それを指で挟む。久しぶりの厚さだった。ここ最近は自分の足で地面を踏みつけるばかりの、効率が悪くて原初的な移動方法ばかり採用していた。
切符を上着のポケットに突っ込む。勢いあまってくしゃ、と折れた気がした。
特段気にすることもなく、「ほら、ロイの荷物も入れておくから出すもの出して」と部屋の隅に投げた旅行鞄を再び開いた。
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