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真崎
2023-12-29 13:13:37
10798文字
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卓SS
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とある復讐者のエピローグ②
※バイオレンス&流血注意 ※CoCの世界の警察は多忙だし、如月執は犯罪者歴4年のプロなので、この二人がどれだけ騒いでも通報前にその場を離れて追っ手を撒くことができるものとする
それからしばらくして。
兄貴が持ってきた「わ」ナンバーの車に乗せられた俺は、しばらくのドライブの果て、家から離れた公園のベンチでピザまんを頬張っていた。まだそこまで遅い時間ではないが、寒いこともあってか、人はいない。
「ふぉうははにぬはんははっへおぼっふぇふぁ」
隣で肉まん食ってる兄貴を除いては。
「食べてから話しなよ、行儀悪い」
「んぐ
……
ごめんごめん。奏太は肉まん派だって思ってた、って言いたくて」
「どっちも好きだし食べるよ。ただ、今日はピザまんの気分だった」
「ふふ、そっか。あ、お茶いる?」
「うん」
手渡されたペットボトルのほうじ茶を一口。身体が芯から温まる。
兄貴と俺は兄弟仲が良い方だとは思うけれど、歳の差があるし、俺が塾とかで夜にも出歩くようになった頃には、兄貴は大学のために実家を出ていたので、こう二人で夜に買い食いなんてしたことなかった気がする。初めてかもしれない。
……
それにしても。
「外で話がしたい」なんて言って俺を連れ出した割に、車でもここでも、兄貴は当たり障りのない話ばかりをしている。でも、まあ
……
このままでもいいかもしれない。兄貴が話そうとしてる話は気になるけれど、これはこれで楽しいし、明日もいてくれるみたいだし。
「ご馳走様」
「美味しかったね」
立ち上がった兄貴は、俺から受け取ったゴミを丸めて放り投げる。緩やかな弧を描いたそれが、遠くのゴミ箱に吸い込まれ、俺が思わず歓声を上げたところで、
「
――
あのさ、奏太」
そんな言葉で、兄貴は切り出す。ピザまんとほうじ茶で緩く温まった空間に、冷たい一太刀が入ったのを感じた。
くるりとこちらに向き直った兄貴。俺はまだ座っているので、彼を見上げるかたちになる。
「
……
いつか、二人でおかしなことに巻き込まれたの、覚えてる? 僕ら、目が覚めたらこう
……
手錠で繋がれててさ」
「ああ」
頷き、その日の情景を思い出す。おかしな部屋。手錠。不穏な器具の並ぶ手術台。それと
……
「
……
死体、が
……
あったよね」
「ああ、死んでたな」
そう、死体もあった。うんうん、と頷いて兄貴の方を見やって
――
息を呑む。
「兄、貴
……
?」
兄貴はまっすぐに俺の方を見つめていた。でも、先程まで俺に向けていたものとは全く違う眼差しだ。
彼が抱いている感情が何なのかはわからない。混沌としていて、読み取れない。ただ一つわかることは
……
今まで俺に向けたことなど一度もない、負の感情だということだ。
「やっぱり、そうなんだね」
「いや、やっぱりって何だよ」
「どうしてあの時も今も、落ち着いていられるの?」
「え?」
言われていることの意味がよくわからない。どうして? どうしてと言われても
……
目の前には死体があるな、って状況を受け入れたから、とか? 返事のしようがない。
しばしの沈黙があったので、兄貴は俺の言葉を待っていたのかもしれない。でも、こちらが何も言わないのを見かねてか、続きを語る。
「死体なんて、ただの学生の君が見慣れてるわけがない。しかも、あんな状態の死体だよ」
