わたしの家族は皆、不器用だった。いつも言葉が足りないか、最後まで届かないかするような口下手で、少しばかり不運体質だった。それは良く商売を生業にできたものだと思うほどのもので、そしてきっとわたしも例外ではなかった。
幼い頃は病気をしがちでずっと自室に籠もっていた。子どもが三人ぐらい寝てもスペースが余るようなベッドに横たわってばかりで、装飾された引き出しのあった机も大きな本棚やクローゼットも、それでも余りある部屋のスペースを持て余していた。かつてのわたしの世界は寝具の上に収まっていた。
部屋には愛想の良い、殆ど専属だった使用人が日常生活のあれそれや暇を見つけて来るぐらいだった。父も母も兄もいるはずなのに滅多に来ることがなかった。今となっては当時の父母の海外赴任と不運な事情も、「妹に負担をかけないように」というわたしには秘密だった言いつけの、兄なりの極端な解釈も分かるけれど、当時の自分は子どもで知る由もなかったから、ずっと見捨てられたのだろうなと考えながら、広い庭を自室から見下ろしていた。太陽の下、学校へと向かう兄が酷く羨ましかったし、大きくなればきっと出て行こうと思っていた。
そして、実際出て行ったのだけれど、それでも家のことが忘れられないで、頭のどこかでずっと引っかかっていた。それがあの部屋の孤独感だけであれば、それはそれで良かったのだろうけれど、そうはならなかった。
誕生日が来ると、ふと思い出すことがある。
八歳になったときの誕生日だ。
夜、珍しくうきうきした気持ちでベッドから起き上がって、いつもの使用人が来るのを待っていた。
誕生日は子どもの時から楽しみにしていた、数少ないイベントだった。ケーキやいつもより少し豪勢な料理が食べられるし、それに数少ない父母との繋がりを、たった一枚のバースデーカードだけでも、確かに感じられたのだ。いつしか捻くれていって、そのカードに目を通すこともなくなったけれど、それでもその一枚が来ないなんてことは、微塵も考えたことがなかった。
でも二つ上の兄からは何もなかった。ただわたしが知るのは、日差しの中を一人歩いて行く後ろ姿だけだった。それだけ繋がりが希薄だったし、もうそういうものなのだと飲み込んでいた。
何も思わなかったわけではない。でも、誕生日にそんなことを考えたくなかった。
だから、なるべく楽しいこと、これから食べるであろう料理のことや読み聞かせてくれるであろう物語のことばかり想像していた。
そしてドアが開けられて、使用人の彼女が顔を出す。部屋の中に香ばしい香りが漂ってくる。それが一等好きだった。
目の前に少しずつ並べられるチキンやサラダ、メインのショートケーキにわくわくと目を輝かせる傍ら、視界の隅に何かが引っかかった。料理からちょっとだけ視線をワゴンにずらしてみると。
不格好なカップケーキが一つ、置いてあった。
料理はいつも料理人が作っていた。お菓子の類いならそういうのが得意な使用人が作ることもある。父母はこのときも家にいなかった。
だから、誰が作ったのか、何となく分かってしまった。
それも渡されて、でも何となく食べずにいたら、あっという間に時間が過ぎていた。おなかが一杯なのかと慮る彼女に、心配いらないと帰して、電気を消してから、漸く一口食べた。ほんのりと甘くて、なんだか分からないけれど胸の中がぐちゃぐちゃとかき回される心地がした。
それからは不格好なカップケーキも毎年、来るようになった。家を出て行くまで、一回も欠かすことなく。
年々、酷く心が揺さぶられるのに、毎回来るそれをいつも無碍にすることはできなくて、誕生日の最後に食べていた。月や星を見上げながら、一人、砂糖の味を噛みしめていた。
それだけの繋がりをずっと忘れられないでいる。
「何であっても、功罪併せ持つものですよ」
だからそれをどう判断するかはあなたの自由です、と別れ間際、柔い眼差しで微笑む使用人であった彼女の言葉が身につまされる。
◇◇
あの旅が終わってから早三年。色々なことがあって、人生の岐路を迎えることになって、久方振りに、本当に五年も経ってから家に戻っていった。それから漸く今の今までの心情を吐き出すことができて、関係を元に戻すことができた。
とはいえ、今までの繋がりというものが余りにも希薄すぎたから、今のところは何か劇的に変わった訳ではない。それでも肩の荷を一つ下ろせたのだから、大した成果だと思う。
