ある人に息子が二人いた。弟のほうが遺産の生前贈与を求め、父親はそれに応じた。それから弟の方は家を飛び出し、放蕩の限りを尽して素寒貧になった。
そこに運悪く、あるいは必然的な因果で以て、飢饉が起きた。大飢饉だった。日銭などない。くうくう腹を鳴らせど、石ころがパンに変わるわけがない。皆、自分のことで精一杯で雀の涙ほどの恵みもない。豚の餌すら食えない。
いよいよ死ぬしかないと子が考え始めたとき、これもまた一つの因果とも言えるのかもしれないが、ふと目が覚めるような心地がして、捨てていった父親や家族のことを思い出した。そこでこう考えた。罪を犯した以上息子としていられるわけがない。ただの雇い人の一人にして貰えるかどうかも怪しい。しかし、死にたくない。この気持ち伝えずにして死ぬわけにはいかない。
そうして力を振り絞りながら子が元いた場所へと帰ると、父親はまだ遠く離れていたにもかかわらず彼の方へ駆け寄り、抱きしめ接吻で以て迎えた。子は息子として扱われる資格がないと拒むが、父親は「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言い、盛大な祝宴を始めた。
「ルカの福音書のだ。大分脚色したね」
「……なんだ、知ってたんだ」
怪訝そうな声をさして気にも留めず、シオンは食後の紅茶を啜った。
「まあね。お父さんから何回か聞いたことはあるよ」
悔い改めと神の愛の話でしょ、と彼女は付け足しながら、カタンとカップとソーサーを鳴らした。
「へえ、お父さんは信仰してるんだ」
「そう。まあ、わたしは全然だけど」
その一連の動きを対面でじろりと目で追っていた説教者の青年は、ただ苦笑しながらミルクティーに口をつけた。それから、砂糖の量を誤ったのか、やや眉をしかめて、それから口を開いた。
「それもまた珍しいね。親の信仰を継がないのも」
「ん〜、だって神に赦してもらって生きたいわけじゃないし」
シオンが肩をすくめれば、彼はハハと乾いた笑いを零しま。
「少し、羨ましいな」
「放蕩娘が言うことじゃないって思ってるでしょ」
「……うん、まあね」
「やっぱりこういうのって啓蒙したくなるものなの?」
「まあ、説教者としては多少思わなくはない、と言っておこうかな」
「説教者としては、か。明言を避けたね。ソウらしいけど」
揶揄うようにシオンは笑った。そのまま、手持ち無沙汰な手でカップの取っ手を弄くり回す。ツルツルと滑りが良い。
「それで今日の話、聞く意義はあったかな?」
ソウがそう問えば、シオンは手を止めて深く頷いた。
「そりゃあもちろん。専門家の話はいくら聞いてもいいものだよ」
「専門家って……」
「間違いではないでしょ? 一番近くで奉仕するし、ソウのところは祭司とかそういうのないやつだし。必然的に専門家の側面も強くなるものだよ」
「……やたらと詳しいから、逆にやりにくいな」
「はは、言うようになったねえ」
きゃらきゃらと笑えば、ソウは困ったように眉を下げて、目をそっとそらした。
食堂は、十人揃った喧騒が嘘のように静まり返っていた。各々部屋に戻って明日の準備なり、同室の者との親交を深めたりしているのだろう。
カチコチと時計の音がやけに響く。
「脚色には何も言わないんだね」
「ああ、だって私が飽きないようにっていう配慮でしょ? 大体公のでもないし、信心もないから特に気にしないよ。伝われば勝ち」
おずおずと尋ねるソウにあっけらかんと答えて、また紅茶を口にする。既にぬるくなった液体が喉を湿らせていく。レモンの酸味は何処かに消えていた。
「配慮。うん、まあ、そうだね」
「違った?」
「いいや、合ってるよ。うん、大体合ってる」
ソウは口の中で言葉を転がしながら、一人で頷く。自分を置いて何処か別の所で納得しているように見えたが、シオンは何も言わず彼の目元を見ていた。
「でも、何で急にこんなことを?」
こんなことと僧侶らしくない話題の扱い方が一瞬引っかかる。が、大して興味もないからそのまま答えた。
「ミカが良く話してるからさ、じゃあ一回聞いてみよっかなって」
爛々と輝くミカの瞳が思い出される。同室になる度、毎晩、何かを呟いては祈っている姿は美しいな、と思う。敬虔で、いじらしくて、純朴で。そして、孤独だ。全てから切り離されたその瞬間は、信仰の足元に伸びる影を踏ませすらしない。
それはソウについて話しているときも同様だった。
「信心なんてないけど、興味はあるんだよね。何かを信仰するってどういうことかって。その裏にある訳も知りたいし」
だったら、と言葉を一旦切る。
持ったままのカップの取っ手の付け根、そこの小さく出っ張った部分をひっかく爪は、どこにも引っかかることなくつるりと滑っていく。