まあ、言われてみればそうかもしれない。
「裏社会で外科医をしている僕でさえ
……
酷い死体を見る立場の僕でさえ驚いたのに
……
君は顔色一つ変えなかった。それで言い放ったんだ、『なんだ死体か』
……
って」
そんなことも言ったかもしれない。でも、
「いや兄貴。よく考えてみろよ」
手を挙げて兄の言葉を制す。
「あんな状況なら、死体の一つや二つ、あってもおかしくないだろ。変な化け物が潜んでて襲い掛かってくるより断然マシじゃないか? 実害がないんだから」
「奏太
……
!?」
その呼びかけに咎めるような、諌めるようなものを感じる。それは、心外だ。
「
……
なんだよ。俺に驚いてほしかったのか? 驚いて、使い物にならなくなってそのまま、あそこから出られなくなることを兄貴は望んでたのか?」
「違う。僕は、二人ともちゃんと元に戻れることを望んでた」
「じゃあ、目的は達成。よかったじゃん」
「よくないよ」
俺の主張は、あまりにもきっぱりと切り捨てられる。
「あんな狂った危ない世界にいるのは、おかしなことを知るのは、君のすべきことじゃない。君は陽の当たる安全な場所で生きていくべきなんだ」
「
……
何言ってんの、ずっと」
狂った世界だとか、陽の当たる場所だとか、なんの話だ。
「話が抽象的すぎだ。何を主張したいのかはわかんないけど、俺を説き伏せるつもりなら、ちゃんと伝えろ」
「
……
そうだね。わかったよ」
そんな台詞で俺の言葉を受け止めると、兄貴は語りだす。
「この世界には、常識で説明のつかない危険が存在する。化け物だったり、不思議な呪文だったり。僕らは化け物のことを“病魔”って呼んでる」
「病魔
……
神話生物のことだな?」
「うん。そう呼ぶ人もいるね」
病魔の呼びの方がイレギュラーな気がするけれど、この状況でのツッコミは野暮なので黙っておく。
……
というか、病魔って呼び方、重信先輩もしていたような気がする。医学を齧っている人らは、あいつらをそう呼ぶものなんだろうか。
「病魔や冒涜的な存在は、多くの人は気づかないし関わらないけれど確かに存在していて
……
僕は、あれらに関わってしまうかどうかは運だと思ってる。運が悪いと、ちょっとしたきっかけで巻き込まれて、関わるようになる」
『なあなあ如月。“猿夢”って知ってる?』
いつだかの講義の終わり、友人から投げられた雑談。その日の夜、あいつから聞いた“猿夢”の話を思い出し、あわよくば俺も恐ろしい夢を見てみたいと願いながら眠りについたのが、全てのはじまりだった。
「奏太も、関わってるんだよね。
……
いや、関わってるだけじゃない。自分からそういうことに首を突っ込んで、たくさん知っちゃってるんじゃない? そうじゃなくちゃ、あの死体を冷静に処理できないし、夢見のことだって知らないでしょう?」
返事はしなかったが、俺の沈黙は肯定として取られたようだ。「やっぱり、そうか」とため息を一つ吐き、続きを語る。
「あれらは危ない。奏太があれについて知ろうとしている理由はわからないけど、君には危ない目に遭ってほしくないんだ」
よく知ってるよ、あいつらが危ないことは。
「僕、家を出た時から、願ってたんだ。君はまっとうに生きてほしいって。あの時は、犯罪者なんかに関わらずに普通で幸せな人生を送ってほしい、って意味だったけれど
……
今は、それだけじゃない」
わかってたよ、兄貴が俺の幸せを願ってくれてたってこと。
「あれらは、息をするくらい普通に命を刈りとってくるし、
……
僕らの
精神
こころ
を砕いてくるんだ」
ああ、気づいてた。あいつらを知るたび、俺の中の何かが少しずつ削れていること。
「だから、奏太はあいつらにこれ以上関わらないで。
……
避けて、逃げて、僕ら他の人に託すんだ」