六時の教会の鐘がなった頃、そろそろ帰ってくるかな、と家のソファでぼんやりとしていた。職場が近い家というのは、こういうとき良いなと思う。日常の、未だに受け止め切れていない小さい幸せを感じていると、ふとカレンダーが目に入る。そういえば、今日は私の誕生日だった。日々の家事や仕事をこなしている内に、殆ど忘れかけていた。
ふと、不格好なカップケーキのことを思い出して、胸の中がじんわりと熱くかき回される心地がする。
理由は何となく分かっていた。とても単純な話だった。
でも、もう求められるものでもないのだろう。関係が直ったと言っても、その間にあるブランクが大きすぎて、わたしも大人になってしまった。
そんな感傷よりも、御夕飯をどうするかと思考を切り替えようと、冷蔵庫に向かおうとしたとき。がちゃりと鍵が開いた。すうっと冷たくなってきた風が吹き抜けていく。
「おかえり」
と、冷蔵庫を覗くのは後にして、いつも通り玄関まで顔を出しに行って、絶句した。
「ただいま。なんか、玄関にジルくんいたから連れてきたよ」
ケロリとした顔でソウくんの後ろに、しっかりと腕を捕まれた兄がいた。少しばかり大きい鞄を持っていて、思い切り引っ張られたのか、よたよたとふらつき、長い襟足を一つに纏めるリボンが曲がっていたのが見えた。
言葉が出ないなんてこと実際にあるんだと、半分ぐらい思考を放棄する。多分突然連行されたせいか、兄もただただ気まずそうに俯いて黙っている。ソウくんだけが平然と、靴も脱がないで立っている。
どう切り出したものか。まだ放棄していない半分で思考するけれど、中々まとまらない。気まずい沈黙が立ちこめていくばかりで、埒があかない。「どうしたの」と、それだけの一言が中々言えなくて、一回深呼吸しようと息を吸って、吐いた息はずっと言葉にならない。喉に何か引っかかっている。
でも言わないと、と焦っている内に、兄の方が落ち着くのが早かったようで、すっと前に出て、鞄の中を漁る。そして、中身を差し出される。
封筒が二つ。手紙らしかった。宛名はない。
「親から。誕生日だけど、迷ってたから。持ってきた」
とつとつと、簡潔に並べられた言葉を受け止めきれないまま、おずおずとそれを受け取る。
「あ、りがとう」
五年ぶりのそれに、胸の辺りが詰まって、上手く声が出てこなくて掠れた。もう早く家の奥に引っ込みたいような、でももう少し話してみたいような相反する気持ちがぐるぐる回る。
「要件は以上。…………じゃあ」
鞄の中をたっぷりの間を使って確認してから、兄はそう言った。少しだけ浮いた心がざわざわとしだす。心だけが騒ぎながら走って行って、言葉が全然追いつかない。絶対に何も言わなかったら後悔すると分かっているのに、中々口は開いてくれない。
「ジルくんは良いの? ビニールか何か、中でカサカサ言ってるし、まだ何かあるんじゃない」
帰ってきた挨拶をしたきり、ずっと黙っていたソウくんが切り出した。目線は兄の口が開いた鞄にある。多分、身長の都合で、中身が見えていたのだろう。兄は動揺しているようで、瞬きを繰り返していた。
ふっと息を吐く。それから吸って、漸く声を出す。
「そう、だね。ジルからは、ないの。カードとか、ケーキとか」
ケーキという言葉に、ピクリと兄のまぶたが動いた。
きっと、もっと言葉があったと思った。でも一度出してしまったものは戻せない。だから、もうそこは諦めて、言わないよりはずっと良いと信じる。
顔を上げて、兄を見つめる。目が合って、それからまたすぐにそらされて、鞄の中へと吸い寄せられていく。また間が空いて、でも今度は手紙を出すまでのそれよりも早く破られる。また手を入れて、小さい透明な袋が取り出された。そっと手を伸ばせば、今度は兄の方がおずおずと渡す。
中身は相変わらず不格好なのね、とつい笑みがこぼれる。
「ありがとう。……ずっと好きだった、これ」
やっと言えた思いに、少し肩が軽くなる。兄が何も言わないので、ソウくんの方を見やると眉根を下げて、世話がかかるなあと言いたげにしながら、それでも笑って見守っていた。きっと全部分かっていたのだろう。頭が上がらないと思う。
視線を元に戻すと、兄はまだぱちぱちと瞬きを繰り返していて、でもそれから不器用に口の端を持ち上げて「誕生日おめでとう」と呟いた。
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