だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。──ヨハネによる福音書 20:23
この一節を引いて、信仰によって罪が贖われ、全て神に赦されるのだと語るソウくんの眼差しが、やたらと無機質で寂しそうだったから。
わたしもつい、疑ってしまったのだ。
夕飯の片付けが案外早く終わって、少しだけ早く部屋に戻ったら、ソウくんが泣いていた。
廊下の明かりが部屋の中に差し込んで、彼の顔を照らす。
無表情で、静かに、淡々とベッドに座っていた。しゃくりあげたり鼻を啜ることもなく、ただ涙だけがぽろぽろと落ちていく。泣いていることを自覚していないようにも見えた。
一瞬、ドアを閉めるのも忘れて立ち尽くす。
そのままぱちり、と目が合った。
その白い瞳が、目の縁に引っかかった雫が、一緒にきらきらと光を跳ね返していたものだから。
ああ、とても綺麗だな、と思った。思ってしまった。
とくんと胸のあたりが跳ねて、目を逸らした。明らかに場違いな動揺だった。
誤魔化すように、後ろ手にドアを閉める。
それでも罰が悪くて、わざわざ背中合わせに腰掛けた。それとほぼ同時に、背後から衣擦れの音が聞こえた。
振り返りたい気持ちをぐっと押さえ込む。
「どうしたの。電気もつけないで、ね」
単刀直入に投げかけてみれば、「別に、大丈夫だよ」と返ってきた。こもった声だった。
「本当に?」
重ねて尋ねれば、しんと静まり返った。ダメ押しで更に重ねる。
「顔見ても良い?」
「それは、ちょっと。……困る、かな」
「ふふ、じゃあこのまま話そっか」
ね、と笑うと、ソウくんもふっと息だけを吐き出すようにして、やっと笑ったのだと思う。顔が見えないから、確信は持てないけれど。
彼が裏でちいさく「敵わないな」と呟いたのは気が付かないふりをしておいた。
「ねえ、どうして泣いてたのか、聞いても良い?」
目の前の冷たい暗がりに声を投げ込んだ。
それから、どうしようもない罪悪感が湧いた。胸の中が冷え切りそうだった。
暫くの沈黙の後に、彼はそっと口を開いた。
「神との、仲立ちをしてくれるなら。……罪の告白をしたいから」
消え入りそうな声に、神という言葉に、息が詰まる。
「告解みたいに?」
「そうだね」
「正式な儀式じゃないけど良いの?」
「実際、牧師でも聞くことはあるよ。非公式だからってやっちゃいけない訳じゃない」
「ソウくんが、神様の赦しを求めるの?」
「牧師も一信者に過ぎないから」
それは嘘だ、と思った。いや、絶対の確信があった。
だって、わたしは全部知っていた。
ソウくんはパンをトングで威嚇する癖があること、寝起きの機嫌が悪いこと、太陽が眩しすぎて嫌いなこと、本当は口が悪いこと、普段のゆったりした喋り方が言葉選びの為なこと、フラリと消えては煙草特有の煙っぽい匂いを纏って戻ってくること、聖書の教義を頭だけで捉える無機質な学説のように語ること。
元々神様を信じていないことも、信仰自体を憎んでいたことも、知っていた。
それでも僧侶として自分を切り詰めなきゃいけない訳や背景があることも分かっていた。
そして、そうやって自我を切り詰めていく痛みにきっと耐えられない、ものすごく人間的な人だってことも知っていた。泣いている理由だってすぐに分かった。
わたしは、本当に全部知っていた。
「……わたしが神様との橋渡しをしちゃっても、いいの?」
思考が堰を切る中で、絞り出した言葉に、彼は。
「……おれには、できないから」
きっと寂しそうに笑ったのだろう。
なんだか、無性に泣きたくなった。
「そっかあ」
頷いて、呟いて、考える。
全部知っていて何もしなかったこと、倒錯した感情で恋をしたこと、きっと神様は赦してはくれないだろうから。
いいや、違う。
わたしがそれを赦すような神様を信じてはいないから。
「……うん、わたしとおんなじだね」
これが、正解なのだと思った。
「だから、許すよ。わたしが許すよ、神様も関係なく」
振り返って、その勢いでベッドに乗り上げる。腕を掴んで、無理やり顔を合わせた。
未だに彼の頬を沿う雫に、取り留めもなく言葉が溢れていく。
「神様に赦されても、ソウくんは救われないんでしょう。知ってたよ。全部、知ってた」
色素の薄い目が見開かれる。腕を掴んでいない方の手が、自然と彼の頬へと伸びた。
「だから、ね」
ひたりと左手が濡れた頬を沿う。
「何を信じても、信じなくても。何をしても、しなくても。どんな言葉を選んでも、選ばなくっても。過去も今も未来も、神様も関係なく、許すよ。ソウくんがソウくんでいられるなら、どんな選択でも、わたしが許すよ」
ここまで言ってから、ああでも許すだなんて少し違うなと思って、ううん、と首を横に振った。
「……許したいの。そう。誰よりも、何よりも、きっと神様よりも、一番にわたしが許したかったの。始めから単なる我儘だね」
それでも、と言葉を継ぐ。
「このことは覚えておいてほしいなって思うこと、許して欲しい」
こう言い切ったら、彼は数回瞬いて。それから、こくりと頷いて。そうして俯いてあまりにも静かに、次第に泣きじゃくるものだから。
それがとても寂しくて、つい抱きしめていた。
そして彼は突然のことに拒むでもなく、恐る恐る、そろそろと優しく抱き返すものだから、わたしもなんだかたまらなくなって、泣いてしまった。
まるで子どもの頃に返ったようだった。その時の孤独が、なんとなく満たされるような気がして、もうどうしようもなく涙が止まらなかった。
そうやって、二人、泣き疲れて眠ってしまうまでずっとずっと泣いていた。
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