全部わかってる。冒涜的な存在に関わることの危なさも、兄貴が俺の身を案じる気持ちも。
だから、だからこそ、
「
――
遅い」
たった三文字で、俺は兄貴を全否定する。
「
……
まだ間に合うよ。君にはまだ命と正気が残ってる」
「いや、手遅れだよ」
「そんなことない。大丈夫だよ、これからは
――
」
「違う!」
俺の声が、夜の冬の空気を震わせる。
「もう、もう、俺は全部終わっちまったんだよ! 俺のことを助けるつもりなら、どうしてもっと早く来てくれなかったんだよ! 兄ちゃんがもっと早く来てくれたら、きっとこんなことにはならなかった!」
違う。俺が本当に言いたいことは、こんなことじゃない。
だけど俺の口からは、苦しみが、恨みが、無力感が、そして寂しさが吐き出されて止まらない。
「お前がいたら! 菫ちゃんと薫ちゃんはあんな目に遭わずに済んだかもしれない! 俺はッ、俺は! 誰にも理解されない復讐心を抱えて終わらなくて済んだのに!」
俺の勢いに気圧されているのか、それとも聞きに徹しているのか、兄貴は何も語らない。その沈黙が、俺の感情と言葉を加速させる。
「その間、お前は何してたんだよ! 俺が苦しんで恨んで怒ってた時に、何してたんだよッ!」
俺の咆哮は、闇夜に響き、消えていく。吠える俺とは対照的に、
「
……
そう、だったんだ」
静かな声で、兄貴は搾り出す。
「僕、報道で見たんだ、菫ちゃんのニュース。
……
あれは病魔のせいだったんだね」
「ああ。シュブ=ニグラスが
……
あの女が、あの子達をあんな目に遭わせたんだ」
「シュブ=ニグラス
……
」
俺の言葉に考え込む兄貴。どうやら、あいつのことは知らないらしい。でも、どっちでもいい。知ってても知らなくても結果は変わらない。
「それ以来俺は、あいつに復讐を誓って、あらゆる知識を得てきた。
……
そして、復讐は終わった。俺は、あいつを倒した」
あの日あいつを殴りつけた拳を、じっと見つめる。
「何もかも、終わったんだ。全部終わった今になって、ようやくお前は現れた。
……
だから、俺に何かしようとしたところで、もう遅いんだよ」
その言葉を最後に、俺たちの間には沈黙が満ちた。
――
しばしの果て、その沈黙を破ったのは、
「そうだね」
兄貴による、穏やかな肯定の言葉だった。
「僕の行動は今更だ。全部後手だった。君のことも、菫ちゃんたちのことも助けられなかった。君が一番辛い時に、僕は寄り添えなかった。
……
本当に、申し訳ないと思う」
「そうだ! そうだよ!」
「でもね」
兄貴は先ほどと同じ穏やかさで、けれども確かに、俺を否定する。見下ろすその眼に、強い、強い決意を湛えて、さらなる言葉を口にする。
「これからは、未来は変えられる。奏太をここから追い出すことはできる。これ以上、君が冒涜的なものに飲まれて取り返しがつかなくなる前に」
「なっ
…………
」
兄貴のその決意は、言葉は、俺とってはあまりにも眩しすぎて、恐ろしいほど、正義と正論であって。そして
――
悍ましさすら感じるほど真っ直ぐに、
前
未来
だけを見ていた。
「黙れよッ!」
そう吠えた後の俺の動きは、衝動的で感情的だった。ベンチから立ち上がり、兄貴に殴りかかる。だけど、空手習いたての俺が準備もなしに急に動いたところで、上手く立ち回れるわけがない。
「だめだよ、奏太」
中途半端な勢いで放たれた拳は、兄貴の目の前で軽く払われる。いなされた勢いで崩れかけた態勢を整えて、俺は叫ぶ。
「いきなり戻ってきて、追い出すとか守るとか! なんで、なんでそんな勝手なんだよ!」
「さっき言ったでしょ。
――
僕は闇医者、犯罪者だ」
すっ、と、兄貴が右手を挙げる。どういう意図なのかはわからないが、目の前で掲げられたその手を、俺は呆然と見上げていた。