「だったら、ソウに聞くのがわかりやすいかなって。実際神を信仰して、奉仕までしているんだし。それだけ」
「……なら、適任だろうね」
「でしょ〜?」
にこやかに笑っているシオンとは対照的に、ソウは困ったように小さく息を吐く。視線は未だシオンの元へと戻ってこない。
カチコチと秒針が鳴る。
「さっきの放蕩息子の譬え、あれで気になることがあるんだけどさ」
「何?」
「ああいう神の愛って本当にあるの?」
出し抜けに根本的な問いを口にすれば、ソウは一瞬目を見開いた。それから、とってつけたように困り眉の微笑をたたえて、こう言った。
「勿論あるよ。神は世を愛するし、人間を愛している。ないことはないよ。皆、神との関係のもとで生きているし、なかったら行動の辻褄が合わなくて困る」
神は世を愛する、とはどの言葉だっただろうか。出典を考えそうになって、シオンはそっと瞼を下ろす。そんなことはどうでもいい。わたしが聞きたかったのは。
頭の中を整理して、目を開ける。
「教義的な理屈とか記述とか、そういうの抜きで、現実世界でも実際に感じられるものなの?」
声のトーンを一つ落として、改めて問いかければ、ソウは微笑を顔に乗せたまま、淡々と答えた。
「教義なくして語れることじゃないと思うけど」
「でも感覚に教義は必要ないんじゃない? 感覚を当てはめることはあっても、それが先立つことは早々ないと思うけど」
「何が神の赦しか、恩寵か、それを判断するには予め目を開かないといけない」
「……それが信仰ってこと?」
「そう言えるかもね」
「神の愛は万人に開かれているのに?」
「ものの価値を知らなかったら見ようとしないでしょ」
なるほどね、とシオンは呟いた。これはこれで、理には適っている。
残り少ない紅茶の赤い水面が微かに揺れた。
「じゃあ、ソウは実際に神を見たことがあるの?」
最後の一手を詰めようと口を開けば、微笑をたたえていた彼の口端がピクリと引きつった。笑みが段々と崩壊していって無になる。
それからゆっくりと彼は目を閉じて、たっぷりと間が空いた。シオンは黙って彼を見つめていた。
カチコチという音を十数回聞いて、漸く薄く目を開いた。
「……あるよ。おれだって」
ふーん、と気のなさそうなシオンの返事が漏れた。
「そう言う割には」
言葉の節々に、教典の扱い方に、弱々しい呟きに、鈍く光るだけの目に。敬虔さも、いじらしさも、純朴さもない。
シオンが言葉の先を続けようとしたとき、いじくり回していたカップの取っ手が漸く指紋の溝に引っかかる感覚がした。我にかえる感覚とよく似ていた。
そのままカップを持ち上げ、中身を飲み干した。ぬるさも抜けかけたそれは、体内の熱にそそくさと慣れていった。
「やっぱりなんでもな〜い。忘れて」
カップから口を離し、シオンは落とした声ももとに戻しておどけるように笑った。驚いたような冷めた視線が向けられても、彼女は気にもせずに続けた。
「いい勉強になったよ」
「……なら、良かったけど」
沈むソウの声に反して、彼の表情自体はいつも通り柔らかくなっていた。
「カップ、片付ける?」
「いや、いいよ。自分でやる」
「そう」
テキパキとカップを流しに持っていってドアの前に立ったかと思えば、彼女はふと口を開いた。
「そういえば、この譬えって、最後お兄さんがバチバチに怒るじゃん?」
世俗的に装飾しすぎた言葉にソウが口元を押さえる。
「……まあ、そうだね。今まで仕えてきたのにって、怒ってたね」
言葉尻が微かに震えていた。どうやら笑いをこらえているようだった。
「その仕えるって言葉には、愛をもって仕えるの意味合いはないって聞いたことがあるけど、どうなの?」
ソウは目を微かに見開き、それから緩く口角をあげた。
「……うん。隷属とか、そういう意味合いだとおれは思ってる」
「そっか。放蕩息子は二人いたってことか」
「……確かに。そうとも取れるね」
はは、とどちらともなく笑って、静寂に溶けた。
「他に何かある?」
しんみりとした静けさが戻ってきたとき、ソウが尋ねた。きっと職業柄、そういったことが気になるのだろう。シオンは軽く首を振って、
「いーや、それだけ」とドアのノブを捻りながら答えた。
「じゃあわたしは戻るね。あっ、ミカにはあの顔見せないほうがいいよ〜」
振り返ってシオンが言えば、「はいはい」とため息まじりの声が返ってきた。それを聞いてから食堂を出る。
外は深夜の様相を呈していた。足音がやたらと響く。そっと浮き上がって進む。
薄暗い廊下の中で、彼は今晩、ミカに何を話すのだろうと思った。
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