なんで手を挙げてるんだろう。ハイタッチでもするつもりなのかな、こんなシチュエーションで。
「犯罪者は、勝手なものだよ」
その言葉とともに、掲げられていた手が急降下する。すごく速い。そらそうだ、こいつ野球してたしなあ。球もめちゃくちゃ速くて
――
ばちん。
ゼロ距離で発生した音が夜の公園に響いて、そこから刹那遅れて、左頬に刺すような痛みを感じて
……
そこでようやく俺は、“兄貴に叩かれた”のだということを理解した。
「えっ
…………
?」
頭では理解できるけれど、心では飲み込めない。その重たい一撃に波打つように歪む視界の先、
「
……
覚悟、してきたんだ」
じっ、と右手を握りしめて、こちらを見据える兄貴がいた。
「引っぱたいてでも、もっと嫌われてでも、君を助け出すって。これ以上、君を病魔とは関わらせないって」
徐々に元の様相を取り戻す視界の中、あまりにも強い決意を、光る未来だけを湛えた瞳を俺は確かに見た。
「君の命も心も、守るんだ。
……
奏太が、僕と同じ轍を踏む前に!」
◇
「同じ、轍
……
?」
何を言っているんだ、こいつは。俺の何を知って発言してるんだ、こいつは。
俺を“神話生物に関わらせないようにする”なんて、呑気で綺麗すぎる絵空事を大真面目に唱えるこいつが冒涜的なものたちと関わってきた道程は、俺より過酷なわけはない。後ろを走っているのは、轍を踏まないようにするのは、お前の方だ。
ひりつく左頬の痛みを堪えて、口の中に広がる鉄の味を飲み込んで、俺はもう一度拳を固め、兄貴に向かって振り抜く。
俺の動きに対する兄貴の反応速度は目を見張るものがあったし、後方に下がって俺の腕の範囲から離脱するその動作だって、完璧なものだったんだと思う。
――
彼の後方を遮る、ゴミ箱すらなければ。
「ぎゃうっ!」
無様な悲鳴を上げて、ゴミ箱を倒しながら自らもずっこける兄貴。
……
こんな盛大に倒れたら、避けられるものも避けられないだろう。
ああ、本当に、兄ちゃんの微妙にカッコつかないところは相変わらずだなぁ。なんやかんや、神話生物だとかカルティスト以外を殴るの、初めてかもしれないなぁ。教えてくれた空手で兄ちゃんのこと殴ったって知ったら、園田さんどう思うんだろうか。
……
殴ったら、すごく痛いんだろうな。今から平手にできないかな
……
ああ、無理だ。
思考は目まぐるしく移り変わるけれど、俺の拳は真っ直ぐに兄貴に向かう。こけたままの兄貴は、俺から目を逸らさない。
……
そして、まっすぐにこちらに右手を掲げて、一言叫ぶ。
「
――
バースト!」
迷いこそあったけれど、俺の拳は、完璧だったはずだ。
「えっ?」
だけど、俺の攻撃は、兄貴に当たることはなかった。まるで、突風に煽られたように、見えない腕に強引に引っぱられたかのように、俺の腕は脈絡のない右方面の軌道を描いて空ぶった。
困惑する中、兄貴の掲げた腕が下ろされるのを見つけて、そしてさっき兄貴が口走っていた不可思議な単語を思い出して
――
一つの結論に辿り着く。
「魔術
……
! 兄ちゃん、いつの間に
旧神
バースト
の加護なんか
……
!?」
「その説明をするのは、奏太を止めた後かな
……
っ!」
想定外だ。まさか兄貴がバーストと繋がりがあるなんて。“被害をそらす”呪文が使えるなんて。
「くそ
……
」
ダメだ。あいつがあと何回呪文を使えるかはわからないけれど、あれがある限り、俺の拳は届かない。運動神経はあっちの方が上だから、このままじゃジリ貧だ。勝ち目がない。
いや。
諦めかけた己の思考を否定する。たった一つだけれど、対抗策はある。記憶が確かなら、あの呪文が逸らせるのは物理的な攻撃だけ。物理で敵わなかったとしても、俺にはあれがある。
「
……
恨むなよ」
ゴミ箱の群れから起き上がった兄貴に吐き捨てる。
「先に呪文使ったの、そっちだからな!」
――
唱えるのは、俺が最初に覚え、身につけた呪文。
「まさか、それ
……
!」
それを聞いた兄貴の顔色が、明らかに変わる。
「そんなの使っちゃだめだよ、そんな、人を傷つけるための魔術なんて!」
ああ、知ってるんだ、これ。俺が思ってた以上に、詳しいんだな。
なら、尚更やめられない。
掴みかかろうとこちらに伸びてくる腕を掻い潜る。
……
今度は、避けられる。さっき避けられなかったのは、思い出が、思い込みが枷になったせいだ。もう、油断はしない。
散々戦いに巻き込まれてきて、隣で見てきたんだ、園田さんや勅使河原先輩が戦っている様を。あの二人に比べたら、兄貴の動きは全然見切れる。攻撃を避けること自体は上手いのかもしれないけれど、格闘に関しては俺以下の素人。
……
犯罪者だって粋がってるくせに、荒事が苦手なままなんだろう。
詠唱が終わる。兄貴は俺の視界に映っている。つまり、呪文の射程内。俺は兄貴を見据え、念ずる。
魔術で生み出したそれは、術者の俺にも見ることはできない。
けれど、それが確実に発動したのだということは、魔術の代償である気怠さと、そして
――
「ぐ、ああっ!?」
兄貴の左肩に突然走った一筋の切り傷が、はっきりと証明していた。
「あ、あ
……
」
赤い筋からさらに赤が滲み出る様を、腕を抑え呆然とする兄貴を目の当たりにしながら、俺は言葉を失っていた。
“幽体の剃刀”。魔力で作り上げた刃を飛ばす魔術。
その射程はハンドガン並みで、術者が視認できる対象を切り付けることができる。そして、不可視ゆえに、魔術であるがゆえに、この斬撃は回避も逸らすこともできない。
そう。呪文への知識は、あった。使ったら何が起こるか、どうなるか、わかっていた。わかっていた、けれど、俺は、
「奏太ッ!」
思考を断つのは、名前を呼ぶ声。いつの間にやら、肉薄する兄貴がいた。痛みのせいだろうか、表情を歪めつつも、まっすぐこっちに向かって来ている。
「あっ」
「ごめんね。覚悟して」
返事も、防御動作も間に合わないうちに、鳩尾に衝撃が走る。
「ッッ!」
激しい痛みは、悲鳴を上げることすら許してくれない。後方に跳ね飛ばされ、コンクリートの固い地面に投げ飛ばされた身体は、滑稽なくらいにごろごろ転がって、やがて何か大きくて眩しい無機質な何かにぶつかって止まる。
「う、が
……
あっ
――
」
脳が揺れる。視界が回る。襲ってくる吐き気と全身の痛みが、俺の意識を深い暗闇へと誘う。
なあ、もうこんなことやめて、眠っちゃっていいんじゃないか? その方が楽だろ。俺にしちゃあ、よく頑張ったよ。
「んなわけ
……
ねぇだろ
……
!」
甘く囁いた声を跳ね除けて、手放しかけた思考を、意識を、手繰り寄せる。
手繰り寄せて、立て直して、研ぎ澄まして。先にぶつかったもの
――
自販機だった
――
に凭れ体勢を立て直し、俺はまた、目の前の敵を睨む。
ああ。殺さないと。殺される前に。
殺意が、視線が、刃に変わる。
「ッッああああ!」
先ほどよりも深く刃が突き刺さったのだろうか、あいつはより大きな悲鳴を上げる。
「っう
……
っ、だめ、だって
……
!」
こちらに掴みかかろうとしたあいつの血みどろの右手は、俺の横を掠めて外れる。固い拳が、背後の自販機を鈍く鳴らす。
狙いは、目と鼻の先。
「
……
これで終わりだ」
三度目の刃が、放たれる。
◇
――
なんで、俺はこんなことしてるんだっけ。なんで、こんなに苦しくて痛い目に遭っているんだっけ。
そりゃ、このまま抗わないと殺されるからだろ。だから歯を食いしばって、戦うしかないんだよ。
――
殺されるって、誰に?
決まってるだろ、あいつにだよ。兄貴に、如月執にだよ。
――
本当に? 本当に、俺のことを殺そうとしてたのか?
そうだろ。全力で殴りつけてきたんだぞ、あいつ。
――
でも、俺のことを助けるって何度も言ってた。
…………
そんなの、嘘だ。油断させるための作戦だ。抵抗しなきゃ、今頃
――
「そう
……
た
……
」
思考を断ったのは、俺の名前を呼ぶ声。さっき自販機を殴りつけた体勢そのままに、あいつは俺を見上げている。
……
さっきと、眼差しが違う。先ほどまで向けていた決意も希望も、もうそこにはなくて、ただただ、瞳は暗く虚ろだった。
そして、
「ご、めん
……
ね
……
」
切れ切れな謝罪の言葉の直後、どしゃり、というような重たいものが落ちる音。それを最後に、公園には静けさが満ちる。
「あ
……
れ
……
」
足元を、見下ろす。
「そっ、え
……
、ま、待って」
じわり、じわりと、地面に赤が広がって。
「ちが、ちがう、そんな、やだ、俺は」
あいつは、兄貴は、倒れ伏していて。
「やめ、やめて、いや、いやだ
……
」
人形のように、動かなかった。
「あ、うあ、あああああああ!」
驚きと恐怖と罪悪感と、そして絶望が、俺を叫ばせ夜のしじまを割く。
「兄ちゃん、兄ちゃん! 兄ちゃんッ!」
がむしゃらに身体に縋りつき呼びかけるが、返事はない。
死んだ、死んでしまった、兄ちゃんが、俺のせいで、俺が、俺が、俺が俺が俺が俺が殺した殺した殺した殺し
――
「あ、れ
……
」
飛来した何かの予感に、口を噤む。兄ちゃんは相変わらず呼びかけても返事をしない。その目は開かない。
……
だけど、縋った身体から、とくん、とくん、という、弱いけれど規則的なリズムを感じる。耳を澄ますと、聞こえてくるのは浅い呼吸。
……
つまり、
「生きてる!」
なら落ち着け俺! 喚いてる場合じゃない!
「兄ちゃん、まだ助かる!」
冷静になれ、考えることを止めるな! 最善の行動を取り続けろ。まずやるべきことは
……
!
思い立ち、ベンチに放置されていた兄貴の鞄をひっくり返す。財布やら握力用のグリップやら、何故か入っていた猫のぬいぐるみやらの雑多なものが落ち切った後にどさりと落ちてきたのは、十字のマークが入ったかなり大きな赤いポーチ。予想通りだ、応急手当セット、持ってた!
寒さと緊張で震える手でチャックを開けると、医療用具が顔を覗かせる。俺には使いこなせないであろうものから、使い方すらわからないものもあるが、目当てのものも確かにあった。
「とにかく、血を止めないと
……
だよな
……
!?」
一番大きく、出血量の多そうな傷にタオルを押し付ける。多分、今一番起こりえるのは失血死だ。とにかく血を止めないと!
「頼む、頼む頼む頼む、頼むよ
……
!」
じわじわと侵食していく赤を睨みながら、ただひたすらに懇願する。
「起きて、死なないで、死なないで
……
!」
今の俺には思いついたこの方法をすることと、祈ることしかできない。
嫌だ、ごめんなさい、お願い、本当にごめんなさい、頼む、頼む、お願
――
「
……
あ、れ?」
声がする。腕に縋っていた顔を上げる。
――
視線がぶつかる。
「兄ちゃん!」
「
……
そう、た?
……
えっと、僕
……
」
声も目も眠そうだけど、意識はある、こっちに戻ってきてる
……
!
「ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい
……
! 俺、俺
……
!」
ひたすらまくしたてる俺の言葉を夢現に聞いていた兄貴だったが、出し抜けに「あ」と声を上げ起き上がる。
「ちょっと待って奏太」
「起きるなって、無茶すんな!」
「僕のことはいいから。あーってして」
「よくねぇよ!?」
全く意味のわからない申し出だ。口を開けろって意味? どうして今。そんなことしてる場合じゃないだろ。
「いいから早くして」
先程の口調と態度から打って変わって、どこか怒気
……
いや、焦りを含んだような言葉。
気圧されるように口を開けると、こちらに向けられるのはスマホのライト。眩しさと意味のわからなさで固まる俺に、「ああ
……
やっぱり
……
」と心底申し訳なさそうに兄貴は呟く。
「口の中切れてるね
……
ごめん
……
」
「ばっ
……
!?」
「でも歯は折れてないね、よかった。
……
あ、腹部は? 吐き気や気分の悪さはある? 内臓や急所は避けるようにしたつもりだけど」
予想だにしない言葉たちに、胸のあたりがぐちゃぐちゃになる感覚がする。
「なんで
……
」
「ん?」
「なんで、なんでこの期に及んで俺なんかのことなんだよ!」
「奏太は大事な弟だから」
まっすぐにこちらを向いて即答してくる。本当に何言ってんだよ。お前を殺そうとした奴だよ、俺は。
「馬鹿なの!? こんな奴に構ってないで自分の心配をしてくれって!」
「へへ、大丈夫。僕、こんなことじゃ死なないよ。今の僕は医者だし、お兄ちゃんだからさ」
「何そんな馬鹿なこと言ってんだよ! 大怪我してんのに!」
「根拠はあるよ。本当に死んじゃった時と比べたら、こんなのどうってことない」
「
……
え
……
?」
死んじゃった時?
「言ったでしょ、同じ轍は踏ませないって。そういうことだよ」
「え、え?」
言わんとしていることはわかる。でも、意味が全くわからない。飲み込めない。
兄貴が、死んだ? じゃあ、さっき目の前で死にかけていたのは? 今こうして俺と話しているのは?
「奏太の命も、心も、絶対守るし、それに
――
」
俺を置き去りにしつつ語る兄貴の口調には、先ほど相対した時と同じような、強く、そして狂気的な決意がまた宿っていて。
「奏太を絶対に
こっちの世界に来させない
犯罪者になんてさせない
。君は明るい世界で生きるべき子だから。だからこそ、僕は死なない。君に人は殺させない」
その勢いに圧倒された俺にできることは、何ひとつ理解できないまま、ただ頷くことだけだった。
「
……
あ、ごめん、念のため。僕はちゃんと生きてるから安心して。元気だよ」
「え、あ、あ
……
よ、よかった
……
?」
「ええと、こんな中途半端にしないで、きちんと説明したいけど
……
今は無理だね。長居出来そうにないから」
「う、うん
……
兄貴、怪我してるから
……
」
「違うよ」
否定の言葉こそ穏やかだったが、その表情には薄っすらと焦りが浮かんでいた。
「僕らちょっと、騒ぎすぎちゃった、かも。そろそろ、警察が来ちゃう気がする」
「警察
……
」
いつもは言われても全く何も感じないフレーズに、心臓が早鐘を打つ。
「じゃ、じゃあ、早く行かないと。見つかっちゃう前にさ!」
そう伝えて、速足で車の方に向か
――
おうとしたところで、追ってくる兄貴の気配がないことに気づいた。
「兄貴?」
兄貴はまだ、先程の場所に佇んでいた。
……
その表情には焦りがまだあるけれど
……
何だろう、妙に達観したというか、腹を括ったというか
……
そんな雰囲気も感じて。
「奏太、さ」
そんなないまぜの表情をにこやかな笑顔で隠して、とんでもないことを口にする。
「僕のこと、置いて行ってもいいよ。そうしたら、君は安全にここから離脱できる」
「っ、馬鹿なこと言うなよッ!」
『騒ぎすぎ』に追い打ちをかけるような俺の大声が、静かな公園に響き渡る。
「置いてくわけないだろ、笑えねー冗談言うんじゃねぇよ! 一緒に行くんだよ! 兄ちゃんがついて来ないって言うなら俺、無理やり引っ張ってでも連れていく!」
「へへ、そっか
……
ごめんね、ありがとう」
兄貴は相変わらず、ニコニコと笑みを浮かべている。
……
でも、その笑顔に、深い安堵の色が見えたのは、きっと気のせいじゃないと思う。
「奏太
……
免許、持ってるんだよね?」
「一応、運転はできるけど」
「なら上出来」
そんな言葉で彼がポケットから取り出したのは、血と泥に塗れた車のキーだ。
「僕がナビするから、一緒に逃げてくれる?」
震える手を差し伸べた俺に鍵を握らせ、兄貴は静かに行先を告げる。
「僕の家まで、行ってほしいんだ」
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